mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

アア、メンドクサイ、モウヤメルワ

2020-12-11 11:27:08 | 日記

 皇嗣の長女の結婚がもめ続けている。とうとう宮内庁が口を挟んできた。婚約者の母親が資金援助を得ていたとかそれが借金であったとかいうことがモンダイとしているが、父親である皇嗣自身が記者会見で話したように、「両性の合意のみによって」という憲法の条文を持ち出して結婚を承認するというのであれば、宮内庁が口を挟むことではなかろうと思う。
 いやそれよりも婚約者にしてみれば、アア、メンドクサイナ、モウヤメルワ、と婚約破棄をしてもいいと思うくらい、単純なことがごちゃごちゃと社会問題に仕立て上げられている。私たち庶民からすると、結婚相手の親に何がしかのモンダイがあったとしても(ほじくり返せばモンダイがない方が珍しいのだが)、ま、最終的には本人同士のモンダイだからと棚上げにして、結婚にすすむことができる。勿論先々のことを考えれば、両家の親がそれなりに同意して成立する方がいいだろう。だが、そうとばかりは言えないのが世の常。それに宮内庁が口を挟むというのは、皇室が国民の所有という公のものだからだ。
 だがそう考えてみると、はたして皇室は、私たち庶民にとってどのように存在意義を持っているのであろうか。それを一度きちんと自らに問うてみる必要があるように思った。
 そもそも政治体制として憲法では規定しているけれども、現実の政治過程としては皇室を不可欠のものとして必要としているわけではない。民主主義日本は、皇室なしでもやっていける政治体制をとっている。右派や保守派の人たちにとっては、まさしくニッポンという人々の統合の象徴として欠かせないというであろう。だが私たち庶民からすると、せいぜい日本の文化遺産として存在しているのを(憲法の精神からいうと)許容してるにすぎない。たとえ明治維新期に創造された天皇制国家日本であっても、あるいは南北朝の正統性論争からすると疑念を挟む余地があるとしても、あるいはまた、7世紀末から8世紀初頭にかけて制度化されて語り継がれた記紀神話の伝統を背負っているとしても、連綿たる皇室の伝統というものは「国民統合の象徴」としての希望的存在であった。現実過程として「国民の統合」には様々な利害の対立や考え方の齟齬という困難があり、せめて「相和して」社会をかたちづくっていってほしいという希望を象徴する存在である。右派や保守派の人たちはそれを逆に考えるようにして、天皇制を護ることが国体を護ることと逆立させてしまったのが、戦前の天皇制国家・大日本帝国であった。
 戦後の政治体制が天皇制国家ではなく民主主義国家となっているのであるから、憲法上の制度としては文化的な(国民統合の象徴)遺産として皇室が存在しているとみるのが、まず、妥当なところだ。でも一つの文化遺産として、皇族という人たちの人権を大きく制限するというのは、何か私たち庶民に意味があるのか。
 ひとつ、こうはいえようか。「民主」ということがどういう立場であるかを、現実的に示して見せる反照的存在。彼らの不自由さを目の当たりにして、わが自由を実感する。でもなあ、いまさら彼らがいようといまいと、私たちは人の振り見て我が振り直せって感覚を棄ててしまっている。ヒトはどうあろうと私は私じゃと唯我独尊を誇れるほど、勝手気ままに生きている。むしろ彼らの不自由さを反照として、私たちの自由さが公共性を失っていると実感してもいいくらい。となると、今度の皇嗣の長女の結婚を私たちも見習って、相手の親や家族に一点の瑕疵もないことを確認しないと、結婚なんてしてはならないと生き方を改めるかい? それは無理だろう。となると、文化遺産としての皇族というのは私たちにとってはほぼ無意味である。
 えっ? 「国民統合の象徴」? なるほどニホンコクミンは、いまや勝手気ままのてんでばらばら。せめて天皇を担ぐことによって、ココロを一つにしようと右派民族派の人たちは唱えている。だが見てごらん、世界を。一つにまとまって見える「くに」って、ほぼ独裁的な政治体制をとっている。民主主義国家というのは、ほぼ社会経済的な格差の拡大とかイデオロギー的な分断とか利害得失による分裂をきたして、まとまるということと逆の確執によって不安定さの最中にある。それを考えると、独裁政権でもないのに政治的な大騒ぎをせず、リーダーシップをとる人たちがこれといった指導力を発揮しているわけじゃないのに、さほど文句も言わずに平穏な日々を送っている日本じゃないか。これって皇族がいるからなの? それとも、1200年ほど続いた天皇制神話の「和の精神」のおかげなの? いずれにせよ、すっかり身に沁みこんだ文化的伝統は人々の振る舞いの隅々にまで行きわたっている。もうすでに、皇族が存在するかどうかはカンケイがない。
 でも、皇室の当事者の生き方が、齟齬をきたしている。皇室の人たちには、国民の権利が与えられていない。「両性の合意のみによって」という結婚に関する憲法上の規定を皇嗣が口にするのは、(憲法の国民規定が皇族には適用されないから)したがって、皇族に対しては妥当ではない。にもかかわらず皇嗣が憲法の規定を口にしたのは、皇嗣の長女には普通の庶民と同じように考えてやってほしいという願望が込められている。皇族としての面体を保つために1億何千万円かの「持参金」が税金から支払われるということが(400万円の借金を踏み倒している母親が釈明もしないのでは)軛となって、宮内庁が口を差し挟む余地が生じているのだ。だったら、「持参金なんかいらない」から、勝手にさせてよと言えない社会的存在が皇族である。
 そう考えると、もうそろそろ皇室の人たちを私たち国民が「象徴として担ぐ」ことから解放してやってもいいんじゃないか。天皇制をいきなり全部廃止せよと言っているのではない。もちろん全面的に解放するには廃止するのがいいのだが、男子相続性とか皇族女子のあつかいとか、シチメンドクサイことを棚上げして、「公務」からさえ解放して、成人になった時点から、当人の選択を取り入れてやっても、いいんじゃないか。「公務」など、政治家の然るべき人がこなせば済むことだ。
 天皇制を国体として担ぐ時代は終わった。アア、メンドクサイ、モウヤメルワって、ならないもんかね。