mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

硬軟使い分けか? 「上に政策あれば、下に対策あり」

2015-10-29 18:19:13 | 日記

 今朝(10/29)の朝日新聞で「辺野古 硬軟使い分け」と見出しをうって、米軍基地移設に関する政府の対応を取り上げている。「おやっ」と思ったのは、「硬軟使い分け」という言い方。硬の方は、翁長県知事の「辺野古埋め立て承認取り消し」に対して国土交通大臣の「取り消しの効力を一時的に止める決定」「代執行手続きに入ること」を指している。軟の方は、「沖縄振興などを名目に……辺野古周辺3地区の代表を官邸に招き県や市を通さず、振興費を直接3地区に交付する方針」を指している。

 

 だが、これらは、ほんとうに硬軟なのだろうか。

 

 前者の方は、政府のお手盛り強硬策である。政府と県との対立関係において国土交通大臣は第三者機関ではない。それがあたかも第三者機関のような立場をとって、県知事の決定を「取り消す」命令を出す。これをお手盛りと言わないで、なにがお手盛りであろうか。出来レースというか、楽屋落ちというか、これを法的公正さと考えているとしたら、噴飯ものである。

 

 法を遵守するということには二つの要素が必要である。一つは、「法の趣旨」を踏まえていること、もう一つは手続きを踏まえていること、である。そのどちらが欠けても法の遵守とは言わない。まして国家権力の中枢に求められる「法の遵守」は、いっそう厳しいものでなければならない。なぜなら、国家権力はリバイアサン(魔物)だからである。「法治国家」とは、国民が法を守る社会/国家のことをいうのではない。国家が法を守る国家/社会のことをいうのだ。

 

 中国に対する(日本国民の)忌避感が強いのは、あの国の国家権力自体が自らを「法治」していないからである。国家は人民の「前衛」を体現し「善」を遂行していると自己規定している。それを保障する根拠も、その横暴を掣肘する「ちから」も、どこにも見当たらない。当然それを受けて民は、いかに権力者の恣意をかいくぐってすり抜けるかに腐心する。それが生きる知恵というものである。中国では、やっと「法治主義」ということを示して見せようとしているが、それは「法に照らして(不正を)処断する」ということであって、何を不正とするかがいまだに権力者の恣意に拠っているのだから、真に受けること自体が笑止の沙汰である。まして国際関係において(南沙諸島の領有権のように)力づくのごり押しをしているのを見れば、好感をもって見ることができないのは、言うまでもない。

 

 ところが私見では、日本は戦後ながらく、押しつけとは言え理想主義的な民主主義が信じられてきた。むろんそれに違う社会事象や国政の出来事はあまたあったが、それを多くの人たちは「遅れている近代/旧時代の悪弊」と受け取った。多くの人たちというのは「庶民」のこと。それは、人性(ひとさが)としてあり得ることとみることによって(寛容の精神に転轍され)、鷹揚に、緩やかにでも是正していければと、希望を持ち続けてきた。

 

 ところがいつのころからか、是か非か、YESかNOか、ことの正邪を明らかにするという潔癖症に世の中が覆われるようになってきた。私見では、「受益者負担」ということばが世の中に横行するようになった(高度経済成長がひと段落した)頃ではなかったか。つまり、高速道路を走る車の利用者が「便益」を受けるのであれば、その「利用者」が負担するという発想は、じつは(遍く)高速道路を利用する物流の最終購買者も「便益」を受けているにもかかわらず、トラックの利用者がすべて「便益」を享受していると切り分けてしまうようになった。昔風のことばでいえば、「せちがらく」なった。それは、人と人とが何がしかの紐帯によって互いに恩恵を被っているという社会関係の結びつきを(経済的便益という一つのモーメントで)切り分けてしまって、個人と個人が一つひとつの「便益」を「計算する」格好になってしまったのである。

 

 たぶんその社会関係の切り分け方が生み出した想念が(ひと世代を経て身体性に浸潤し)、昨年あたりから国家権力の政治の世界に臆面もなく登場しはじめた。「憲法違反」をものともしない「閣議決定」、今年に入ってからの「安保法制」の暴走ぶり。つまり、社会そのものが、「中国化」しているんじゃないかと思うくらい、己を顧みない権力者の振る舞いがみられる。「経済、経済、経済」「景気回復、株価上昇、輸出増大」という掛け声は、つましく日々を送る民の頭上を空しく通り過ぎる。雇用拡大も賃金上昇も、どこの話かと思うほど日常の肌感覚にそぐわない。それが庶民に反映して、人々の身を護る気配が社会に沁み込んでくる。

 

 朝日新聞の記事がなぜ、「沖縄振興などを名目に……辺野古周辺3地区の代表を官邸に招き県や市を通さず、振興費を直接3地区に交付する方針」を「軟の方」としているのか、私には理解できない。辺野古周辺の3地区の人々が、「振興費」に心動かされる「自分たちの地方行政の意思」を裏切るとでも思っているのだろうか。それとも、今の政府の方針に味方する人たちだけが(国民の税金を使うにふさわしい)と「仲間意識」を露呈させているだけなのだろうか。これほど「地方の自治」を馬鹿にした話はない。政府は、3地区を直轄地とみなしているのかもしれないが、天領じゃあるまいし、これほど横暴なやり方はない。「振興費」は「飴」などではない。行政体系の無視であると批判しなければならない暴挙だと私は思う。

 

 こんなことが、中央行政のやり方でも当然視され、批判的に見るべき報道機関がそれを等閑視するのであれば、まことに琉球が独立の旗を掲げるようになっても、(本土国民には)文句を言う筋合いがなくなる。沖縄が腹を立てるだけではない。ほかの地方行政組織も、いま、中央と地方の関係を上下関係に見立ててコトを運ぶやり方に異議申し立てをしなければ、庶民はいずれ、中央政府の言説に一顧だにしなくなる。

 

 「上に政策あれば、下に対策あり」という中国の古来の知恵が、入用になる日本になるのかもしれない。安倍さん皮肉なことですね、あなたの差配の下でそうなるなんて。