mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

「一億総活躍」という余計なお坊ちゃんセンス

2015-10-09 10:18:09 | 日記

 安倍首相の単なる「饒舌」と思っていたら、担当大臣まで置いて本気で取り組む気らしい「一億総活躍」の看板。いかにもお坊ちゃん育ちの、高度消費社会の申し子のようなセンスが、情けない。それを嗜める者も諌める者もいないという側近の、併せて自民党全体の「体質」がいっそう情けない。保守を標榜するのなら、せめて暮らしがいかに地味なことの持続であるかを根底に据えて物事を考えてくださいよと、思う。

 

 10月1日のこのブログで、「一億総活躍」に「違和感」を感じるという天声人語氏のセンスを(同じ穴の狢だと)批判した。そのとき、「あとにつづく趣旨は(ここでは)どうでもいいのだが」と「違和感」ということばにこだわって、本筋の論題は取るに足らないと捨て置いたのだが、なんだ、こうも担当大臣を置くほどの「看板」とするのなら、ひと言触れておかねばならない。

 

 天声人語氏は「一億総活躍」という看板が「一億総動員」を思わせるといって、先般法律化された「安保法制」の延長上に位置づけて「不安」を感じていることを匂わせている。私が「同じ穴の狢」と言ったのは、「違和感」に「なんともいえない嫌な気分」と自己中心的にする反応が、「一億総活躍」を看板にするセンスと同じとからかったわけだが、マス・メディアの御仁もやはり、高度消費社会の申し子だと言わねばならない。

 「活躍」という言葉を辞書で見ると、《①勢いよく踊ること。活発に跳ね回ること。②大いに手腕をふるうこと。》(日本国語大辞典)とある。つまり、非日常的に(肯定的に)存在することを指している。資本家社会的システムというのが差異によって利得を生み出すために絶えざるイノベーションに挑まざるを得ないことが、人々の静かな暮らしを脅かし、人々の存在の根幹に所在するアイデンティティを脅かし、落ち着きのない日々に追われるようにしてしまった。そのことが加速されて、高度消費社会になっていっそう、毎日がお祭りのような暮らしに転じてしまったと、1980年代以降の日本や高度先進諸国の様相を俎上にあげたい。一方にそのような様相が深まれば深まるほど、他方でそのあおりを食らって、暮らしの安定を失い、明日の糧を手に入れることに汲々とせざるを得ない人たちが出来する。それがどれほど社会をぎすぎすとさせていることか。

 「一億総活躍」なんかいらないから(中央政府は)、静かに落ち着いた暮らしができる社会をサポートしてもらいたい。「静かに」というのは、安心して将来を見据えることのできる暮らしのベースを手に入れたいという願いだ。むろん、華々しく「活躍」する方々がいてもいい。ノーベル賞に輝く方が身近にいると、それはそれで嬉しい。だが誰もが、そのような暮らしをすることは、社会システム上もできないのだ。ほんとうに圧倒的な多数は、地味に日々の暮らしを紡いで、安定した暮らしを手に入れ、静かに身近な「幸せ」を感じて生きていくことができればいいし、(せいぜい頑張っても)そのように生きることしかできないのだ。

 それを、誰もが「活躍」できるかのように示すのは、息苦しい。その息苦しさの根底には、それが子どもたちに「毎日がお祭りのように」生きることを奨めるような「幻想」をふりまきかねないからだ。華やかに「活躍して」生きられない人生には価値がないかのように刷り込まれることによって、どれほどの人々が、無用に苦しんできているか、お坊ちゃんは想像したこともないのではなかろうか。

 

 ふと思うのだが、私の考えは「隠れて生きよ」といったエピクロスの「快楽主義」に通じるのであろうか。エピクロスは人の社会が「幻想」をふりまき、「無用の欲望」を肥大化させ、それに囚われて人々を苦しめている、と説いた。つまり彼は、「社会から隠れて生きよ」と言ったのであるが、今のご時世に「社会から隠れる」ことはできない。となると、公けに為すべきことは為さねばならないが、それは最小限にしてもらいたい。「一億総活躍」などという余計なおせっかいは、かえって負担を多く求めるものにほかならないからだ。

 

 人々が自力で生きていける「社会(コミュニティ)」をつくる。自ら構成するネットワークを通じてかたちづくる社会が、自力でやっていけるように放任してもらいたい、と思う。