自在コラム

⇒ 日常での観察や大学キャンパスでの見聞、環境や時事問題、メディアとネットの考察などを紹介する宇野文夫のコラム

☆国と人の尺度

2014年04月30日 | ⇒メディア時評
  韓国・珍島沖で沈没した旅客船「セウォル号」の事故からきょう30日で2週間となる。それにしても連日の報道は日本の放送で見る限り、韓国の安全性に対する認識の問題がクローズアップされている。が、私は日本のある出来事にむしろ注目している。

  今月上旬、埼玉県の県立高校で、それぞれ勤務校は別々だが、新入生の担任の教師4人が入学式を欠席した。その理由は、いずれも自分の子供の入学式に出席するため。式はいずれも8日にあり、4人はそれぞれ子供の小学校や中学校、高校の入学式に出た。4人のうち3人は女性教師だった。1人の男性教師は2人の子供の入学式が重なり、妻と手分けして出席したのだという。4人とも事前に校長に相談していて、有給休暇を取った。

  新入生の担任の教師なので、当然、入学式のセレモニーの後は、教室に担任と新入生の顔合わせがあったはずである。とすれば、今後の学校の決まり事や学習のことなどの説明は誰が行ったのか、と考え込んでしまう。ただ、担任と生徒の初顔合わせは、ある意味で儀式のようなものである。それを教育者として重要なことと感じるか、通過儀礼で気にすることはない、わが子の入学式に出席したいと感じるかは「人間の尺度」の問題だろう。

  この尺度というのは、閾値(いきち)という意味である。進化生物学者の長谷川英祐・北海道大学准教授の著書によると、アリは働き者のイメージだが、「働かないアリ」がいる。アリの7割はボーっとしており、1割は一生働かない。働き者で知られるアリに共感する我々人間にとって意外だ。しかも、働かないアリがいるからこそ、アリの組織は存続できるという。昆虫社会には人間社会のように上司というリーダーはいない。その代わり、昆虫に用意されているプログラムが反応閾値(いきち)である。昆虫が集団行動を制御する仕組みの一つといわれる。たとえば、ミツバチは口に触れた液体にショ糖が含まれていると舌を伸ばして吸おうとする。しかし、どの程度の濃度の糖が含まれていると反応が始まるかは、個体によって決まっている。この、刺激に対して行動を起こすのに必要な刺激量の限界値が反応閾値である。

  人間でいえば、「仕事に対する腰の軽さの個体差」である。きれい好きな人は、すぐ片づける。必ずしもそうでない人は散らかりに鈍感だ。働きアリの採餌や子育ても同じで、先に動いたアリが一定の作業量をこなして、動きが鈍くなってくると、今度は「腰の重い」アリたち反応して動き出すことで組織が維持される。人間社会のように、意識的な怠けものがいるわけではない。

  4人の教師はこうした人の儀式といったことには鈍感なのだろう。ただ、彼らには別の尺度があるはずである。たとえば、緊急避難時における統率力や、暴力に対する正義感などの強さである。教育はいろいろなシーンでそのチカラが発揮されてよい。

  翻って、韓国の「セウォル号」の事故のこの後の後手後手の政府、行政の対応はやはり国の尺度、つまり閾値の問題ではないのか。安全を重視する、船長たるもの乗客の人命を最優先する、混乱する現場をかく乱する行動は取らないといった「安全」という反応閾値がおそらくピンと来ないのだろう。しかし、「利益や栄誉」を得るために先取り気質で行動することは得意といった面がある。この両方を兼ね備えている民族や国民性というのは世界でそうないのではないか。知らない。そして、アリの社会と人間社会を比較しているわけではない。

⇒30日(水)午後・金沢の天気      くもりのち晴れ
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