mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

天与の差異はいたし方ないか

2015-05-19 19:57:15 | 日記

 『中央公論』6月号に「学力格差とどう向き合うか」という対談を、耳塚寛明(お茶の水女子大学教授)と前川喜平(文部科学審議官)が行っている。「子どもたちのスタートラインが不平等な社会で」とサブタイトルを付けている。耳塚氏はいいとして、文科省の審議官がこういう話に乗っているというのは、文科省も変わり始めたのかなと思わせる。

 

 だが話の中身よりも、耳塚氏が拾っているデータが興味深い。

 

 「図1 学校教育費支出別、算数学力平均値(小6)」では、0円、1万円未満、3万円未満、3~5万円未満、5万円以上の階層に分けて、平均値を示している。当然のように、支出が多いほど平均値は高い。「0円……35.3」に対して、「5万円以上……78.4」と、2.2倍以上の開きがある。塾などにつぎ込んでいる分だけ、「成果」は出ているというわけだ。

 

 「図2 保護者学歴期待別、算数平均値(小6)」では、「中学」と「高校」は数値が逆になっているが、ほぼいずれも「31.0」なのに対して、「大学」は「54.7」と1.8倍ほど、「大学院」は「76.8」と、2.5倍に近い差が出ている。「大学」と「大学院」の差は大学の大衆化の影響と言えるであろう。子どもに「期待」をかける分だけ親もまた、(経済的な負担だけでなく)「文化的な資産」のオーラも出し続けてきていると読むことができる。

 

 上記二つのデータは、しかし、従来の経験的常識を追認しているにすぎない。興味深いのは、文科省の学力テスト(小6)の解析に、SES(Socio-Economic Status)を組み込んで、正答率を比較できるようにしていることである。
 SESというのは、親の年収から、Lower、Lower-Middle、Upper-Middle、Highest の4階層に分け、学力テストの正答率を割り出している。

 

 「図3 SESと正答率」(小6)では、Lower/Highestを書くテストごとに比較すると、国語A「53.9/72.7」、国語B「39.9/60.0」、数学A「68.6/85.4」、数学B「47.7/70.3」とある。単純に倍数計算をすると、「H/L」は、国A「1.3」、国B「1.5」、数A「1.24」、数B「1.48」となる。各科目の「B」は応用力というから、ベーシックな言語、計算能力においては、それほどの差ではないが、「応用力」においては5割近い開きが出ている、と言える。つまり学校教育の基礎基本部分では、学力格差の開きが出ないような教育が行われているとは言える。では、「応用力」の差は、「学習時間」によるのであろうか。


               
 「図4 平日の家庭学習の時間と各正答率」(小6)では、「3時間以上」「3未満~2時間以上」「2未満~1時間以上」「1時間未満」「30分未満」「ゼロ時間」と6段階に分けて比較している。それによって「3時間以上」と「ゼロ時間」を取り出して比較すると、国A「72.4/50.6」、国B「58.0/36.1」、数A「83.6/64.9」、数B「68.3/43.7」とある。倍数計算をすると、国A「1.4」、国B「1.6」、数A「1.29」、数B「1.56」と、これも、「図3」のSESと似たような差異を示している。これだけをみると、「頑張ればできる」という評価をしてもよさそうに見える。

 

 ところが耳塚データがオモシロイのは、上記の両者を組み合わせて、「図5 SESごとの家庭学習時間別の各正答率」(小6)を出している点である。それによって各SESごとの学習時間別の正答率を「3時間以上/ゼロ時間」で、表示すると、Lower「58.9/43.7」、Lower-Middle「63.2/51.2」、Upper-Middle「68.7/56.7」、Highest「80.6/60.5」となっている。この学習時間の最高と最低の比をみると、Lower「1.34」、Lower-Middle「1.23」、Upper-Middle「1.2」、Highest「1.16」と、SESが低いほど、「努力の効果」が出ていることがわかる。

 

 ところが、Lowerの「3時間以上」の正答率「68.7」は、Highestの「ゼロ時間」の正答率「60.5」に及ばないことに注目してほしい。もちろんこれを、遺伝子的「才能」のせいにしても構いはしないが、幼少時からの環境がもつ「文化的資産」のもたらすものと考えるのが、社会的教育論の次元においては妥当であろう。なぜ「構いはしない」と言ったか。「生まれによる」という意味では、同じことを指しているからである。

 

 耳塚も指摘していることだが、データはあくまでも「平均値」である。生データのばらつきを考えると、LowerのクラスからHighestの平均値を超えるものがいても不思議ではない。だから、階層を超えて飛び出してくるものがいることは、まったく否定されているわけではない。それが統計データを読み取るときの最も気をつけなければならない点であるが、社会教育論的に「格差」を論じて社会政策を考えるときには、ばらつきに配慮しなくてよい。

 

 このデータが重要なのは、「頑張ればできる」ということが統計的には否定されうるということである。ここからがじつは、この対談のスタート地点になるはずであったが、ここがほぼ結論的な到達点になっている。

 

 耳塚は、もう一つデータを出して、そこを超えようとしている。それが次の、朝日新聞=ベネッセ教育研究開発センターの2013年調査「所得の多い家庭の子どもの方がよりよい教育をうけられる傾向」に関する世論調査である。それによると、「当然だ……6.3%」「やむをえない……52.8%」「問題だ……39.1%」と、過半数が「現状」を肯定している。ところが2008年調査によると、「当然だ……3.9%」「やむをえない……40.4%」「問題だ……53.3%」と、この5年間で「多数派が入れ替わった」と耳塚は問題にしている。

 

 もし何か決定的に作用した要因を探すとすると、私は「3・11」をあげる。つまり、先のデータにみたように、「生まれによる」差異というのを「やむをえない」ととらえるような、社会的気分が新たに生み出されたのだ。天然災害と同じように、自分の力でどうにも動かしようのない「天与の」条件に付いて、「やむをえない」と受け止める精神性を、私たちは根底にもっている。そもそも「がんばれば……」という先進性は、性に合わないのではないか。それを照明するかのように、東日本大震災は降りかかってきた。フクシマにしてからが、人災というよりは天災であるという受け止め方の方が、一般的に気分なのだ。なぜ? だって、私たち庶民がどうにかできることではない、とみているからだ。

 

 日本の為政者は、それを民主主義の主権者としてふさわしくないと、難詰するであろう。だがそうか。主権者なんて口先ばかりで、選挙が終われば、勝手放題にしているじゃないか。庶民にとっては、(私たちの)ご機嫌なんかとらなくてよいから、私たちが暮らしに困らないように考えてやってよ、任せてんだからさ、と思っている。これは、私たちの自然観にあっている。悪政は、災厄と同じように降りかかってくる、と思ってきた。私たちはそれにどう対処するかを考えるので精いっぱいである。スタート地点における「格差」を是正するというのであれば、まずは経済的資産の再配分からはじめてよ、教育の格差なんて気取らないでさ、と思っている。

 

 親の暮らしもきちんと「保障」できないで、「教育格差」にいきなり話を飛ばさないでよ。そう問われたら、耳塚さんはどう応えるだろうか。


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