mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

旅のはしはかきすて

2015-10-03 09:36:23 | 日記

 オーストラリアから帰って2週間、昨日やっと「ノザーンテリトリーの旅」を終わらせた。いつもの癖で私は、「旅のはしはかきすて」にしている。旅の始まりは、旅を思い立った時。旅の終わりは、その旅が我が身の裡に残した「思い」を書き留め終えたとき。だから「旅の端は書き捨て」である。

 

 むかし現役の頃は、教師の仕事として毎日の学校のルーティン・ワークがあり、取り仕切る行事があった。渦中にいて夢中で行っているときには、我を忘れている。あとで想い起して、あああれは、この生徒に対してはまちがえたなと臍を噛むこともあった。生徒がまったく私の思惑と違った反応をし、戸惑わせることもしばしばであった。なんだろうこの不全感はと、心裡に思いとどめたり、メモを取っていた。月に二度ほどそれを書き記して自分の(仕事に向かう)心裡を拾ってみることもした。その「不全感」や「戸惑い」は、私自身が思いなしている「教え―学ぶ」という観念が、生徒のそれと齟齬している現れであり、つまり、「教師-生徒」関係がマッチしていないことを示していた。それは「私」に引き付けていえば、仕事をしているときの「私」は「教師」という社会性を(ほどよく)体現しているのかと、己に問う作業であった。逆にいうと若いころにはしばしば、「私」の傾きを意識せず、あたかも「私」が客観性というか社会性を持っているかのように、生徒に対していたからでもあったし、過ごしていた時期が(人のありようの)変化の大きい時代であったからでもあった。

 

 いやじつは、「教師」という存在を生徒は「私」とはみていない。生徒が教師を「センセイ」と呼ぶように、学校において教師は一般性において存在している。学校という場面において「教師」は、真理の体現者であり、公正さや公平さを含めた社会的規範の継承者であり伝授者とみなされていた。生徒がそう思ってくれないと「教える」という行為が緒につかない。社会的規範の体現者だと(生徒が)体で「納得」してくれないと「教える」振る舞いが遂行できない。さらにその「納得」の深度によって「学ぶ」というかたちに完結しない。言葉を換えていうと「(生徒の)腑に落ちない」。教師の発する言葉が、生徒の頭越しに通り過ぎていく。向き合っている時間が早く終わらないかと、生徒も教師も願っているような中空に浮いているような状況が出現する。そうやって「私」は、「教師」であることを「生徒」たちによって鍛えられ、教えられ続けてきた。

 

 そういう来歴を持つ私の「癖」が旅に現れると「旅の端は書き捨て」になる。書き落としてやっと、旅が終わる。山歩きもそう、旅行もそう、何かのイベントに足を運ぶこともそう。そうすることによって私は、人生を「消費」することに逆らっているのかもしれない。あるいは「私」一個の人生が、個別性において営まれていることは明々白々であることに(どこかで)抵抗を感じていて、いつか「私」が一般性において存在していることにたどり着きたいと、無意識に願っているのだろうか。

 

 誰に送り届けるというわけでもなく、こうして私の(人生という)旅の端を書き捨てることによって、どこかで誰かが「そう、こんな人生ってあるよね」と共感してくれることを願っているのだろうか。人は孤独の根底に足をつけたところから自分の人生を歩き始めると、いつしか私も思うようになった。でも先へすすめばさらに先に逃げていくと言えども、不可能性の上の「端っこ」=地平線は限りをもってみえているものね。切ないというか、ロマンというか。どっちでもいいけど。