mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

長兄H逝去のいきさつ

2014-10-07 10:02:34 | 日記

 長兄Hが逝去したいきさつをご報告します。私がこのご報告をするのは、長兄Hが逝去した前日、10月4日の夜、八幡平のホテルの同じ部屋に宿泊していたからです。

 

 10月2日から秋田駒ケ岳を登山し、乳頭温泉に連泊して温泉巡りをするなど、山と温泉と紅葉を存分に愉しんで、4日夕方5時、八幡平の宿に到着しました。

 

 風呂に入って汗を流した後、6時半から夕食。ずいぶんたくさんのお皿が並び、長兄Hは一皿を残して、しゃぶしゃぶも刺身も煮つけなども気持ちよく食べました。ビールは中ジョッキの半分くらい飲んでいました。

 

 「疲れたから、早く寝るわ」といって7時半ころ、長兄Hは床に入りました。夜中に目が覚めると、長兄Hが寝床に座っていました。
 「気分悪いの?」と聞くと、「少し熱があるみたい」と答えました。
 頭を冷やそうと濡れたタオルを渡すと、「乾いてる方がいい、汗が出る」というので、乾いたのも渡しました。
 「体温計を借りてくるわ」と私はフロントへ行きましたが、フロントには誰もいません。フロントにある電話でコールしてもカーテンの向こうの呼び出し音が聞こえるばかり。部屋へ取って返すと、長兄Hはぜえぜえと喘息のような呼吸をしていました。
 「救急車を呼ぶよ」と言いますと、「明日まで様子を見てもいいんじゃないか」と長兄H。
 「齢をとってると肺炎になったりするから、そんな悠長なことを言ってられないよ」と応じて、部屋の電話で119番を呼び出しました。

 

 状態を告げるなどやりとり、「ホテルへ向かう。10分くらいかかる。ホテルの玄関口へ出ていて、案内してほしい」と言われました。時計を見ると、11時45分頃でした。
 それを聞いていて長兄Hは、「着替えるわ」と浴衣を脱いで服を着ました。「貴重品バッグの中に保険証も入っているから」というので、金庫から取り出し、用意しました。
  手元のスポーツドリンクを飲んでいたので、テルモスに入れた温かいほうじ茶の方がいいんじゃないかとコップに注いで渡すと、それを3分の2ほど飲みました。
 相変わらずぜえぜえと言っていますので、しばらく背中をさすってやりました。

 

 そろそろ到着する時間になったので「玄関に迎えに行ってくるね」と言ったら、「吐き気がする」と長兄H。部屋のプラスティック製のゴミ箱を私が引き寄せたら、「トイレで吐くから。行ってきて」というので、部屋を出ました。
 玄関のところで、ちょうどフロントの入口から出てくる宿のスタッフと出会いました。ワケを話すと玄関横の扉を開け、こちらから出入りするように言いました。少し待つと救急車の音がして、ぐるりと正面の広い駐車場を回って玄関にやってきました。一人の救急隊員は手にAEDをもっています。部屋に向かう廊下で「お兄さんの名前は?」「既往症は?」など聞かれ、応答しながら戻りました。

 

 部屋に入ると、長兄Hは寝床にうつぶせになっていました。救急隊員が体を起こして、「Hさん! Hさん!」と呼びかけますが、応答しません。シーツと枕カバーに薄いピンクの吐いた跡がついていました。AEDを装着しても反応がないので、胸をどんどんと上から叩くように心臓マッサージを始めました。隊員同士がやり取りをしているときに「12時5分」と聞いたように思います。もう一人の隊員が用意したストレッチャーに乗せて長兄Hを玄関に運び、救急車に乗せて走りはじめました。
 部屋を出るときに「靴は?」ときくと「もっていってください」と返事があり、靴と寒いかもしれないと私の羽毛服を抱えていきました。また長兄Hの飲んでいたピルケースが座卓に置いてあったので、それをどこかの時点で隊員に渡しました。

 

 救急車の中でも心臓マッサージは続き、吸引機で口の中から何かを吸い出していました。吐いたものが喉に詰まったのだろうかと私は考えていました。「薬アレルギーはありますか」と聞かれ、わからないというと「奥さんに確認できませんか」と言われ、所沢の奥さんに電話をし、状況をお話ししました。隊員は搬送先の病院とやり取りしていましたが、すぐに「一番近い病院へ向かいます。岩手大の先生が診てくれます」と隊員が教えてくれました。それでも、ずいぶん時間がかかると思いました。20分くらい走って西根病院に着きました。岩手は広いんだと私は思っていました。

 

 救急室で処置している間に、私は保険証や事務的な手続きをし部屋の前で待っていましたが、ほどなく入室してくれと促されました。医師が心臓マッサージをしている隊員にしばらくそれをやめるよう指示して、計器の画面を指さして波形がフラットになることを示し、「わかりますか?」と心臓が動いていないことを私に確認させました。頷くと「一度も回復しませんでしたので、最初に動いていないことを確認した12時5分ということでいいですか?」と私に尋ねますので、「結構です」と応じると、医師が「12時5分、ご臨終です」と告げました。

 

 私はすぐ奥さんに電話をして、長兄Hが亡くなったことを知らせました。今ケイタイの記録をみると、12時38分になっています。同時に、病院名、住所、電話番号、あわせて私の携帯電話の番号も知らせました。事務の方がこの病院へ来る鉄道経路をメモしてくれました。Hの息子Tくんから電話が入り、朝一番の新幹線で彼が来ること、長兄Hのご遺体が所沢へ搬送できるなら、奥さんは家にとどまっているようにしたい意向と分かりました。当直の看護士さんに聞くと、現地または盛岡の葬儀社さんが搬送してくれるはずと、盛岡の葬儀社を電話帳で調べて教えてくれ、詳しくは朝になって事務方に聞いてくれとのことでした。

 

 医師が私を呼び、詳しい経過を尋ねました。(長兄Hが私に話していた)MRI検査をしたら脳出血の痕跡があったこと、いまも細くなっている脳血管があって注意するように言われていたことなど既往症を確認した後、直近の様子を聞かれました。熱があるといっていたこと、喘息のような咳き込みをしていたこと、ピンクの吐物であったことを聞いて、「心原性肺水腫」の説明をしてくれました。心臓の外側に張り付いている冠動脈3本の主動脈が止まると、血液の送り出しはできるが、肺からの取り込みが止まって肺に血液が滞留し、呼吸ができなくなる。そのとき、体が熱をもっているように感じること、気管支ぜんそくではなく心臓喘息という症状が起こって咳き込むこと、吐しゃ物が薄いピンク色を帯びていることなどが、急性の心筋梗塞が起こったことを示している、と。

 

 また今回の場合は、異状死として警察へ通報する義務があること、この後警察の取り調べが行われ、場合によっては解剖することもあること、詳しくは警察の検視をしてからお知らせする、と説明してくれました。

 

 警察官4人が訪れ、一人は私から、長兄Hの住所や家族関係、財産状態や生命保険などなど事務的なことを聞きました。ほかの警察官は検視を行っていました。Hの息子Tくんから電話が入り、地元の大更(おおぶけ)駅の到着時間も分かり、私が迎えに出ることを約しました。

 

 警察官が「実地検証をするので、ホテルまで一緒に行きます」と私を送ってくれることになりました。看護師さんが「まだご遺体とお別れをしていませんから、ちょっと待ってください」と割って入り、霊安室へ案内してくれました。お別れを済ませ、ホテルへ向かいました。ずいぶん遠いなあとあらためて思いました。脇の入口からホテルに入って部屋へ直行。寝床の写真を撮ったり、貴重品を開け中身を畳の上に並べて写真を撮っていました。「事件性がない」ことを告げたので、検視の結果について尋ねると、「脳出血と心臓停止の場合と調べた。髄液の検査の結果、血液が混じっていなかったので脳出血ではないと分かりました。急性の心筋梗塞と推定されますが、詳しくは医師に聞いてください」と説明してくれ、実地検証は終りました。3時半。

 

 午前10時前に大更駅にTくんを迎え、病院へ。まず霊安室で長兄Hに対面してから医師の説明を受けました。深夜に当直であった医師でした。死体検案書と思われるプリントを用意し、「髄液がきれい」など細かいことを記した文書を説明。「急性心臓死」という「落としどころ」表現は「急性心不全」という旧来の表現が禁じられたために用いられるようになったことなど(Tくんに問われたことにも応えて)丁寧に説明してくれました。「急性心筋梗塞」と確定的にいうには、心電図などいくつかの指標を検出しなければならないが、すでに心停止していて、かつ強い薬を用いて心臓拍動の再生を図ったことから指標を取り出すことは難しい。「推定される」というしかなく、「急性心臓死」と呼ぶことになっている、と。「何が引き金になったのでしょう」という問いに、「わかりません。緩やかに進む心筋梗塞は狭心症になるので、ふだんから(当人も)注意するのですが、急性は家でのんびりしていても起こります。」そうして、「ご家族からすると、後になって、なぜ? と思うこともある。いつでも電話してください」と付け加え、名刺をTくんと交換していました。この医師も父親を脳出血で亡くしており、ずいぶんTくんに同情していました。長兄Hのご遺体を送り出すときまで付き添って見送ってくれました。

 

 事務方が事前に準備していてくれたこともあり、午後1時前に地元葬儀社の車が来てTくんも同乗して所沢へ向かいました。昨日までと違って、岩手山がくっきりと姿を現しています。長兄Hは、秋田駒ケ岳に登っても八幡平に着いても、岩手山が雲に隠れて見えないとぼやいていました。Tくんが盛岡勤務だった頃、岩手山麓の温泉に連れて行ってくれたと繰り返し懐かしんでいたのです。

 

 東北道の渋滞もあって、所沢に着いたのは午後8時半ころ。雨は小降りになっていました。奥さん、Tくんの奥さんと子ども、Hの弟嫁のJさんとその息子、うちのカミサンと、新幹線で一足先に戻っていた私が出迎えました。

 

 「だいすきなおじいちゃんへ」と書いた長兄Hの孫の手紙が添えられて、涙を誘います。