mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

「ええじゃないか路線」の「お伊勢まいり」

2020-12-04 10:11:48 | 日記

 お伊勢参りに行ってきました。3年前に現地に詳しい方がコーディネートしてくれて、旧知のSeminar関係の人たち15人ほどでお参りしたことがありました。そのときは、自動詞アマ・テルが他動詞アマ・テラスになったいきさつなどと言葉が飛び交い、ま、いうならば、ご神体の由来がもっぱらでありましたから、瀧原宮とか瀧原竝宮にまず参り、「あらみたま」の原義を聞きながら、彼岸から此岸を見る感覚を感じとってから、外宮、内宮と足を運んで、神楽と御饌の儀式を観、祝詞を上げ、拝礼の儀式まで執り行うということまでしたのでした。いうならば、祭神と祭主の側を見極めてこようという参内だったわけです。もちろん詳しい「神宮案内人」が、ずうっとついてくれました。
 一度は私も行きたいと言っていたカミサンの申し込んだツアーの「お伊勢参り」が今回。前回と異なり、二見ヶ浦の「浜参宮」と呼ばれる「みそぎ」から入り、倭姫宮、猿田彦神社と神宮誕生の「物語」の順序にしたがって、外宮、内宮へと近寄っていきました。外宮と内宮は、「お伊勢さん観光案内人」がついて一つひとつ説明を加えながら廻り、最後は朝熊岳の金剛證寺へ行って、(神仏習合の象徴のような)「片まいり」にならぬようきっちりと締める展開。つまり今回は、江戸時代からの参詣の順序を踏んだ、いわゆる「お伊勢まいり」の「ええじゃないか路線」というわけです。
 3日間とも天気は良く、「観光案内人」がまた、押しつけがましくなく、「いや私もわからなくて・・・」と神官に聞いた話、教えてくれないところを取り混ぜて「お伊勢さん」の「神々の世界」の懐の深さを暗示する語り口は、なかなか味のあるものでした。他方、ツアー・ガイド添乗員の「案内」が、まだ勉強中の気配を漂わせ、控えめに、でも要点は言っておかねばと思い出し思い出しして伝える気配も奥ゆかしい。バスは二座席に一人。全部で17人というこじんまりした行動単位。外宮・内宮の案内は12人にする配慮。自由時間が多く、でも、皆さん時間厳守の振る舞いをして、スケジュールも少し早め早めにすすんで、心地よく過ごすことができました。
 最初のときは、こちらがSeminar事務局ということもあって、半分「お伊勢参り」の主宰側でしたが、今回はツアーに乗って全部お任せのお気楽旅。暢気なものでしたが、コロナウィルスのせいでgo-toトラベルが重なり、なんとも落ち着かない心もちになってしまいました。
                                            *
 モンダイは、go-toトラベルの「地域共通クーポン」。旅のはじまりのときに手渡され、旅の期間通に指定地域で使い切らなければならないという(指定地域指定店限定の現金同様の)「クーポン」。費用の1/4ほどですから、1万円を軽く超えます。ふだん山へ行ったりするときは、お金を使うところがありません。鳥観のツアーに行くときにも、食費を含む経費はすべて払い込んでいますから、お金をつかうのは、せいぜい「お土産」だけ。旅行総額の1/4もの多額をつかうことは、どうあってもありません。そこへもってきて、もともと育ちが戦後の貧窮時代ときていますから、お金はもちろん、物を粗末にすることもできない。清貧と言えば聞こえはいいでしょうが、ケチと言えばケチ、お金の使い方を知らないといえば知らないのです。
 土産物屋へ入っても、これまではどんな土地のものを売っているか、何処から来たどんな客が入っているか、店は古いままか新基軸を取り入れて回転しているかとみているのが面白く、品物を買うつもりでみることなど、ほとんどありません。
 そこへ「使い切りなさい」と手渡された大金。がらりと視線が違ってきました。買うかどうかと商品をみると、自分の内心の欲望との相談になります。すると、ざわざわと内心が騒ぎ始めます。うまいかどうか、欲しいか欲しくないか、土産にすると、嬉しいと思うかそんなものは要らないと思うかどうかと、自分の内心に問い、ひとの顔を想いうかべ、なんだかニンゲンとしての自分の内側が商品棚に陳列されているかのように恥ずかしく、且つ、それを剥き出しにしないと決断できないという状態に引きずり込まれるのです。なんだか裸で歩いているような気分になっていました。
 ほかの方々をみていると、そんな煩わしい思いをきっぱりと断ち切ってか、さかさかと買い物をし、いくつも手提げの紙袋を下げてバスに戻ってきます。いやはや見事と言わねばなりません。結局、停まっていたホテルの土産物売り場で、遠方に住む兄弟に品物を送ることを思いつき、適当にまとめて、箱代と送料ともに、端数を足してクーポンで支払う。これで大部分を始末して、気持ちが落ち着いたというわけです。受け取った兄弟の方は、これまでお歳暮のやりとりもしたことがないのに、なんだこれはと、きっと訝るに違いありません。そもそも、「お伊勢参り」をしたと知らせることも、憚るくらいです。何かの悪い知らせと思わねばいいのですが、ね。