mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

主婦の髪結い政談(3) 「入会権」が「所有権」になったいきさつ

2014-07-15 14:06:09 | 日記

 「つきあいきれない」と言った端からこんなことを言っては申し訳ないが、「つきあいきれない」というセリフは「おとこ」の物言いである。そもそも「床屋」というのが「おとこ」のモノであることを考えると、主婦として、タイトルも正確には「髪結い政談」としなければならない。そういうわけで、訂正してお詫びして、話をすすめる。

 

★ 国家は最強の暴力団、領土は縄張り

 

 「中国の正論」につきあうには、どうするのか。

 

 「沖縄も日本固有の領土ではなかった」という中国の正論は、琉球王国の時代の版図に尖閣諸島は組み込まれていないとし、「明の洪武5年(1372年)、明帝・朱元璋は楊載を琉球国に派遣し、琉球国王・察度を冊封した」と、中華帝国の版図に入っていたと、述べる。こうなると、話がややこしくなる。

 

 そもそもこの時代に「国境」という観念があったかどうか。尖閣諸島ばかりか、漁民の往来も倭寇の往来も、小さな島嶼の領域は生活の場であった。国境線を引いて「縄張り」を始めるのは、力を背景に武力集団=ヤクザが仕切るようになってからであろうし、生活者にすれば縄張りも関係のない話であった。

 

 反転して言えば、どうして今、日本も中国も(韓国も)、縄張りに躍起になるのか。国家が最強の暴力団だからである。

 

★ 尖閣諸島の「入会権」

 

 「おとこ」は血の気が多いから、縄張りの話になると、頭に血がのぼる。キンゼー報告以来、女も血の気が多くて何が悪いという時代になったから、血気にはやっても悪くはないが、暴力装置を背景に争うというのは「おんな」のガラではない。

 

 子どもを産み育てる主婦としては、そもそも平和共存的日常志向が強い。言葉を換えれば、生活者の感覚を重視するから、線引きするよりも、誰が出入りしてもいいじゃないの、幸せならばと思っている。ただ、「おとこ」が無事に稼ぎをもって帰ってくれなくてはならないから、「おとこ」の争いに耳を傾け、そうか縄張りというものが「資源」とか「通行」とかに支障をもたらすってこともあるんだと、「日本の正論」と「中国の正論」に関心を向けているだけなのだ。

 

 日本の外務省が「日中合意」を秘匿しているかどうかは知らないが、もともと生活者領域の出入りをしていた台湾漁民が、尖閣諸島に出入りしたからと言って、のちに国境線を引いた国家が大きな顔をして出入り禁止にしていいわけがない。日本にだって、近代以前と以後の調整をするために、「入会権」というのを認めていたではないか。つまり、「尖閣諸島に入ってきた漁民を拿捕・強制送還する」という「(1972年以来の日中間の)暗黙のルール」は「入会権」の保障のようなものだと考えれば、いいではないか。

 

★ 慣習法の世界の方が棲みやすい

 

 「密約ではない、入会権だ」と政府も外務省も説明をすれば、国民/生活者は納得する。「おとこ」は前原大臣のように「日本領である限り、逮捕・起訴するのは当然」という論理に引きずられて、角突き合わせるのが好きなようだ。それはきっちり線引きして、向こうとこっちを仕分けしようとしているのだが、生活者の感覚からすると、「法」で「境界線」を引いて「正と邪」「適法と不法」とを区分するやり方は、私たちのやり方に馴染まないのではないか。

 

 思えば日本の法は、「線引き」を旨としている。だが日本人のやり方は、「状況倫理」と悪態をつかれたりしているように、その場に応じて、そのときどきの都合を考え、そこに顔を出している面々の計らいを以て、ものごとを決するということをしてきた。聞けば、イギリス経験主義のやり方がそうだというではないか。慣習法である。長年生きてきて、法と向き合うことはそう多くないが、もめごとが起こるのは大抵、慣習的なやり方と法が定めたこととがぶつかるところであった。

 

 慣習と法がぶつかったとき、たいてい「法」が慣習を改革する、改善するという意図をもっていることが多く、職場においては、なぜその「改革/改善」が必要かを争うかたちになった。管理職はおおむねそれらを説明する十分な「論理」や「説明」をもっておらず、「行政がそのように決めたから」としか説明しなかった。「法」の趣旨についても、管理職は説明することができず、その「解釈権」は中央(国家)に近い行政職が握っていて、いっそう現場のでやりとりでは不都合を生じたことが多かった。

 

 こうした私の生活経験からいうと、日本人の暮らし方は、基本的に状況適応的であり、状況順応的であり、周りをみて己を正すというように、間主観的であり、慣習法の方が肌身にあっているという感じがする。日本の近代法は、プロイセンから学んぶことにしたと教わったことがある。そうだとすると、イギリスから学ぶべきだったのではないかと、いまさらながら、思うのである。

 

★ 中国と争うことの是非――敵は本能寺にあり

 

 とはいえ、日ごろどれほど構わないでいた些細な島でも、どんなにわが家の小さな草木でも、隣の人が勝手に立ち入ったり切り倒したりするとムッとするように、所有権をおかされるということに対して、私たちは敏感に反応する。尖閣諸島の領有を、相手が声高に叫ぶからと言って、こちらも同じように声高に叫びたてる必要があるのかどうか。いがみ合って何かいいことでもあるのか。

 

 尖閣諸島という、その帰属自体がまだわずか120年前(1895年)に決まったということになると、「国際法」に沿うかどうかも、相手国がそのルールで承知するかどうかも、調整しなければならないことがらにはなろう。相手が「違う」と言っていることからすると、「領土問題は存在しない」と木で鼻をくくったような応答は、賢いとは思えない。まして相手は、「日本の実効支配(施政権)」を認めているのであるから、それを土台にしながら、相手の言い分を聞いて、こちらの言い分も説明しながら、やり取りをしていけば、少なくとも、毎日中国の漁業監視船を追い回し、領海侵犯に警告を発するような忙しない対立をしなくても済むのではないか。

 

 モノゴトの認識を身体的あるいは直感的にやるとパッと反発が湧き起るが、良く考えてみると、それほどむかっ腹を立てるほどではない、まあまあ冷静に……という場面も、良くある話。そういうことではないかと、良く考えてみてはどうだろうか。

 

 それというのも、中国が尖閣諸島の帰属をめぐって「反日運動」を煽り立てているのは、「尖閣」が本命だとは思えないからである。敵は本能寺にあり。中国国内の社会不安や政治に対する憤懣が、隘路を求めた結果、「反日」に吹き出しているだけだと、読める。そのようなマスメディアの報道も多い。次回、そのあたりに探りを入れて、中国というよくわからない怪物を読み解く方へ、歩を進めてみたい。


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