自在コラム

⇒ 日常での観察や大学キャンパスでの見聞、環境や時事問題、メディアとネットの考察などを紹介する宇野文夫のコラム

☆庭園の美と草むしり

2010年08月25日 | ⇒トピック往来
 趣味を問われれば、あえて「草むしり」と答えている。我が家には庭園というものはないが、庭に雑草が生えれば無心に取る。そんな所作とは縁遠いテーマだが、「日本庭園の美」と題した講演会があり、魅かれるものがあり出かけた。

 講師は、西洋美術から名園鑑賞まで幅広く解説する立命館大学非常勤講師の門屋秀一氏(京都市)。以下はレジュメを基に講演をたどる。庭園は時代の思想を反映している。11世紀中ごろから、仏法の力が弱まる末法になると信じられ、公家は阿弥陀如来に帰依して来世である西方極楽浄土に救われるため、阿弥陀堂を池の西側に配置する浄土式庭園をつくらせた。

 1185年、源頼朝の時代になり、武家が台頭してくると、書院造りが好まれる。新しく到来した禅宗の思想に帰依した武家は、公家のように舟で詩歌管弦を楽しむことはせず、仏道修行として池泉の周囲を回遊して思索することを好んだ。さらに書院から庭を眺める座観賞式庭園も生まれた。

 禅の修行の厳しさを表現するのが枯山水。臨済宗の僧であった夢窓疎石は、水を使わず象徴的に山水を表現した。鯉に見立てた石を配置した。「鯉の滝登り。滝を上り詰めれば、鯉は竜になると。それだけ修行を積まねばならない鯉なので、修行を尊ぶ禅宗では絵のモチーフにした」。苔寺で知られる西芳寺や天龍寺の庭はその代表作だ。

 鎌倉幕府が崩壊して、室町時代、そして応仁の乱(1467-1477)で都は荒廃する。無を標榜する禅宗が隆盛し、枯山水庭園が発展する。臨済宗の僧でもあった足利義満は金閣寺を造営する。「この建物は実にちぐはぐ。3階建ての1階は公家の寝殿造風、2階は武家の書院造風、そして3階は仏殿風で、結局、仏教で世を治めたいとの表れになっている」

 江戸時代になると、大名は将軍や他大名の迎賓館の一部として庭園を整備した。それは幕府に謀反の意がないことを示すことでもあった。加賀藩の兼六園はその代表格でもあった。

 「ところで」と門尾氏は続けた。「その兼六園の写真スポットは琴柱灯籠(ことじとうろう)が有名。琴柱に似た灯籠なのだが、写真は灯籠だけが写っているものが多い。本来は、灯籠の手前にある琴に似た虹橋を入れると、その琴と琴柱の雰囲気が出るんですね」。これは、長年金沢に住んでいる私も気づかなかった指摘だった。

 以下は、「庭園の美と草むしり」について門尾氏が言及した部分。「日本の庭園は美しい。これは雑草を抜き去り、落ち葉をかいてきれいしているから、その美は保たれる。まるで雑念を払う修行のような作業です」と。草むしりとは禅の修行のようなものである、というのだ。眼からウロコと言うべきか。

※写真は、京都・龍安寺の庭園で撮影した雑草取りの作業=2010年3月

⇒25日(水)朝・金沢の天気  はれ

 

 
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