mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

年賀――からっぽのありがたや

2020-12-23 18:58:40 | 日記

 去年の冬至は12月22日であったと、今朝送られてきた「去年のブログ記事」をみて知った。去年の記事は、この日に年賀状を作成したことを記している。じつは、なぜか今年も、22日。
 でも困ったのは、あまりめでたいと書きたくない気分だったこと。

 めでたいと賀状にかけぬ年の暮れ

 と思ってはいても、やはり賀状を出さないわけにはいくまい。でも、いつもの通りってわけにもいくまいと心裡のどこかで感じている。どうするか。結局、新型コロナの「啓示」したいることを胆に銘じて、慎ましくすること。ということは、必要最小限の方々に賀状は出すが、儀礼的な賀状はもう出さないと決めた。カミサンは「でも、貰ったら返事を出さなくちゃあね」と、正月を家で過ごす態勢の利点を生かす。おまえさんはどうするの? 私は、やはり出さない。そういうことを伝えもせずに? そう、どう受け取られるかは、人による。どう受け取られても構わない。そうやって消えていくのだねと、自分を得心させている。

 めでたいと言葉にならぬ初春かな

 全く下手な句だが、落ち着きの悪いところが今の気持ちを表している。新型コロナの自粛蟄居で、却って静かな生活を送っている。この、放っておいてもらえる佇まいが、なんとも私の今の気分にあっている。手紙のやりとりが好ましく感じられるようにもなった。昔は家を訪ねていって「年賀」の挨拶をするのがふつうであったか。今はメールなどで簡単に済ませる。その程度の心もちなのよと見切っていれば、それはそれですがすがしいと私は思うのだが、はて、どうだろうか。

 コロナ禍に年を越したりありがたや

 こんな気分になるとは、実は思ってもいなかった。めでたいという気分とありがたやと感じる気分とでは、ずいぶんと開きがある。でも、長い目で見ると、後者の方が自然観と人間観とを合わせて考えてみると実感に近い。この、自然に「ありがたや」と感謝の意を表明するのが、神道なのだと感じている。むろん、天皇家の祖神ということなど、長い年月にどっかへ行ってしまっている。お伊勢さんも、考えてみると、おかげまいりと言ってひたすらな感謝の象徴であった。天皇はんはカンケイなく、日本の自然信仰の結実した形かもしれない。御神体が空虚(からっぽ)というのも、好ましい。
 そうした気分になっている自分を、メデタイとおもっている。