mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

これから明るくなる冬至

2020-12-22 08:59:58 | 日記

 昨日(12/21)は冬至。一年で一番、昼が短い。夕方、南西の空に木星と土星が近い所にみえるとニュースがいう。5時過ぎはすでに暗くなる冬至だからこそ、観察できるというわけだ。
 年末の掃除に取りかかっている。障子を張り替えたのは3年ぶりだろうか。大きいのを4枚、小さいのを2枚。こういうのを腰が重いというのだろうか。とりかかるまでに時間がかかった。とりかかってみると、さほどの時間はかからず、手間も割と簡単だった。年齢のせいかもしれない。
 網戸を洗う。かつては1日で済ませたが、いまは3日に分ける。山歩きと同じだ。行程16時間のロングトレイルを日帰りで済ますために、夜の夜中に出発して午後4時に帰着する強行軍をやったのは、まだ仕事をしていたころであった。今はそういうコースを3日に分けて歩く。齢をとるとはそういうことだ。
 先ず南側の網戸3枚を洗う。それが乾くまでに6枚の窓ガラスを拭く。2日目、西側の網戸3枚とガラス6枚を拭く。こちらは狭いベランダに乗り出すのでメンドクサイと思っていた。でも、やってみると、案外簡単であった。そうだよな。腰が重くなっているだけなんだ。残りは北側のベランダに乗る二つの窓。
 のんびり構えるというのは、身の丈に合わせるということなのだと思う。掃除をするというのにスタンダードはない。自分の家の掃除をするのをマイペースですすめるのに、誰が文句をいおうか。わが身の丈に合わせるのを自由というのであったか。障子の張替えもガラスや網戸の掃除も、準備を整えて置き、手順を踏まえてとりかかれば、メンドウでもムツカシクもない。腰が重くなっただけのことで自分を責めることもあるまい。
 昨日の夕食は蕎麦を打つことにした。5時過ぎからとりかかる。今日の蕎麦粉は北杜市の瑞牆山の麓のキャンプ場で手に入れたやつ。甲州蕎麦というわけだが、これまでの梼原の蕎麦とは味が違う。蕎麦粉の捏ね方も念入りにしないと、なかなかまとまらない。水を回し捏ねていると時間を忘れ、頭の中が空っぽになる。瞑想と同じ状態になる。あとになって気づくが、木星と土星の接近のこともすっかり忘れてしまった。
 読み終わった小説の喚起したイメージが胸中を揺蕩い、それを書きつけてわが身の裡の騒ぎを鎮めるのに、じつは午前中いっぱいかかってしまった。午後に年末掃除をのんびり手掛け、夕方に蕎麦を打つ。風呂を入れようとスイッチを押したのになかなか沸かない。カミサンが様子を見に行って「風呂の栓をしていなかったよ」と告げる。私が網戸を洗うとき風呂に蓋をおいて栓をするのを忘れていた。わお、お湯がその間こぼれっぱなしってことか。自分が蓋を置いたことも、スイッチを押すときにそういう確認を忘れていたことも、ひどいことをしたなあと身の裡に響かない。腰が重くなっただけでなく、何か失敗してもどこか他人事のように受け止めている。どうしてそうできる? 齢を取るとそういう失敗はするものだと観念しているからだろう、と。
 ハハハ、あれもこれも齢のせいにして自由になっているだけじゃないか。これって、自然に溶け込んでいるってことかい? 
 そうして今朝、ずいぶん明るくなったと感じて、枕もとの目覚まし時計を見る。なんと6時半に近い。いつも5時に起きるカミサンもまだ床にいる。冬至を過ぎたことで朝が明るくなるとカンネンしていたからだろうか。
 ま、そんなことどっちでもいいじゃないか。そう感じてすごしている、天然自然の一年の底に立つ日でした。これからは明るくなる一方だ。