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EXPRESS DIARY~鉄人日記~

鉄道に関することを日々徒然なるままに書いて行こうと思います。

阪急箕面線

2007年02月01日 | 乗り鉄

040704hky31574  阪急箕面線も幼少の頃の早い時期に乗り潰している。阪急のうち小学校あたりまでで乗り潰した路線は京都線、宝塚線、神戸線、箕面線、嵐山線のみで、あまり用事のない千里線、伊丹線、甲陽線、今津南線に乗ったのは乗り潰しを目的として乗った学生時代以降となっている。

 幼少の頃箕面線になぜ乗ったかは当然ながら乗り潰し目的ではなく、箕面温泉、箕面の滝などへの観光に連れられて乗車したものである。親に連れられると当然クルマ移動となるので祖父母に連れられて箕面温泉スパガーデンへ行った時に何度か乗車した。おぼろげな記憶では帰りに箕面から準急に乗ったこともあったはずなので、平日に訪れたこともあったと思われる。また、もみじのシーズンには臨時準急が出ていたような気もする・・・このあたりはかなりあやふや(^^;)一つだけ覚えがあるのは石橋で宝塚線の臨時特急に乗り換えたことがある記憶は確かだ。時期までは覚えていないが、正月近辺だったのかもしれないし、あの頃は15分サイクルだったはずなので、正月以外にも行楽シーズンには臨時特急が運転されていたのかもしれない。

 箕面といえば、箕面駅前からスパガーデンへ至るケーブルカーがあった。確か無料で乗車できたはずだが、1993年にエレベータに置き換わってしまった。また、実際には見ていないが、箕面駅前から観光の馬車が出ているのを本で見たことがある。子供の頃はそれに乗りたくて仕方なかったが、その時乗れなかった馬車が馬に化けて今現在は競馬に熱中しているのかもしれない。

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阪急今津線

2007年01月31日 | 乗り鉄

060409hky7007  乗り潰し足跡シリーズ第3弾は阪急今津線。この路線に乗ったのはおそらくこれまた幼少の頃、宝塚ファミリーランドの帰りに親がサービスで西宮北口経由で帰ってくれたことで乗れた路線だ。さすがに今津経由では帰ってくれなかったので、今津線の西宮北口~今津間はそのまま乗らずに放置されてしまい、初めて乗ったのは学生になってからだった。だから西宮北口にダイヤモンドクロスがあった時代には今津線でダイヤモンドクロスを通過していない。神戸線側からは体験済みだが、今津線側から乗れなかったのは今から思えば残念だ。

 今津線の初乗りの思い出としては、親に駄々をこねて昨日書いた旧型車(形式までは覚えていない)に乗せてもらったことだろうか。宝塚からは座って行けた記憶があるが、西宮北口から乗った神戸線の特急が大混雑だったのをよく覚えている。あの頃に比べると阪急神戸線は大きく没落したなと感じてしまう。

 今津線は幼少の頃は仁川ピクニックセンターへ行く際に利用するぐらいであまり他に乗った記憶はないが、後に競馬をするようになって、阪神競馬場へ行くのによく利用するようになった。仁川駅前は今では競馬場まで直通の地下通路が完成して便利になったが、私が最初に訪れた時には信号を渡って競馬場への陸橋へたどり着くという感じだった。京都競馬場ほどではないが屋台のような店も出ており、競馬場への最寄り駅という雰囲気があったが、その雰囲気もなくなりつつある。京都競馬場も淀駅の高架化により、競馬場とまさに直結するのでかなり便利になる。その反面昔ながらの競馬場の駅前の雰囲気がなくなっていくのはある意味寂しいものがある。

 現在今津南線と呼ばれる西宮北口~今津間は先述したとおり学生時代に暇潰しに乗った。それ以後撮影をするようになって、阪神から阪急へ移動する際の短絡線として何度か乗っている。最初に乗った時から既に今津駅は高架化されていたと思うが、ワンマン運転までしていたかどうかは定かではない。6000系3連がワンマン運転をしている光景を見ると自分が歳を食ったことを感じてしまう・・・阪急沿線の世代交代はよそに比べてかなり遅いので、あまりそういうことを実感するのは逆に困難な面もある。

 将来的には今津線を高架化して、かつてのように南北統一がなされる計画もあるようだが、なかなか計画が進んでいないようだ。最近今津南線の高架化が具体化したようだが、北線の方はいつになるのやら・・・。北線の高架化時には、短絡線も高架化して、神戸線の上下線と立体交差できるようにすれば、直通電車の設定が容易になるのだが、おそらくそこまでするつもりはないだろう。

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阪急宝塚線

2007年01月30日 | 乗り鉄

060624hky51002  昨日の阪急京都線に続いて第2弾の乗り潰しの足跡を追うシリーズ。今回は阪急宝塚線。昨日つらつらと書いたとおり阪急京都線沿線で生まれ育ったため、阪急との関わりは幼少の頃から深かった。阪急宝塚線も乗り潰しの意識もなく乗り通したという方が妥当なところだろう。子供が宝塚へ行くとなれば、当然宝塚ファミリーランドへ行くというベタな理由しかない。ここはお出かけ好きの祖母ではなく、親に連れられて行ったのが初めてだったと思われる。親はクルマ族なので、移動にはクルマの利用が多かったが、宝塚ファミリーランドはなぜか電車で行ったことの方が多かったように思う。電車好きの息子にサービスのため電車で行ったのか、駐車場が高かったのかわからないが、そのおかげで阪急宝塚線乗り潰しは幼少期に終えることができた。

 私の父は阪急宝塚線沿線育ちの為、宝塚線には親しみを持っていたようだ。中でも十三の阪急そばは朝から立ち寄ってうどんを食べるほど、うまいという話を聞いていた。実際始めて阪急そばでうどんを食べた時これはうまいと感じたものだが、小奇麗に改装されてからは少し昔とは味が違っているように思える。

 阪急宝塚線と言えば、石橋、川西能勢口で分岐する箕面線、能勢電が思い浮かぶが、箕面線は明日あたり記そうと思っているが、幼少の頃乗り潰している。能勢電は宝塚へ行くたびに能勢口で見ることはあったが、大学に入るまで乗ることはなかった。幼少の頃の私は阪急の旧型車マニアで、2000系以前の車両に乗せてくれと親や祖父母にせがんだものだ。能勢電へ行けば、旧型ワールドが広がっていたのに、幼少時代に乗れなかったのは残念としかいいようがない。能勢電に初乗りした時には既に新性能車へほとんど置き換わっていたので、阪急の旧型車を体験して懐かしみことはできなかった。

 阪急宝塚線の話からずれてしまったが、幼少の頃は急行と普通しか走らない路線で、京都線や神戸線に比べて見劣りするというイメージがあった。青地に白文字の梅田-池田間の普通の標識看板などを思い出すが、そのうちに白地にオレンジ色の枠の新しい看板に変わってしまった。記憶が定かではないが、昔は池田行き、曽根行きが結構走っていて、雲雀丘花屋敷行きや豊中行きというのは少なかったように思う。

061022hky60122  昔から特急の運転がなかったことや今も昔と同じ急行と普通の2本立てに戻って、上辺では昔とあまり変わっていない印象があるので、京都線や神戸線のように没落したという感じはあまりしないが、ラッシュ時のダイヤやデータイムダイヤの変遷を見ると宝塚線も並行するJRに苦しめられているのがよくわかる。ダイヤが変わって改正されて便利になるのは利用者にとっては有り難いが、改正したのかどうかわからないような微妙な内容の改正と称するダイヤ変更や下手をすれば前のダイヤの方がよかったようなダイヤ改悪を頻繁にやられては利用者としてはたまったものではない。阪急宝塚線のダイヤは現行データイムに関しては良かれ悪しかれベストのダイヤと思われる。ラッシュ時ダイヤはなんぼか変化はあるかもしれないが、現ダイヤでしばらく動向を定めて欲しいと切に願う。

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乗り潰しの足跡・・・第1弾阪急京都線

2007年01月29日 | 乗り鉄

061008hky9301  私が乗ってきた鉄道の足跡を追うということで、本日から私が乗り潰してきた鉄道を毎日・・・確実いや隔日に取り上げていこうと思います。第1弾はおそらく幼少期に何気に乗り潰してしまったであろう阪急京都線を取り上げます。

 阪急京都線は私が生まれ育った家の目の前を走っていたため、幼少期には阪急の影響をかなり受けて、自然と物心つく頃には“鉄”になっていた。所謂子鉄である?最寄駅が阪急京都線茨木市だったので、当然乗る機会も多く、とりわけお出かけ好きの祖母に連れられて梅田方面へはよく乗った。祖母はある意味で阪急信者というべき典型的な人間で阪急電車が好きというわけではないが、阪急百貨店をはじめ阪急に信頼を置く人間の一人であったといっても過言ではない。そういうことで阪急京都線に乗り、阪急百貨店へ連れられては、ミニカーならぬミニ電?を買ってもらい、国鉄大阪駅が見える喫茶店へ連れて行ってもらい、大阪駅に出入りする電車を眺めて子鉄ながらに鉄分を補給していた。

 梅田へ行く機会はそういうことでかなり多かったが、京都方面へはなかなか連れて行ってもらえなかったが、これまた祖母と祖父に連れられて梅小路の蒸気機関車館へ行った時に初めて河原町へ乗り入れ、阪急京都線が私の乗り潰し第一号となった。その当時はもちろんそんなことは意識もしていなかったので、いつ達成したかまでは当然覚えていない。おぼろげな記憶だが、行きは河原町まで行って阪急百貨店でお昼ご飯を食べて、おそらく四条烏丸まで歩いて、開業したての京都市営地下鉄に乗って京都駅へ出て、行きか帰りは京都駅から梅小路まで歩いたはずだ。祖父母とも非常に健脚だったのを覚えている。その影響を受けて私も結構歩くのは苦痛にならない。祖父母に感謝したい。

061022hky63572  その当時SLというのは煙をもくもく吐いて黒い塊にしか思えず機関車トーマス(私の幼少の頃からあったのには驚くがそれより今なお人気があるのにはこれまた驚く)以外には興味がなかったが、電車好きの孫を喜ばせようと梅小路へ連れて行ってくれたのだろうが、正直当時の私には弁天町の交通科学博物館へ行って食堂車(ナシ20)でお子様ランチでも食べさせてもらえる方がよっぽどよかった。とはいっても、京都の地下鉄の初乗りまで果たし、さらに帰りには河原町まで行って、梅田まで当時はまず乗れることがなかった6300系特急に乗せてもらったので、子鉄としては十分満足していたはずだ。6300系は昔からそれほど好きではなかったが、それでも子供の頃は自分の駅である茨木市を颯爽と通過していく姿しか見られなかったので、憧れの存在ではあった。乗車機会は当然少なかったが、お盆に淀川へお花やお供えものを流す風習が当時はあり、これまた祖父母に連れられて、8月14日だか15日の夜に十三まで行って、事を済ませて帰る際にちょうど6300系の急行が運用されているスジがあり、幸運にも何度か当たって、乗る機会があったのを覚えている。

 幼少の頃を過ぎると阪急からは徐々に離れていき、小学校、中学校と電車に乗る機会が少なかったこともあり、阪急よりも国鉄に興味を持つという鉄としては当然の過程を踏んで、高校、大学と阪急を再び使うようになって、また阪急趣味に戻ってきた。しかし、高校時代あたりまではまだJR発足直後で、まだまだ阪急が横綱相撲をしている時代で、阪急に対して特に不満もなかったが、JRの攻勢が激しくなり、阪急の落ち込み具合を目の当たりにしてきた時あたりから阪急に対して不満を持つようになっていた。昔日の阪急を思い出しながらもJRが中間駅への攻勢を強めているのに、20分サイクルという大英断はあったものの、特急は相変わらず京阪間ノンストップというのにはかなり不満であった。あの時もう少し早く高槻市への終日停車を判断していれば、今の展開はもう少し違っていたのではないかと思えてならない。今春のダイヤ改正で特急は私が幼少期に大変お世話になったかつての急行の停車駅に近づいたが、幼少期に憧れたけれども反面晩年は鬱陶しくも感じていた京阪間ノンストップ特急は見る影もない。昔からあまり好きではない6300系が消えていく日には京阪間ノンストップ特急も新京阪のP-6のように伝説になってしまうのだろうか・・・。

060401hky6330 あまり好きではなかった6300系だが、その中で6330Fだけは前パンタ好きの私好みの車両だった。

コメント (2)
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