mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

倍音(2) 人間存在につきそう「倍音的存在感」

2014-10-26 15:32:47 | 日記

 いやはや、早とちりをして、訂正しなければなりません。HarmonicsとHarmonyとをほとんど一緒にして考えていました。Harmonics(あるいはovertone)は「倍音」という訳があり、Harmoyは、倍音の共鳴によって醸し出される音の響きを「調和」と呼ぶと、楽曲音の解析にありました。そもそも「倍音てなんだ?」と思いながら、映画を観て、前回の感想を記したのですから、こういう早とちりがあっても不思議ではありません。

 

 さっそく反省をして、昨日、中村明一『倍音――音・ことば・身体の文化史』(春秋社、2010年)を借りてきて、目を通しています。驚いています。「倍音」の話は、奥行きの深い、存在の秘密のようなことにまで通じているのですね。子細は、丁寧に読み終わってからにしますが、とりあえず、昨日の映画の感想にまつわることだけを、申し述べておきます。

 

 ひとつの音には、同時に、聞き取れない音がともなっている。つまりひとつの音は、複数音の合成によって構成されている。それが「倍音」なんだそうです。中村明一は次のように表現しています。

 

 《私たちは倍音とハーモニーを分けて考えていますが、物理的には倍音とハーモニーは同じものです。その違いは、ハーモニーの場合、発音体が異なる、という点です。つまり、複数の音源から出てくる場合をハーモニーとし、同一の音源から音が出ている場合を倍音と呼ぶ、ということです。》

 

 早とちりでもなかったようですね。それが時間的に連なるとリズムが生まれ、垂直的に連なると旋律が生まれる、と話は続きます。むろん「音楽」の構成を論じている場合ですね。「倍音」ということ自体が、音をミクロでとらえた場合の発見ですから、「音楽」に限りません。人の話し声も、虫の鳴き声も、機械音も、街の雑踏の音も、「倍音」をもっているとなります。

 

 この話をちょっと横に跳ばすと、一人の人の存在にも「倍存」があります。それを私たちは、経験的に知っています。面と向かっているとき、その人がいるだけで場が和むこともあれば、場が緊張をはらむこともあります。静かに思索にふけるように誘うオーラを感じることもあります。佐々木浩一郎の作品に登場するミンヨンも、笑顔と歌と言葉と振る舞いというだけでなく、存在それ自体がもっている「雰囲気」を周りの人たちは感知して「かんけい」を紡いでいます。その要素の一つ一つを解析的に認知することはできないが、(たぶんなにがしかの気管を通じて)それを感知することが私たちにはできているのです。しかし明示的なことばにできないことは存在しないとして、思考に繰り込むことをせず捨象してしまっていることが、私たちの日常生活には多くみられます。それを中村明一の指摘する「倍音」は明らかにしようとしているのです。

 

 佐々木浩一郎監督も(たぶん)この著書を目にしたことと思います。だとしたら、どうしてあんなお粗末な戦前イメージをおいてヨシとしたのか。西欧音楽の楽器が「整数次倍音」で満たされていることと関連付けていえば、「整数」という、いわば数学的に処理できる「わかりやすい合理」を理知的として受け止める、「整数次倍音信仰」的な世界観を、佐々木浩一郎監督がもっているからではないか、と思われます。せっかく「倍音の法則」という存在の深みに触れていながら、そんな浅みにとどまっていては、申し訳ないのではないかと、読みながら思っています。このことについては時間をおいて、あらためて考えてみたいと思っています。(つづく)