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登山 写真撮影等多趣味ですが最近は3/W位の卓球と風景写真特に山岳写真撮影に励んでいます。

人類の系譜、日本人のルーツのー9 旧石器時代、石器の特徴の巻

2013-01-01 | 民族学、考古学!?
伊藤俊幸さんのHPに私が取り上げている話題の記載が多く有ります。
その中から旧石器時代の石器の特徴と分布が有り、引用させて頂きました。
それによると、私が以前記載したくさび型細石刃は中部地方より北に分布し、九州には細石刃を伴わないナイフ形の石器が分布している。
また旧石器時代の人口の推測値からも多くのモンゴリアンが樺太経由で日本に入ったが、朝鮮半島経由または中国から、細石刃を使わない部族が北から入った人より少ない単位で、日本に流入したと推測される。
また添付した図で言えることは、旧石器時代の人口は高々3000人位で、人口密度は低く、異なる集団が遭遇する機会は非常に少なかったことが分かる。

人類の系譜、日本人のルーツのー8 日本人のDNAの巻

2012-12-31 | 民族学、考古学!?
歴史民族資料館のHPから日本人、韓国人、中国人のDNAを比較したデータがありましたので、円グラフにしました。
1.日本人の特徴
日本人固有のDNAを持った人の比率が韓国人、中国人と比較し少なく、韓国人、中国人の多く持っている、DNAを持った人が多く居る、また沖縄の人やアイヌに多いDNAを持った人も比較的多く存在し、日本人は周辺の種族のDNAを多く取り込んでいる、民族と言える。
2.韓国人の特徴
歴史的にも地理的にも近い、中国人のDNAを持った人が多いのは理解し易いが、面白いことに沖縄の人に多いDNAを持った人が18%と日本人の16%より多い。頭に上に瓶を載せて運ぶ習慣などの文化的な共通性と関係が有るのかも知れない。
3.中国人の特徴
本州の日本人に共通するDNAを持った人は少ないが韓国人、沖縄の人々と共通するDNAを持った人が10%位居るが、これは逆に中国大陸から韓国、沖縄に人が移動した証拠になると思う。
細石刃を携えバイカル湖方面から移動してきたとされる、ブリアート人などもう少し細かい部族のDNAデーターを探しています。

人類の系譜、日本人のルーツー7 ヴェルム氷期の巻

2012-12-28 | 民族学、考古学!?
相変わらず日本人のルーツを考えています、色んな本やネット上に情報が有りますが、確定的な説は無いので、私のような素人でも勝手なことを言える環境があります。
矛盾点の指摘や反論は大いに歓迎しますが紳士的な言動でお願いいたします。
今回私が考える原点にしたのは、ヴェルム氷期と呼ばれる18000年前位にピークだった氷河期の日本周辺地形です。
これによると間宮海峡を挟みシベリアと樺太は繋がり、樺太と北海道、東北は陸続きでした。
また朝鮮半島と九州もほぼ陸続きで、細い水道を挟んで対峙していたかもしれませんが当時の丸木船で航海できたと思います。
ここで日本で発見されている最も古い時期の遺跡を記述し、このヴェルム氷期との関連を考えてみます。

1)山下町洞人 以下ヴィキペディアから引用 ◎は私の考え
沖縄県那覇市山下町第一洞穴で、1968年に発見された。約3万2000年前とされる6〜7歳の子供の大腿骨と脛骨で、国内では最古級の人骨である。最近の検討によると、初期現代型新人の特徴に一致するという。

◎添付の地図に有るように、沖縄は大陸と陸続きになったことはないが氷期には大陸とかなり近づいた、極少人数の人々が海流に乗り漂着したと考えられ、それが日本人のルーツとなったとは、考えにくい。

2)石垣島・白保竿根田原洞窟の人骨
2010年2月4日、沖縄県教育委員会は、沖縄県石垣市白保(石垣島)の新石垣空港建設敷地内にある白保竿根田原洞穴(しらほさおねたばるどうけつ)から発見された人骨について、琉球大学や東京大学などと研究を進めた結果、そのうち1点(約8cm×約11cmの20〜30代前半の男性の頭頂骨)が放射性炭素年代測定で約2万年前のものと分かったと発表した。また「更新世から縄文・弥生期にかけての日本人の変遷に関する総合的研究」の分析では、発見された人骨片のうちの右頭頂骨片に対して、20416±113年前(BP)という推定年代値を得た。これは放射性炭素によって直接ヒト化石の年代を推定した値としては国内最古のものであった

◎上記山下洞人と同様極少人数の人々が海流に乗り漂着したと考えられ、日本人のルーツとは考えにくい

3)港川人
1967年〜1969年に沖縄県島尻郡八重瀬町(旧具志頭村)の港川採石場の石灰岩フィッシャーで実業家・大山盛保によって人骨(上腕骨・尺骨・骨・大腿骨2点・脛骨2点・距骨・第1中足骨)の断片が発見された。上部港川人骨と呼ばれている。年代はおよそ1.2万年前と考えられている。

1970年に沖縄県島尻郡八重瀬町(旧具志頭村)港川採石場で数体の人骨化石が実業家・大山盛保によって発見された。人骨は少なくとも5体を数え、男性2体を含むという。約1.8万年前とされる。縄文時代が約1.3万年前から始まるとされていることから、更新世末及び後期旧石器時代末にあたる。顔は四角く、目は窪み、鼻はやや広く、立体的で頑丈であることなど現代日本人とは全く違っていて、縄文人と似ているところが目立つ。頭蓋では、骨が厚く、前頭骨が小さく、脳頭蓋の下部が幅広いなど独自の特徴でかなり原始的である。また、男性の推定身長は153〜155センチメートルで、上半身は華奢であり、かなり小柄である。

平成21年度日本学術振興会による共同研究では、後期更新世の沖縄港川人はアジア大陸の南方起源である可能性が高いが、北海道〜九州地方の縄文時代人とは、下顎形態に、多数の相違点が見出だされ、両者の間の系譜的連続性を認める従来の仮説は見直される必要があるという主張もなされている

◎1)-2)同様、沖縄は大陸と陸続きになったことは無い、また発見された人骨の特徴も日本本土で発見された人骨と異なることから、彼らが、日本人のルーツで有るとは考えにくい。
以前このブログで記述した東南アジア各地に残る少数部族、例えばスマトラのクブ族、フィリピンのアエタ族、アンダマン諸島のジャワ族のどれかと関連が有ることも考えられるが大陸から直接移動出来なかったので少数の人々が丸木舟などで流れ着いた程度と考えられる。

4)前・中期旧石器の遺跡
笠懸野岩宿文化資料館
日本は酸性の土壌が多いため、骨などが残りにくく前中期の遺跡は発見が難しい。しかし、数は少ないものの、近年の考古学研究の発展により、金取遺跡(9~8万年前]から中期旧石器が、砂原遺跡(約12万年前)では前期旧石器などの遺物が発見されている。

日本では縄文時代より前の時代を先土器時代、または無土器時代と呼んでおり、土器の時代を遡る時代の遺跡や遺物が長い間発見されず、土器以前に日本列島に人類は居住していなかったと考えられていた。ところが、1949年(昭和24年)に、相沢忠洋が、群馬県みどり市笠懸町岩宿で関東ローム層中から旧石器を発見した。日本の旧石器時代の調査・研究は、ここから始まった。現在までに、日本列島全域で4000カ所を超える遺跡が確認されている。これらの遺跡のほとんどが約3万年前から1.2万年前の後期旧石器時代に残されたものである。

4)-1 金取遺跡(かねどりいせき)は、岩手県遠野市宮守町に所在し、中期旧石器時代に属する日本列島の遺跡である。
なお2003年7月に報じられたところとして、8-9万年前と見られる地層から石器が出土し、日本国内最古との見方も出たが、2009年9月に出雲市の砂原遺跡で12万年前のものと見られる石器が出土、こちらが日本最古ではないかと報じられている。

◎この12万年前と言うことは大変説明し難い情報で、添付しが画像で見て分かるように間氷期(氷河期の前)でした。また以前のブログに記載したようにホモサピエンスがアフリカを出たのが10-15万年前と言われる中で、説明が難しいが、一つの仮説として、ホモサピエンス以外にアフリカからユーラシア大陸に移動した種でその後絶滅した種が多く有りました。有名な北京原人やジャワ原人などですが、そのような原人の1種が日本まで到達した可能性が有ります。

4)-2 浜北人
浜北人は、静岡県浜北市(現・浜松市浜北区)根堅(ねがた)の石灰石採石場で、1960〜1962年に発見された頭骨片と四肢骨片(鎖骨・上腕骨・骨・脛骨)の人骨化石である。上・下2つの地層から出土した。それぞれの層から出た獣骨の年代を加速器質量分析(AMS)法による炭素年代測定での結果は、上層が約1.4万年前、下層出土の脛骨が約1.8万年前を示した。

◎この遺跡はヴェルム氷期で陸続きになった大陸から移住した人々の可能性が高い

4)-3 北海道の遺跡

 十勝支庁上士幌町嶋木遺跡(旧石器時代の遺跡は、十勝でおよそ100ヵ所見つかっている) 恵庭岳が約1万8千年前に噴火したとき飛んできた火山灰よりも下の地層から見つかっている上士幌町嶋木遺跡は約1万9千年前と考えられている。石刃などの打製石器が発見されている。

 十勝支庁帯広市、新帯広空港建設で発見された遺跡 黒曜石はこの地方では十勝石といわれ、 石刃、尖頭器、石錐、細石刃などの打製石器が発見されている。地層から約2万3千年前と考えられている。

 十勝支庁帯広市、暁(あかつき)遺跡 およそ1万6千年前、暁遺跡周辺では、旧石器時代人が細石刃をはじめとする、いろいろな石器を作っていた作業場だったようだ。
 網走支庁(旧女満別町)大空町豊里石刃鏃遺跡 大陸とのつながりといえば、豊里遺跡から昭和32年に発見された石刃鏃(せきじんぞく)が日本考古学会でも画期的な発見だった。これまでユーラシア大陸北部で広く認められていた石刃鏃は、日本列島では発見されていなかったが、女満別ではじめて発見され、これによって大陸と日本列島の石刃鏃文化が繋がった
 
◎これらは明らかにヴェルム氷期時代の遺跡で、シベリアで開花した石刃鏃文化

石刃鏃文化とは「石刃に簡単な加工を加えて鏃とした石刃鏃を特徴とする文化。中石器時代から新石器時代初期にかけてユーラシア大陸北部に広く認められる。日本列島では,北海道東・北部に限って存在し,縄文時代早期浦幌式土器,女満別式土器などを伴う。アジア大陸側では,シベリア,中国東北,モンゴルの各地に存在し,数多くの遺跡が報告されている」

を継承していることから、陸続きだった、樺太経由で入った可能性が高い、現在バイカル湖付近に暮らす、ブリアート人と日本人のDNAの共通性が高いことから、私はこの時代に多くの人が大陸から渡り、日本人の大きなルーツになっていると考えている。

5)長野県の遺跡(例)

 立が鼻遺跡と呼ばれるキルサイト(狩猟した大型哺乳動物の)の遺跡である。発掘調査の時期は3年に一回3月に行われ、発電所の取水による湖水面の低下のため湖岸が沖合に後退する時期に合わせて、世界的にも珍しい「大衆発掘」という形態で行われている
 1962年の70名が参加した第1次発掘では、ナウマンゾウとヤベオオツノジカの化石発掘により、3~5万年前の最後の氷河時代のものであることが確認された。1964年の第3次発掘では、旧石器の剥片が発見され、ナウマンゾウと人類の関係が問題となった。1973年の第5次発掘では、参加者が千人を超えた。ナウマンゾウの切歯とオオツノジカの掌状角をはじめ、ナイフ形石器、骨製基部加工剥片(ナイフ形骨器)などが発見され、ナウマンゾウと旧石器時代の人類が共存していたことが証明された。
 
◎ナウマンゾウの骨と一緒に遺跡が出たことは明らかにゾウを追って人々が大陸から移動したと考えられる。私はこれが主な日本人のルーツと考えています。

◎以上まとめると出雲市の砂原遺跡で12万年前の石器が発見されたという情報が有るが、今までの考古学では上手く説明できない、ただ上で述べたようにホモサピエンス以外の原人の子孫かも知れない。
また沖縄で発見された、山下町洞人等も大変古いが、沖縄は大陸と陸続きでなかったので、多くの人々が流入したとは考え難く、日本人の主なルーツ(混血したことは考えられる)になったとは考え難いく、私は樺太経由で入ったモンゴリアンが日本人の主なルーツと考えています。朝鮮海峡は狭いか無かった時期も有ったと思いますが、極端に寒いシベリアに適応した、部族が、マンモスなどを追い、最も近いルートである、樺太経由で流入したと考えた方が分かり易い。その後朝鮮から人々が多く流入したのは僅か数千年まえのことです。



人類の系譜、日本人のルーツのー6 稲作渡来民の巻

2012-11-11 | 民族学、考古学!?
今度稲作渡来民と言う本を読みましたが、中々深い内容でした。
私が過去に読みその段階では納得した大野晋先生のタミル語が日本語のルーツでタミル人が稲作を伝えたと言う説に付いてもう一度良く考える必要性を感じました。
まだ私として考えがまとまりませんが、この本の知見も加え、頭を整理し、近いうちに、ブログに投稿します。
この本の主張は中国で始まった稲作が縄文時代末期に山東半島、朝鮮経由で九州に伝わり弥生時代に入ったというものです。
またその前提となる当時の船の歴史を解析しています。その部分を添付しますが、当時の船で外洋を航行するには大変危険が伴い、多くの人々が大挙して日本に渡ったとは考え悪く、渡来した漂流民は元々そこに居た縄文人の言語に同化したと考えられるというものです。
私はこのことには全く異論がなく、そうであれば、元々日本に居た縄文人がどこから来たのか、その縄文人の言葉のルーツを考える必要性があります。
まだ結論では有りませんが、同じルーツの民族で同じ言葉を話す人々が有る程度継続的に日本に移動したと考えられます。
そのためには日本が陸続きの時樺太経由で入ったように私は思いますが、沖縄に石器時代の人骨が出ているのでこれをどのように考えるか課題もあります。
ただ以前書いたように日本人とDNA的に一番近いのは現在バイカル湖付近に居るブリアート人と考えると説明はつきます。
ただその場合タミル語と日本語の共通性の話はとん挫します。
ここでこれから考えるのはタミル人の移動の痕跡(中国からインドまで移動した可能性がある)とブリアート語とタミル語の共通性です。
また少し本題から逸れますが、今まで読んだ本ではアイヌは本来、南から来た民族と言うことでしたが、船の構造が北方系だそうで、ここに矛盾があります。

モンゴリアン、拡散速度の巻

2012-09-17 | 民族学、考古学!?
北米、南米に住んでいる、ネイティブアメリカンは主にモンゴロイドです。
最近ブラジルでアフリカ系と思われる人骨が発見されたり、アマゾン上流部で男性の平均身長が180cmもある人骨が出たりし、不思議な情報もありますが、殆どモンゴリアンには間違いありません。
そこでこのモンゴリアンがどのくらいの速度で拡散したか、計算してみました。

人類の系譜、日本人のルーツー5 タミル人の巻続編

2012-09-15 | 民族学、考古学!?
NET検索していると、またタミル人と日本人の関係を支持する情報に出会いました。
この岡本さんの推論は素晴らしいと思います。
私は今までの投稿でも述べましたが、石器時代や縄文時代にも人類の拡散は広範囲に及びインドから日本への移動も十分可能性があったと思います。
添付した画像にあるようにタミル人はモンゴロイドで現在のインド人の多数派アーリア系に人とは明らかに人種が異なります。
ただし長頭(アイヌと共通)で長身(アイヌ、縄文人ともに小さい)と言う特徴があり、直接的に縄文人の祖先と言うのは無理があります。

北モンゴロイドが数千年の時間で南米の最南端まで移動できた事実を良く理解すべきと思います。
ただ私はアメリカ大陸のネイティブアメリカンの言語体系を知りません、一度調べ、投稿します。


人類の起源 から引用

58644 日本語の起源とタミル人渡来説2
  岡本誠 ( 50 兵庫 経営管理 ) 03/07/14 AM02 

 文法構造上は、ツングース語やモンゴル語、トルコ語などのアルタイ語とも共通だが、単語の対応が示せない。インドから中国南部にかけての諸言語の一つチベット・ビルマ語群も、日本語と語順がほぼ一致するが単語の対応を明確に証明することはできない。また満州語、蒙古語、台湾の高砂族の言語、マレイ語、オーストロアジアの言語、レプチャ語、アイヌ語、さらに最も日本語に近いと考えられる朝鮮語との対比においてさえ、タミル語に見られる日本語との鮮明な対応は見出せない。

 縄文時代の日本語は、オーストロネシア語の一つで簡単な子音組織をもち、四母音で常に母音終わりの言葉であったと考えられる。そこに古代タミル語が入ってきて、アワ(粟)、カネ(金属)、ハタ(機織、織った布)などを持ち込むと共に、それ以降の日本語の文法と単語の基礎を作った。その際、捲舌音やrとlの区別があるなど音韻体系の異なるタミル語をそのまま受け入れることはできず、縄文時代の音韻体系によって新来のタミル語を受け入れたであろう。

 古墳時代に至って、朝鮮半島を経たアルタイ系の文明と言語(高句麗語のごときもの)が、支配層と共にそれまでの弥生文化の上にかぶさった。アルタイ語は語順が大体日本語と一致しており、単語のはじめにr音が立たないなど共通の特徴を持っている。数少ないものの単語の流入が見られる。例えば蒙古語のnru-gは親戚を、ツングース語のurは息子を、朝鮮語のulは親族を意味し、日本に入ってudi(朝鮮語のlは日本語のdと対応する例がいくつもある)、つまりウヂ(氏)となり、アルタイ語族の文化が日本の社会組織の基礎を形作る上で力を及ぼした。日本神話のうち国家体制の基礎を語る部分については、アルタイ系あるいは朝鮮系に類似するものが多く、朝鮮半島に居住した種族の国家体制を基本的に継承したことを示している。(因みにタミル語と日本語との対応については、国家組織に関係するような単語は見出されない。)

 以上、言語学的事実からタミル語との同系説を紹介しましたが、物や精神世界での対応関係も指摘されています(詳細は別途)。共認機能の中枢である言語に決定的な影響を与えるには、無文字時代であることを考えても、タミル人(またはタミル語と文化を肉体化した渡来人)が日本にやってきたことは間違いないと思われます。

 その証拠が長崎県壱岐の島の地名にあり、それはタミル語のpul-am(村・区域)に対応するfur-e(フレ)で、東触(ヒガシフレ)、西触(ニシフレ)などフレという地名が100例ある。これは青森県などにおけるナイ、ベツがアイヌ人の居住の証拠とされるのと同じ考え方ができよう。

 また日本の方言の中にアッチャ(父)、アヤ(父)、タンダ(父)、アーヤ(母)、アッチャ(母)、アッパ(母)、アンマ(母)、アンマー(母)、アンニャ(兄)、アンネ(姉)などの家族名称が青森県、沖縄県をはじめとする各地にある。これら全てに対してタミル語にはぴったりと対応する単語がある。

 この説の難点は、7000キロも隔たった途中にタミル語と関係する言語がないことですが(仲介地が見出せずいきなり日本語と朝鮮語に対応が見られる)、文化的には南インドの文化がインドネシア、マレーシア、ジャワ、スマトラ、セレベス、ボルネオ、フィリピン、台湾に及んでいることが、最近の研究で明らかになっている(参照58201)。この謎が解ければ、タミル人渡来説はかなり有力だと思われます。



人類の系譜、日本人のルーツー4 タミル人の巻

2012-09-13 | 民族学、考古学!?
ネットで色々検索していると、初めてタミル人と日本人の関係に注目した記事を見つけました。
もちろんその元情報は大野晋先生のご本からの引用ですが、嬉しく思いました。
その記事を引用させて頂きますが、素人の記事に対する研究者からの中傷について、私も同感です。
添付した画像はタミル人の容姿です、皮膚の色は濃く体毛が発達しています。タミル人は現在インド、スリランカに住んでいますが、アーリア系の現インド人が中東方面から、侵攻する前には、インド北部にも住んでいたと考えられます。
私はアーリア系インド人が侵攻する中で、東に流出した種族が居たと想像しています。
またブータン辺りの部族と日本人の容姿は良く似ていますが、山間部に逃避したタミル人が居た可能性があります。
またこれは全く私の想像ですが、タミル語、日本語の古語、アイヌ語の共通性やアイヌの容姿から、アイヌの先祖はタミル人ではないかと言う仮説を考えました。
この仮説での矛盾は、アイヌは農耕が得意ではないということです。
大野先生はタミル人が日本に稲作を伝えたと考えています。

以後、日本人のルーツ再考から引用

●日本人のルーツ再考 (4.29/97)

 学生時代、私はずっと歴史が嫌いでした。ですから日本の昔のことについて若いころはよく知りませんでした。20歳のころ、忠臣蔵の好きな友人と話をしていて、話がかみ合わずに困惑しました。赤穂浪士という名前は聞いたことがあるように思いましたが、「殿中でござる」とか「刃傷でござる」という言葉は聞いたこともありませんでした(ニンジョウという言葉を聞いて私はそれを人情だと思った)。これでは話がかみ合うはずがありません。そのころの恋人にそのことを話すと大笑いされました。日本人で赤穂浪士を知らない人がいるなんて信じられないと言われました。
 私はかなりのショックを受け、忠臣蔵好きの友人を誘って「赤穂城断絶」という映画を鑑にいきました。ところがこの映画は確か浅野の殿様が吉良に切りつける刃傷事件からいきなり始まったのです。浅野の殿様がなぜ吉良を切ったのかさえ私はわからず、なんだかよくわからないまま映画は終わってしまいました。終わってから私は「あの殿様がなぜ切りつけたのか説明してなかったからストーリーがよくわからなかったよ」と友人に言いました。彼は天を見上げて言いました。「そんなこと日本人ならみんな知ってんだよ」と。
 私は劇画ばりに「ガーン」と衝撃を受け、友人に勧められて大佛次郎の「赤穂浪士」を読みました。私が歴史に興味を持つようになったのはそれからです。
 私が歴史と接するようになったのは小説においてです。司馬遼太郎の歴史小説に出会ってから私は歴史がおもしろくて仕方なく思えるようになりました。司馬さんの小説の中に登場する人々は私の眼前で生身の人間のように動き、そして話し、そして笑っては泣きました。歴史の教科書では決して感じることのできない昔の人々の息づかいや匂いがそこにはあったのです。(司馬さんが亡くなったのは残念で仕方ありません)
 ある日、ひとつの歴史小説を読んでいた私は、そこに登場した人物に妙に惹きつけられました。理由がわからないまま読み進んでいくうちに、その人物が私とよく似ていることに気づきました。その後、ほかの歴史小説を読んでいて同じようなことを何度か感じました。
 まだ若かった私は自分が何者なのか探りつづけていました。その答えが、ひょっとすると歴史上の人物から得られるのではないか。そう思った私はますます歴史小説にのめり込んでいきました。
 このことが、私が日本人のルーツに興味を持つようになったキッカケになったと思います。日本人の成り立ちを探り出せば自分という人間の成り立ちがはっきりするのではないかと考えたのでしょう。以後は自分個人のルーツを考えるよりも日本人という集団のルーツを探ることに興味が移っていきました。
 「日本人はどこから来たか!?」は、そのひとつの結論として書いたものです。しかし、その出来にはあまり満足していませんでした。なぜなら、書き残していることがたくさんあるように感じていましたし、中には自分でも十分には納得できないまま書いた部分があったからです。いつか書き直さなくてはならないと思っていました。
 折しも私は、何冊かの本で得た新しい知識から日本人のルーツについて考え直そうとしていました。私の頭の中でそれらの知識はまだまとまった形にはなっていません。しかし、今ここに改めて稿を設けて日本人のルーツについて一から考え直してみようと思います。頭の中で悶々と考えているより文章という形で吐き出すことにより、自分の考えをまとめていこうと思うのです。
 なかなか終着駅に着かない長い旅になるかもしれません。私のこのおかしな旅に付き合ってくださる方がいれば、どうぞご一緒ください。

 このページを公開してから、古代史、または考古学か言語学の専門家(と思われる方々)お2人からお叱りのメールをいただきました。どちらも、「大した根拠もなく勝手なこと書くな」「素人のくせに何様のつもりだ!」「削除すべきだ」という強い調子のメールでした。さらには内容についての批判だけでなく、私に対する罵詈雑言まで付け加えられていました。素人の趣味で公開した文章に対してどうしてそこまでヒステリックになるのか理解に苦しみました。学者の世界というのは、素人が土足で入り込むのを喜ばないのかもしれません。あるいは、学者の世界には自分と違う説を唱える学者を仇敵のように攻撃する人がいるので、私が紹介した説の提唱者に批判的な学者の方々が私の文章を目障りと感じ、「削除すべきだ」ということになったのでしょうか。しかし、おひとりは「茶飲み話としてなら許せる」と書いておられました。ありがたいお言葉です。お断りするまでもなく私は古代史や考古学、言語学の専門家でも学者でもないのですから、これはまさしく茶飲み話です。ということで、専門家の皆様、見逃してくださいね。素人の文章を批判している暇があったら自分の研究を進めましょうよ。〈4.2/04〉

●“スメラミコト”という言葉

 省略

●天皇家のルーツは大陸にある

 省略

●王朝は何度も交替した

 省略

●ルーツを隠した大王たち

 省略

●天皇は朝鮮王と同族だった

 省略

●倭の五王は朝鮮王かもしれない

 省略

●縄文人のルーツのひとつは北にある

 しかし、彼ら征服者たちがそれほど多くの人や馬を連れてきたとは考えられません。もし何万もの大軍で押し寄せてきたのだとしたら、肉食などの騎馬民族特有の習慣が今の日本にもっと多く残っているはずです。それがないのは、彼ら征服者の数が少なかったことを示していると思います。
 騎馬民族と農業は相性が悪いらしく、純粋な騎馬民族が農耕に手を染めることはまずないそうです。米が食べたくなったら近くの農村に行って奪ってくればいいと昔の騎馬民族は考えていました。農民にしてみればいい迷惑ですが、重税を課して彼らの上に重くのしかかる国という存在よりはまだましだったかもしれません。なぜなら騎馬民族たちは欲しい物を手に入れれば風のように去っていったからです。彼らの国をあげての侵略もそのパターンと変わりません。他民族を征服した場合、彼らはその地に自分たちの文化を浸透させるといったことはほとんどなく、行政は旧政権の実務家たちに任せました。そのため農民などの下層民の生活にはそれほど影響はなかったようです。
 この列島を征服した騎馬民族も、そのような国の治め方をしたと私は思います。彼らの習慣が後の日本にあまり残らなかったのは、彼らの数が少なかったためだけではなく、騎馬民族特有の政治の仕方にも理由があったのではないでしょうか。
 とすれば、列島の先住民と彼ら騎馬民族との混血はあまりなかったとも考えられます。勢力を持った豪族たちとは、統一事業を効果的に進める上で彼らはむしろ積極的に姻戚関係を結んだでしょうが、彼らと在地豪族を合わせても、その人口は列島全体の中ではほんのひと握りでしかなかったに違いありません。彼らひと握りの支配者階級を支えたのは、この列島の人口のおそらくほとんどを占めていた農民や漁民たちだったでしょう。彼ら農民や漁民には騎馬民族の血はほとんど入らなかったと思います。
 そう考えれば、騎馬民族の血は、後の貴族階級にしか流れ込まなかったとみておおむね当たっていると思います。
 では、この稿の冒頭で紹介したように、現在の日本人が大陸のブリヤート人とよく似ているのはなぜでしょうか。
 ブリヤートも騎馬民族の一派なので混乱しがちですが、弥生、古墳時代にこの列島にやってきた騎馬民族と彼らは関係ないと私は考えています。ブリヤート人がこの列島にやってきたのはもっと昔のことで、それもかなりの数の人々がやってきたと考えています。それが列島の原住民の主流になったと考えているのです。
 騎馬民族の成立は西アジアでは紀元前6世紀、東アジアでは紀元前4世紀といわれています。日本列島の歴史でいえば、だいだい弥生時代初期にあたります。騎馬民族というのは遊牧民のことです。遊牧という生産様式が誕生することによって生じた戦闘集団なのです。ブリヤート人が日本列島に渡ってきたのが弥生時代以前だとすると、彼らはまだ遊牧を知らない狩猟民族だったはずです。
 その民族移動は縄文以前の石器時代にあったと私は考えます。それがこの列島に定着して、後の縄文人になったと考えるのです。なぜなら、今から1万年以上前、日本列島は大陸と陸続きだったからです。そのころ、大陸から多くの人々が渡ってきたことは間違いありません。その後にも渡ってきたと思いますが、以後は大陸と離れてしまったので渡ってくるとしたら船で来るしかありません。船ではそう多くの人々がやってきたとは考えにくいのです。
 いずれにしても、大陸のブリヤート人はこうして列島へと住み着き、その後のいわゆる縄文人の主流になったと考えます。日本人の源流ともいうべきこの縄文人に、さきに考察したように後の騎馬民族の血はごく少数しか入らなかったわけです。現在の日本人がブリヤートと似ているのはそのためだと思います。 

●黒潮に乗ってやってきた人々

 これまでの推理では、最初にこの列島にやってきたのは大陸の北方に住んでいたブリヤート人だったということになりました。それが縄文人になり、その上にかぶさるようにして北方騎馬民族が支配者として君臨したということになります。
 とすると、日本人のルーツはすべて北方系の民族だったということになります。しかし、縄文時代の次の弥生時代を築いた人たちは稲という南方系の植物を伝えた人たちですし、また日本の風習や言葉には南方系の色彩が色濃く残っています。これらのことから、日本人のルーツは北にのみあるとは言えないのです。
 稲は南方系の植物なので、稲作も南方で始まりました。それがこの列島に渡来したということは、南方の民族がやってきたことを意味しています。だから弥生人は南方系の民族だったと思います。この弥生人が、後の日本の南方的な要素を形作ったのでしょうか。
 たぶん彼ら弥生人の影響は大きかったでしょう。しかし、その後の日本にもっと大きな影響を与えた南方系の人々がいたと私は考えます。それは縄文時代にはすでにこの列島にやってきていたと思います。
 それは南太平洋からはるばるやってきた人々です。そんな遠いところから来るものかと思わないでください。黒潮という強い流れに乗れば、その移動は十分に可能だったらしいのです。九州南部や四国、紀伊半島南部などの浜には、よくヤシの実が漂着するそうです。ヤシの実はフィリピンなど比較的近い島から流れてくる例もありますが、中には赤道に近い南太平洋の島々から流れてくるものも少なくないといいます。
 ヤシの実のように人間が漂流してきたと言いたいのではありません。彼らはちゃんと船に乗ってやってきたのだと思います。何千年も昔にそんな船などなかったという説もありますが、とすれば、南太平洋に散らばる島々にそれぞれ似たような民族が存在することを説明できなくなります。彼らは大昔から遠洋に漕ぎ出ることのできる船を持ち、はるかな海路を旅する知恵も持っていたと考えるべきです。
 その一部は、間違いなくこの列島にもやってきたと私は思います。なぜなら、南太平洋の島々と同じような風習が後の日本にも存在したからです。例えばフンドシがそうです。夜這いもそうです。刺身に代表される生食も南方由来の習慣です。また、結婚しても夫婦が一緒に住むことなく夫が妻の家に通うだけという通い婚もそうです。さらに、日本列島の西南に近年まで残っていた、成年に達するまで男子が共同生活するという若衆宿や若衆制と呼ばれた制度も南方系のものです。これらの風習だけでなく、言葉にもその痕跡がありありと残っています。
 よく私たちは、ポコポコとかパラパラとかビロビロとか、そんなふうに同じ音を繰り返す言葉を使います。これは北方系の言語にはあまり見られない南方系言語の特徴だそうです。言語についてはそれだけでなく、単語がずばり共通している例が少なくありません。日本語の起源を南太平洋だと考える言語学者が多いのも当然だと思えるほど、日本語と南太平洋の島々の言葉とは共通点が多いのです。
 これが単なる偶然だとはとても考えられません。南太平洋と日本列島は離れすぎていますが、だからこそそんな偶然が起きるとは考えられないのです。考えられることはひとつ、それは南太平洋の島々からやってきた人たちがいたということです。それもわずかではなく、かなりの人数です。でなければ、この列島に南太平洋と同じ言葉が残るはずはありません。
 この列島には、おそらく太古から多くの南方人が黒潮に乗ってやってきたのだと思います。南太平洋の島々と同じ風習が九州南部や四国、紀伊半島南部に多く残ったのは、それらの地域が黒潮の洗う海岸線を持っていたからでしょう。
 こうして南方系の民族がこの列島に入り込み、ひとつの勢力になっていったと思います。それが後の縄文人の一派になっていくと私は考えます。この稿では彼らを南方系縄文人と呼ぶことにします。さらに後の時代に、ハヤト(隼人)と呼ばれた種族が九州南部に存在しました。彼らはおそらくこの南方系縄文人の一派だと思います。沖縄に残る琉球民族もその一派だと私は考えています。またアイヌ民族もそうだと思います。
 アイヌ民族は後に北海道を中心とする地域に住んだため北方系と思われがちですが、身体的特徴から見ると彼らはむしろ南方系なのです。おそらく彼らは後の渡来人による征服事業に追われて北へ北へと移り住んでいったのでしょう。
 この南方系縄文人と前記の北方系縄文人は、この列島の中でおおむねうまく共存していたのだと思います。というより、住み分けていたと思います。南方系縄文人は寒冷な気候を嫌い、後のアイヌ民族を例外として列島南部から北へはそれほど移動しなかったように思うのです。一方、北方系縄文人たちも、それほど南下しなかったと考えます。
 というのも、つい百数十年前まで、この列島の住人たちは地域によって顔形も体型も言葉もかなり違っていたからです。それは、大雑把に分けると関西型と関東型になります。たぶん彼ら2系統の縄文人は東海地方あたりを境界にして住み分けていたのでしょう。
 縄文時代の遺跡から出土する土器の模様などから推測すると、北と南の交流は案外活発だったとも考えられます。とすれば混血もあったはずですが、もし活発な混血が行われていたとしたら、東と西のその後の地域差はもっと小さくなっていたはずです。交流は一部の人々によって行われていたにすぎなかったのかもしれません。
 とすれば、北方系縄文人の祖先と考えられるブリヤート人と現在の日本人がよく似ているのはなぜでしょうか。考えられるのは、南方系縄文人の数が意外に少なかったからだということです。
 考えてみればそれは当然のことです。南方系縄文人の祖先は海を渡って遠い島々からやってきたのです。そんなに多くの人々がやってきたとは考えにくいでしょう。それに対して北方系縄文人の祖先は陸地を渡ってきたわけですから、相当数がこの列島に入り込んで定着したと見ることができます。ですから、北方系縄文人のほうの人口が圧倒的に多かったと考えられます。現在の日本人がブリヤート人とよく似ているのはそのせいだと思います。
 ともあれ、多少の混血により関東以北の人々にも南方の習慣が少しは入り、関西以西の人には北方の習慣が多少は混じったとはいえ、彼ら2系統の縄文人はおおむね住む地域を別にしてそれぞれ独自の文化を築いていったと考えます。

●王朝文化は弥生人が築いた

 弥生人の渡来はそれ以後です。「日本人はどこから来たか!?」で書いたように、彼らは主に中国大陸南部からやってきたのだと思います。
 古代中国人が倭人と呼んだのはおそらくこの弥生人たちです。魏志などの中国の記録を見る限り、倭人は南方の海洋性民族そのものです。そこには北方の血を臭わせるような記述は見当たりません。中国南部には今も蛋民と呼ばれる水上生活者がいます。彼らは海に浮かべた船を住居に、海に潜って魚介類を採ったりして暮らしています。その習俗は、魏志東夷伝倭人条(いわゆる魏志倭人伝)にある「倭人、帯方の東南の大海中にありて(中略)男子は老若の別なく、みな鯨面・文身(入れ墨)、断髪し(中略)好んで潜水して魚や蛤を捕る」(一部意訳)という有名な一文が示すものとそっくりです。
 弥生人たちの主流は、おそらく現在の蛋民たちと同じルーツを持つ人々だったでしょう。「日本人はどこから来たか!?」で書いたように、私の想像ではそれら弥生人たちの最も大きな集団は南インドのタミル人の後裔たちだったはずです。タミル語が日本語の主な源流になったのはこのときだと思います。
 コンピュータによるシミュレーションによると、弥生時代から7世紀ころまでにこの列島にやってきた人は少なくとも数十万人にのぼるそうです。その中にはいわゆる弥生人も騎馬民族も含まれます。騎馬民族の数はそれほど多くないと考えられるので、数十万人のおそらく大部分は弥生人だと思います。
 でなければ、その後の日本列島の低地が水田で埋まるほど稲作が浸透したことが説明できません。またタミル語が日本語の主な源流になることもありえなかったと思います。
 しかし、ブリヤートを祖先にする北方系縄文人の数は新しい渡来人の数倍も、もしかすると数十倍もあったと思います。弥生人は稲作技術を携えて相当広い範囲に入り込んでいます。このため先住の縄文人とはだいぶ混血したはずです。それなのに後の日本人の血にブリヤートの血が色濃く残ったのは、弥生人の数が北方系縄文人に比べて少なかったからだと思うのです。
 稲作というのは、当時の列島において、いや世界的にも画期的な生産技術でした。狩猟や遊牧に比べて、同じ面積の土地で数倍の人口が養えるほどすごい生産技術だからです。この技術は、弥生人が特に勧めなくても先住民の間に広まったのではないでしょうか。弥生人の数が北方系縄文人よりはるかに少なくても稲作が短期間に列島の中で広まったのは、稲作という生産技術それ自体に大きな力があったからだと思います。
 あるいは、彼ら弥生人はこの優れた生産技術をもとに縄文人たちを支配したかもしれません。弥生人は鉄器も持っていました。鉄器は農具だけでなく武器としても使われたはずです。鉄器を知らない縄文人たちは弥生人の敵ではなかったと思います。
 弥生人の言葉が後の日本語の主流を形作ったのは、彼らが支配者としてこの列島の各地で君臨したからかもしれません。もしかすると、この列島に今も息づく南方由来の習俗は、南方系縄文人よりも弥生人のほうが多く残したのかもしれません。弥生人になったと考えられる東南アジアの種族は南太平洋の島々の種族と深い関係があると見られているので、南太平洋の習俗の多くはあるいは弥生人経由で列島へともたらされたとも考えられます。
 ところで、騎馬民族が支配者となってもその習俗は下層民にまでは浸透しませんでした。それに対して弥生人の習俗はどうして下層民にまで入り込んだのでしょうか。
 農耕民族は、騎馬民族とは違って征服した後は被支配者に自分たちの文化を押しつけます。弥生人の場合はまったく稲作を知らない人々に稲作をさせる必要がありました。この必要から、少なくとも初期のころは支配者側の人間が直接指揮して下層民たちに日々の仕事をさせたに違いありません。とすれば下層民にも弥生人の言葉は入り込んだはずです。多くの習俗が入り込んだことも十分にありえます。
 同様に、騎馬民族が支配する世になっても弥生人の習俗は残ったと思います。新支配者である騎馬民族は、その伝統から実務の多くを旧支配者の弥生人にやらせたはずです。たぶん弥生人の多くは滅び去ったのではなく、騎馬民族の下で新支配者側の貴族となって生き残ったのでしょう。
 後の天皇家に代表される皇族の習慣などを見ると、そこには南方的な色彩がたくさんあります。それは騎馬民族が残したものではないでしょう。おそらく、弥生人たちがもたらしたのだと思います。後の王朝文化は弥生人が築いたと言ってもよいかもしれません。

●ニニギは弥生人だった

 省略


●繰り返された侵略と征服

 昨年10月、古代出雲の地・島根県で大発見がありました。銅鐸が40個近くもまとめて出土したのです。それらの銅鐸を調べてみると、近畿地方から出土したものと同じ鋳型からできたものが何個かありました。銅鐸は、石や粘土で作った鋳型に青銅を流し込んで作ります。だから同じ鋳型から作られたものは同じ大きさで、鋳型に傷があればそれも複製されます。そのキズから、兄弟だと判明したのです。
 銅鐸は謎に包まれていて、いったいどういう用途で使われていたのかよくわかっていません。用途がわからないのは、この道具についての記録が一切残っていないからです。証拠はないながら、多くの学者は銅鐸を祭器だったと考えています。
 銅鐸は主に畿内で出土している青銅器で、そのことから畿内には銅鐸をシンボルとする政権があったと考えられています。その銅鐸が出雲の地から出土したことで、当時の出雲が畿内と何らかの形で交流を持っていたことがわかってきました。
 一方、同じ場所から銅矛も出土しています。さらに、数キロ離れた場所からは銅剣が何と358本もまとまって出土したのです。銅矛や銅剣は主に九州で出土する青銅器で、銅鐸と同様に祭器の道具として用いられていたと考えられています。このことから銅矛と銅剣は九州政権のひとつのシンボルだったと考えられています。
 銅鐸が九州から出土した例は皆無に近く、銅矛や銅剣が畿内で出土した例もあまりありません。当時の日本列島は、銅鐸文化圏と銅矛・銅剣文化圏にほぼきっちりと分かれていたのです。
 その銅鐸と銅矛と銅剣が揃って出雲から出土したのです。これは何を示しているのでしょうか。
 さらに不可解なのは、これら銅鐸と銅剣がどちらもきれいに並べられて埋められていたことです。遺跡だから埋まっていて当然ですが、これらは自然に“埋まった”のではなく、人為的に“埋められていた”のです。それら銅鐸の多くの取っ手部分にはバツ印が刻まれ、銅剣にも同じ印が刻まれていました。
 古代出雲の人々は、なぜゆえに銅鐸と銅剣に傷をつけて埋めたのでしょうか。
 私は、銅鐸は弥生人、つまり稲作集団の祭器、銅矛や銅剣は騎馬民族集団の祭器だったと考えています。
 北九州に上陸した弥生人たちは稲作の好適地を求めて東へと向かい、河内・大和という最適地を発見してそこに定着しました。大雑把に言えばそうなります。列島各地には先住者である縄文人たちがいましたが、生活する場所が違うので争うことは少なく、混血を重ねることも少なかったでしょう。彼ら弥生人は朝鮮半島から渡ってきた青銅器の光と輝きに神秘的なものを感じ、それを手に入れて祭器として使ったのではないでしょうか。出土する銅鐸は青く錆びていて見た目に美しいものではありませんが、作られた当時はおそらく金ピカに輝いていたはずです。
 こうして銅鐸は弥生人にとって重要な祭器となり、その集団の東進とともに近畿へと伝わっていきました。こうして銅鐸は、近畿で政権を打ち立てた大王たちのシンボルになったと思うのです。
 近畿政権が力を蓄えつつあったころ、しかし北九州には騎馬民族、あるいは騎馬民族系の集団が続々と渡来し、そこで地元の勢力を平らげてみるみる巨大に成長していました。彼らは戦闘集団らしく銅剣と銅矛を崇めました。すでに鉄器を持っていた彼らにとって、銅剣や銅矛は実用品ではありませんでした。祭器として用いていたのでしょう。
 その騎馬民族集団が、ときを得て東進し、近畿政権を打ち倒しました。そのとき以来、この列島で銅鐸が作られることはなくなったのではないでしょうか。
 銅鐸を祭器に使っていた近畿以外の勢力は、中央の政変を知って慌てたはずです。出雲の地で銅鐸が大量に埋められたのは、政変を知った出雲の豪族が新政権への配慮から行ったことだったと私は思います。他の地域から出土する銅鐸も、その多くは意図的に埋められたものなのです。中にはわざわざ割って埋めた例もあります。こんなことをしたのは、たぶん銅鐸をシンボルとしていた上部政権が銅鐸とは何の関係もない別の政権に取ってかわられたためだった思うのです。
 銅鐸が祭器の一種だったとすれば、祭りは支配者の仕事なので支配者側の記録に残っていないはずがありません。それがないのは、この道具が祭器ではないか、あるいは支配者とは無縁のものだったからでしょう。
 銅鐸のルーツとみられるものは朝鮮半島や北九州で出土しています。それらはみな小さいもので、見た目にはカウベルのようです。もしかすると馬の首にでもぶら下げて使われていたのかもしれません。それが弥生人によって東に伝えられていくうちに巨大でしかも派手な装飾のあるものに変化しました。畿内で出土したものには人の背丈ほどもある大きなものがあります。これを馬の首に下げることは不可能です。それは冗談としても、こんな大きなものとなると、櫓の上に吊して叩くとか、そんな用途くらいしか考えられません。かなり重いでしょうから吊して使うことも難しかったかもしれません。やはり銅鐸は祭器として使われたと考えるのが最も妥当でしょう。
 とすれば、銅鐸が記録に残っていないのは、それが後の日本国政権につながる支配者とは無縁のものだったからと考えるしかありません。このことからも、この列島の中心ともいうべき近畿に最初の政権を立てた王朝は、新しい侵略者によって滅んだと考えていいと思います。滅んだのは弥生人の王、滅ぼしたのは騎馬民族の王です。
 では、出雲の地で銅剣までもが埋められたのはなぜでしょうか。
 これについては明確な回答をまだ得ていません。もしかすると銅剣や銅矛は騎馬民族の祭器ではなく、騎馬民族以前に渡来した別の種族の祭器だったかもしれません。弥生人の後、騎馬民族の前に渡来して勢力を蓄えた彼らが近畿政権を打ち倒したという考えです。
 あるいは、こういう考えはどうでしょうか。すなわち、当時この列島には近畿と北九州に大きな勢力がありました。それぞれ銅鐸、銅矛・銅剣を崇めていて、列島の勢力を二分していました。出雲はそのどちらにも属さない第三勢力ともいうべき存在でしたが、争う不利を知っていたので銅鐸も銅矛・銅剣も持って、どちらの勢力ともうまくやっていました。こうして一応の均衡を保っていた列島に、突如として巨大な武力集団がやってきました。彼らは列島の在来二大勢力をあっとう間に滅ぼし、新しい大王となりました。出雲は慌て、滅んだ政権のシンボルである銅鐸も銅剣も土中に埋めた……。
 突如として出現した巨大な武力集団とは、言うまでもなく大陸の騎馬民族です。後のモンゴル帝国などの侵略をみると騎馬民族の行動はどうやら伝統的に素早いので、私のこの推理は案外当たっているかもしれません。
 こうして騎馬民族がこの列島の覇権を握ったのち、列島内部はまたたく間に統一されていきました。統一とは言いようで内実は血塗られた侵略と征服だったと思います。反抗勢力は容赦なく滅ぼされ、あくまで反抗した一群は南、あるいは北へと逃れたでしょう。巨大権力といえども列島の隅々まで完全に支配することは難しかったのに違いありません。その結果、九州南部と沖縄、それに東北、北海道にそれぞれハヤトやアイヌといった人々が後々まで残ったのだと思います。 

●王朝貴族は日本人の原型ではない

 省略 

●台頭してきた武士とは何者か

 省略

●半島の血が日本人の一典型を作った

 省略


●猛々しさと誇りを忘れた日本人

 省略

 《参考文献》
「日本語をさかのぼる」(大野晋)・「日本語の起源-新版」(大野晋)・「二つの顔の大王」(小林惠子)・「聖徳太子の正体」(小林惠子)・「天武と持統」(李寧煕)・「日本の古代1」(森浩一編)・「古事記物語」(太田善麿)・「原・日本人の謎」(邦光史郎)・「新釈日本史-この国のはじめ」(邦光史郎)・「古代天皇の秘密」(高木彬光)・「歴史の舞台」(司馬遼太郎)・「逆説の日本史1」(井沢元彦)・他 


人類の系譜、日本人のルーツー3 日本人源流の巻

2012-09-12 | 民族学、考古学!?
今回日本人の源流と日本人の起源と言う本を読んだので、感想を記述します。
共に面白い本ですが、最近の古墳発掘の成果やそのDNA解析の結果を含めて解説しています。
しかしこれらの本を読む間に、多くの疑問点も生じてきます。
例えば日本語の起源については、結論的なことが言えません。
すでに縄文時代、南方の貝装飾品が三内丸山遺跡で出てくるなど、かなり広い範囲の人の移動が確認され、言葉もお互い影響しあったことが考えられます。
アイヌ語と日本古語がかなり近いのも、そのような事情があったと思いますが、タミル語との共通性を指摘した、大野晋先生の説は、意外性が高く、信じる人が少ないことも分かりました。
そこで私なりに、もう少しタミル人(現在インド南部に定住)の特徴などを調べる予定です。

人類の系譜、日本人のルーツー2 そして日本人が生まれたの巻

2012-08-22 | 民族学、考古学!?
NHKスペシャル、日本人はるかな旅の2-4を借りることができなかったので、5 そして日本人が生まれたを読みました。
近いうちに2-4も探し読みたいと思います。
この本のエキスは主に樺太経由で日本に入った縄文人が日本各地で暮らしていた後、2400年くらい前に、中国や朝鮮半島から弥生人の子孫が渡来し、九州から近畿地方に拡散して行った過程を述べています。
この時渡来した人々の数は述べ100万人くらいという大きな説もありますが、それと比べるとかなり少ない説の方が有力です。
縄文時代の後半は寒冷な気候となり、縄文人の人口が減少しましたが、渡来人が来て、稲作を始めると急速に人口が増えたそうです。
そして縄文時代にはほとんどなかった、部族争いで(小規模な戦争)で多くの死者もでるようになったのです。
この章では発掘された人骨から渡来人は中国、沿岸地方や朝鮮半島の人々の特徴を持っていたと述べている。
所でこの本では言語のことは全く触れていない、もし多くの渡来人は中国系とすれば、日本語に大きな影響を与えたはずですが、何の痕跡もないのが私には大変疑問に感じました。
また当時の中国人は文字も持っていましたが、もちろんこの痕跡も有りません。
このようにまだ解明されていないことが多いのです。
私が以前投稿した日本語の起源で、学習院大学の大野教授(故人)は日本語とタミル語の共通点や甕棺の習慣などから、当時タミル人が稲作文化を持って渡来したという説を述べられたが、この章では全くそれの触れられていない。
当時のタミル人の容姿は不明ですが、当時の人骨から、タミル人のDNAが検出できないものか大変興味があります。

人類の系譜、日本人のルーツ-1 マンモスハンター、シベリアからの旅立ちの巻

2012-08-15 | 民族学、考古学!?
2001年にNHKで放映された日本人はるかな旅を見ることが有りませんでしたが、図書館でその本を見つけ読みはじめました。
最初の出だしは、タイトルの通り、マンモスハンター、シベリアからの旅立ちです。
最近(2001年頃)の研究成果としてDNA解析で、日本の縄文人に一番近いのが、ロシアのバイカル湖付近のブリヤート共和国付近で生活している、ブリアート族(人口42万人程度)ということが判明した。もちろんに日本人には南方系、中国、朝鮮系の人々の遺伝子も混ざっていますが、最後の氷河期に樺太経由で多くの祖先が日本に入ったと言うことになります。
北海道や東北には多くの縄文遺跡が有りますが、彼らはブリアート族に近い種族であったと私は考えます。
北海道や東北の縄文人の末裔がアイヌであると言う説とそうでない説がありますが、私はアイヌではないと考えています。
アイヌは日本の縄文時代より後にやはり大陸から樺太経由で北海道や東北に侵入した部族と私は思います。
その理由はアイヌが最近まで主に狩猟採取とそれの交易で生業を立てていましたが、東北の縄文人はすでに栗の栽培など農業に近いことを行っていた、身体的な特徴がブリアート族や平均的な日本人とかなり異なるからです。

世界の少数民族-9 西パプアのファユ族の巻

2012-04-14 | 民族学、考古学!?
先日西パプアのファユ族の記事を記載しましたが、ファユ族の写真や著者本人の写真が無かったので追加します。
著者は1972年生まれですので現在40歳くらいでドイツに住んでいます、またご両親は再度西パプアに渡り、住民と暮らしているそうです。

世界の少数民族-8 西パプアのファユ族の巻

2012-04-07 | 民族学、考古学!?
最近ドイツ人のザビネ・キュングラー著によるジャングルの子を読みました。
彼女は言語学者で宣教師の両親に育てられ、ネパールで生まれ、1980年から西ニューギニアで育ちました。
その自伝です。
私は以前1970年頃、パプアニューギニアで数年生活した日本の民族学者の記事を書きましたが、この西ニューギニアの方がさらに現代文明との接触は遅い種族が居たことになり、非常に興味深く読みました。
この本の要点
1)1980年頃西ニューギニアの奥地では種族間の戦争が起きていた。
2)まだ全く文明社会との接触がないとされる部族(ファユ族)の情報を得た著者の父親が命がけでファユ族の中に入り家族と共に数年生活した。
3)政府の統治は全く届いてなく、主に戦争(部族間や部族の下部グループ間で生じる)で起こる殺人は日常的でそれを取り締まる警察も居ない。
4)同じ言語を使う部族にも幾つかの下部グループが存在し、その境界でも戦争が起こる。
5)そこで死亡者が出ると、報復の戦争が起こり、この悪循環を断つことができないでおり、人口が減少している。
6)海岸から少し離れた所をテリトリーとしている、ファユ族は石器を使い僅かに外部から持ち込まれた金属を貴重品として使う。
7)著者の父親により、悪の循環を断ち切る努力がなされた、その後帰国によりこの活動は一時中断さてたが、また再開された。
8)部族間の争いをこの本では戦争と表現されていたので、私もそう記述しましたが、この小競り合いは国の中の争いで、規模が小さく、日常的な争いですので、戦争と言う表現は当たらないかもしれません。また彼らのこの悪い習慣を野蛮と簡単に片づけることはできないと思います、現在世界で起こっている戦争やテロとどこが違うのか私は区別できません。
9)西パプアにはこの様な少数部族がまだ多く暮らしています、彼らに文明社会の秩序を導入するのが良いのか、このまま戦争を含め、彼らの伝統を維持さてた方が良いのか難しい判断が必要です。


世界の少数民族ー8 フィリピンの狩猟採取民族、アエタ族の巻

2011-10-14 | 民族学、考古学!?
マレーシアの狩猟採取民族を取り上げる予定ですたが、まだ十分の情報が集まらず、フィリピン、ルソン島のアエタ族を取り上げることにしました。
彼らは、首都マニラに有る、ルソン島の住人ですが、比較的最近大噴火したピナトツボ火山の西側一帯に住んでおり、噴火の被害者だそうです。
私が写真を見る限り、ネグーリートとしては、比較的黄色人的で、現地の住民との混血が進んでいるように思いました。
または他のネグリートとは数万年まえに分岐したのですから、それからこの方向に進化したのかも知れません。

明日から約2週間、ネパールに行きます、この間、ブログはお休みします。
帰国しだい、投稿を再開します。

世界の少数民族-8 ネパールのラウテ族の巻

2011-10-02 | 民族学、考古学!?
今度訪問するネパールの民族を調べていたところ、当地にも狩猟採取民族がいることが分かり調べました。
添付した画像で分かるようにアジアの少数民族所謂ネグリートではないと考えられます。
他の種族に追われ、森に逃げ込み、生活を始めた部族ではないかと私は考えました。


川本さんブログから引用
この旅で、ラウテに聴きたいことがありました。ヒマラヤの麓にあたるインド、ネパール、ブータンの山岳地帯には、マカク、ラングール、ロリスといった霊長類がいます。ラウテの暮らす地域にはアカゲザル、アッサムモンキー、 グレイラングール(ハヌマンラングール)、の3種類がいます。どの種類のサルを、どこで捕えているか、どんな捕まえ方をするのか、といった狩猟のことを知りたかったのです。それから、なぜサルしか狩猟しないのか、どうやって生計をたてているのか、どんな共同生活をしているのか、といった暮らし方のことも聴きたかったのです。

 研究の興味からいうと、ヒマラヤの山岳地帯に分布しているサルたちの成立の歴史や生態のことは、よくわかっていません。分類や現在の分布ですら不明なことが多く、2005年に、インド東北部のアルナーチャルプラデシュでマカクの新種 アルナーチャルマカク(学名でMacaca munzala)が報告されました。21世紀にもなってアジアのサルに新種が見つかったという報告には驚きました。いま注目しているのは、アカゲザルとアッサムモンキーがどのように棲み分けているかという問題です。どちらもニホンザルと同類でマカクというサルです。マカクの祖先たちがヒマラヤへいつ、どのように広がったかは、マカク全体の進化を考えるのに大事な問題です。ヒマラヤ地域のサルたちの分布や成立過程がわかれば、アフガニスタンから日本まで広がるマカクがどのように進化し、多様な種に変化していったかを理解する情報になります。

 ヒマラヤ山岳地帯にいるマカクの分布は不思議です。和田一雄先生によると、ネパールではアカゲザルとアッサムモンキーの分布が重なっています(Wada 2005)。しかしブータンではインド国境付近の低地を除けばアッサムモンキーしかいないようです(Kawamoto et al. 2006)。アカゲザルとアッサムモンキーが区別できているか、2種の分布の違いを知っているか、サルを狩るラウテに聴いてみたかったのです。

 宿営地を訪ねたところ、幸いにもラウテの人たちから答が聴けました。写真を見せると、3種類のサルを正確に区別していました。アカゲザルは『ラト バンダル(赤いサル)』、アッサムモンキーは『カロ バンダル(黒いサル)』と呼び分けていました。グレーラングールは『グナ バンダル』と呼んで、区別していました。3種類のサルのいずれも捕えていて、調理法を尋ねたところ、毛は焼き、皮つきで塩と唐辛子で煮て食べるとのことでした。


 黒いサルは高い土地に、赤いサルは低い土地に多いが、分布が一部で重なっているという話でした。この話から、ネパールの山岳地帯では、2種類のマカクが同所的に分布し、ブータンの分布とは違うことが想像できました。また、黒いサル、つまりアッサムモンキーが高地にいるという話から、ブータンの分布と似た性格があることもわかりました。これからもっと調べないといけないことですが、私はアッサムモンキーの方が古くからヒマラヤ山岳地域にいたと考えています。ラウテの話は、この仮説を考える助けになりました。

 キソルさんと稲村先生はラウテの暮らしや歴史に興味をもっています。ラウテは狩猟生活だけで自活しているわけではありません。宿営地を訪ねると、木工作業をしているのがわかりました。ラウテは木地師なのです。製品は鉢や箱などで、これらを農村で穀類と交換していました。つまり、かれらは狩猟だけに頼って自給生活をするのではなく、農産物を得ながら移動生活を送っているようです。従って、農村との交易がなければ生活は成り立たず、ラウテが狩猟民だといっても、その起源は古いとは限らないだろうと想像しました。だとすると、いつ、どんな人たちが、今のような生活をするようになったのか、その起源は農民だったのか、カースト制度との関係はどうだったのか、土地所有や従属の縛りから離れた現在の生活をどうやって作ったのか、といった疑問が湧いてきます。キソルさんと稲村先生の研究から、答えが明らかになるように願っています。


 私たちが訪ねたとき、グループはふたつに分派して、別々の宿営地で狩猟をしていました。こうした分派は季節的に起こすそうで、やがてまたひとつに合体するという話でした。グループのリーダーや構成メンバーが変化するようですが、その実態はまだよくわかっていません。

 ラウテをとりまく環境は変化しているようです。かれらに会いにゆく途中で農民から苦情を聴きました。ラウテが森で勝手に木を切って木工製品を作っていることへの不満でした。かれらに土地所有の認識はないようです。また、宿営地まで案内してくれたNPO団体の職員からは、子供たちが勉強できるよう定住生活を働きかけていると聴きました。

 2つの宿営地で話が聴けたのは収穫でした。しかし、かれらは私たちに好意的ではなく、その生活を知るのは簡単でありません。訪ねたとき、前日に赤いサルを20匹捕まえたと聴きましたが、見せてはもらえませんでした。狩猟は男たちの仕事だそうですが、その方法を教えてもらえませんでした。野生動物を食物資源として利用しているわけですから、捕り尽くすことはないと思い、一度に捕える頭数を聴いてみると、最大で一度に60匹捕まえたことがあるとの話でした。これは、一群を丸捕りする数です。小さいサルは食べないようにするが、獲物が少なければ小さくても食べると聴きました。かれらが巡る山々にサルがどれほどいるかわからないので、これからも狩猟が続けられるか、疑問に思いました。

2009.8.2. 文責 川本 芳




人類の系譜、新人の巻

2011-10-01 | 民族学、考古学!?
いよいよ新人の時代ですが、この時期になると、人類はユーラシア大陸からアメリカ大陸にまた当時陸地だったスンダランドからオセアニアに進出しました。
ここに記載したクロマニオン人だけがその後の人類のルーツではありませんが、欧州人の祖先の可能性は高いと思います。