エルダーBP

登山 写真撮影等多趣味ですが最近は卓球で登山のためのトレーニングして 山岳写真撮影に励んでいます。

人類の系譜、日本人のルーツー4 タミル人の巻

2012-09-13 | 民族学、考古学!?
ネットで色々検索していると、初めてタミル人と日本人の関係に注目した記事を見つけました。
もちろんその元情報は大野晋先生のご本からの引用ですが、嬉しく思いました。
その記事を引用させて頂きますが、素人の記事に対する研究者からの中傷について、私も同感です。
添付した画像はタミル人の容姿です、皮膚の色は濃く体毛が発達しています。タミル人は現在インド、スリランカに住んでいますが、アーリア系の現インド人が中東方面から、侵攻する前には、インド北部にも住んでいたと考えられます。
私はアーリア系インド人が侵攻する中で、東に流出した種族が居たと想像しています。
またブータン辺りの部族と日本人の容姿は良く似ていますが、山間部に逃避したタミル人が居た可能性があります。
またこれは全く私の想像ですが、タミル語、日本語の古語、アイヌ語の共通性やアイヌの容姿から、アイヌの先祖はタミル人ではないかと言う仮説を考えました。
この仮説での矛盾は、アイヌは農耕が得意ではないということです。
大野先生はタミル人が日本に稲作を伝えたと考えています。

以後、日本人のルーツ再考から引用

●日本人のルーツ再考 (4.29/97)

 学生時代、私はずっと歴史が嫌いでした。ですから日本の昔のことについて若いころはよく知りませんでした。20歳のころ、忠臣蔵の好きな友人と話をしていて、話がかみ合わずに困惑しました。赤穂浪士という名前は聞いたことがあるように思いましたが、「殿中でござる」とか「刃傷でござる」という言葉は聞いたこともありませんでした(ニンジョウという言葉を聞いて私はそれを人情だと思った)。これでは話がかみ合うはずがありません。そのころの恋人にそのことを話すと大笑いされました。日本人で赤穂浪士を知らない人がいるなんて信じられないと言われました。
 私はかなりのショックを受け、忠臣蔵好きの友人を誘って「赤穂城断絶」という映画を鑑にいきました。ところがこの映画は確か浅野の殿様が吉良に切りつける刃傷事件からいきなり始まったのです。浅野の殿様がなぜ吉良を切ったのかさえ私はわからず、なんだかよくわからないまま映画は終わってしまいました。終わってから私は「あの殿様がなぜ切りつけたのか説明してなかったからストーリーがよくわからなかったよ」と友人に言いました。彼は天を見上げて言いました。「そんなこと日本人ならみんな知ってんだよ」と。
 私は劇画ばりに「ガーン」と衝撃を受け、友人に勧められて大佛次郎の「赤穂浪士」を読みました。私が歴史に興味を持つようになったのはそれからです。
 私が歴史と接するようになったのは小説においてです。司馬遼太郎の歴史小説に出会ってから私は歴史がおもしろくて仕方なく思えるようになりました。司馬さんの小説の中に登場する人々は私の眼前で生身の人間のように動き、そして話し、そして笑っては泣きました。歴史の教科書では決して感じることのできない昔の人々の息づかいや匂いがそこにはあったのです。(司馬さんが亡くなったのは残念で仕方ありません)
 ある日、ひとつの歴史小説を読んでいた私は、そこに登場した人物に妙に惹きつけられました。理由がわからないまま読み進んでいくうちに、その人物が私とよく似ていることに気づきました。その後、ほかの歴史小説を読んでいて同じようなことを何度か感じました。
 まだ若かった私は自分が何者なのか探りつづけていました。その答えが、ひょっとすると歴史上の人物から得られるのではないか。そう思った私はますます歴史小説にのめり込んでいきました。
 このことが、私が日本人のルーツに興味を持つようになったキッカケになったと思います。日本人の成り立ちを探り出せば自分という人間の成り立ちがはっきりするのではないかと考えたのでしょう。以後は自分個人のルーツを考えるよりも日本人という集団のルーツを探ることに興味が移っていきました。
 「日本人はどこから来たか!?」は、そのひとつの結論として書いたものです。しかし、その出来にはあまり満足していませんでした。なぜなら、書き残していることがたくさんあるように感じていましたし、中には自分でも十分には納得できないまま書いた部分があったからです。いつか書き直さなくてはならないと思っていました。
 折しも私は、何冊かの本で得た新しい知識から日本人のルーツについて考え直そうとしていました。私の頭の中でそれらの知識はまだまとまった形にはなっていません。しかし、今ここに改めて稿を設けて日本人のルーツについて一から考え直してみようと思います。頭の中で悶々と考えているより文章という形で吐き出すことにより、自分の考えをまとめていこうと思うのです。
 なかなか終着駅に着かない長い旅になるかもしれません。私のこのおかしな旅に付き合ってくださる方がいれば、どうぞご一緒ください。

 このページを公開してから、古代史、または考古学か言語学の専門家(と思われる方々)お2人からお叱りのメールをいただきました。どちらも、「大した根拠もなく勝手なこと書くな」「素人のくせに何様のつもりだ!」「削除すべきだ」という強い調子のメールでした。さらには内容についての批判だけでなく、私に対する罵詈雑言まで付け加えられていました。素人の趣味で公開した文章に対してどうしてそこまでヒステリックになるのか理解に苦しみました。学者の世界というのは、素人が土足で入り込むのを喜ばないのかもしれません。あるいは、学者の世界には自分と違う説を唱える学者を仇敵のように攻撃する人がいるので、私が紹介した説の提唱者に批判的な学者の方々が私の文章を目障りと感じ、「削除すべきだ」ということになったのでしょうか。しかし、おひとりは「茶飲み話としてなら許せる」と書いておられました。ありがたいお言葉です。お断りするまでもなく私は古代史や考古学、言語学の専門家でも学者でもないのですから、これはまさしく茶飲み話です。ということで、専門家の皆様、見逃してくださいね。素人の文章を批判している暇があったら自分の研究を進めましょうよ。〈4.2/04〉

●“スメラミコト”という言葉

 省略

●天皇家のルーツは大陸にある

 省略

●王朝は何度も交替した

 省略

●ルーツを隠した大王たち

 省略

●天皇は朝鮮王と同族だった

 省略

●倭の五王は朝鮮王かもしれない

 省略

●縄文人のルーツのひとつは北にある

 しかし、彼ら征服者たちがそれほど多くの人や馬を連れてきたとは考えられません。もし何万もの大軍で押し寄せてきたのだとしたら、肉食などの騎馬民族特有の習慣が今の日本にもっと多く残っているはずです。それがないのは、彼ら征服者の数が少なかったことを示していると思います。
 騎馬民族と農業は相性が悪いらしく、純粋な騎馬民族が農耕に手を染めることはまずないそうです。米が食べたくなったら近くの農村に行って奪ってくればいいと昔の騎馬民族は考えていました。農民にしてみればいい迷惑ですが、重税を課して彼らの上に重くのしかかる国という存在よりはまだましだったかもしれません。なぜなら騎馬民族たちは欲しい物を手に入れれば風のように去っていったからです。彼らの国をあげての侵略もそのパターンと変わりません。他民族を征服した場合、彼らはその地に自分たちの文化を浸透させるといったことはほとんどなく、行政は旧政権の実務家たちに任せました。そのため農民などの下層民の生活にはそれほど影響はなかったようです。
 この列島を征服した騎馬民族も、そのような国の治め方をしたと私は思います。彼らの習慣が後の日本にあまり残らなかったのは、彼らの数が少なかったためだけではなく、騎馬民族特有の政治の仕方にも理由があったのではないでしょうか。
 とすれば、列島の先住民と彼ら騎馬民族との混血はあまりなかったとも考えられます。勢力を持った豪族たちとは、統一事業を効果的に進める上で彼らはむしろ積極的に姻戚関係を結んだでしょうが、彼らと在地豪族を合わせても、その人口は列島全体の中ではほんのひと握りでしかなかったに違いありません。彼らひと握りの支配者階級を支えたのは、この列島の人口のおそらくほとんどを占めていた農民や漁民たちだったでしょう。彼ら農民や漁民には騎馬民族の血はほとんど入らなかったと思います。
 そう考えれば、騎馬民族の血は、後の貴族階級にしか流れ込まなかったとみておおむね当たっていると思います。
 では、この稿の冒頭で紹介したように、現在の日本人が大陸のブリヤート人とよく似ているのはなぜでしょうか。
 ブリヤートも騎馬民族の一派なので混乱しがちですが、弥生、古墳時代にこの列島にやってきた騎馬民族と彼らは関係ないと私は考えています。ブリヤート人がこの列島にやってきたのはもっと昔のことで、それもかなりの数の人々がやってきたと考えています。それが列島の原住民の主流になったと考えているのです。
 騎馬民族の成立は西アジアでは紀元前6世紀、東アジアでは紀元前4世紀といわれています。日本列島の歴史でいえば、だいだい弥生時代初期にあたります。騎馬民族というのは遊牧民のことです。遊牧という生産様式が誕生することによって生じた戦闘集団なのです。ブリヤート人が日本列島に渡ってきたのが弥生時代以前だとすると、彼らはまだ遊牧を知らない狩猟民族だったはずです。
 その民族移動は縄文以前の石器時代にあったと私は考えます。それがこの列島に定着して、後の縄文人になったと考えるのです。なぜなら、今から1万年以上前、日本列島は大陸と陸続きだったからです。そのころ、大陸から多くの人々が渡ってきたことは間違いありません。その後にも渡ってきたと思いますが、以後は大陸と離れてしまったので渡ってくるとしたら船で来るしかありません。船ではそう多くの人々がやってきたとは考えにくいのです。
 いずれにしても、大陸のブリヤート人はこうして列島へと住み着き、その後のいわゆる縄文人の主流になったと考えます。日本人の源流ともいうべきこの縄文人に、さきに考察したように後の騎馬民族の血はごく少数しか入らなかったわけです。現在の日本人がブリヤートと似ているのはそのためだと思います。 

●黒潮に乗ってやってきた人々

 これまでの推理では、最初にこの列島にやってきたのは大陸の北方に住んでいたブリヤート人だったということになりました。それが縄文人になり、その上にかぶさるようにして北方騎馬民族が支配者として君臨したということになります。
 とすると、日本人のルーツはすべて北方系の民族だったということになります。しかし、縄文時代の次の弥生時代を築いた人たちは稲という南方系の植物を伝えた人たちですし、また日本の風習や言葉には南方系の色彩が色濃く残っています。これらのことから、日本人のルーツは北にのみあるとは言えないのです。
 稲は南方系の植物なので、稲作も南方で始まりました。それがこの列島に渡来したということは、南方の民族がやってきたことを意味しています。だから弥生人は南方系の民族だったと思います。この弥生人が、後の日本の南方的な要素を形作ったのでしょうか。
 たぶん彼ら弥生人の影響は大きかったでしょう。しかし、その後の日本にもっと大きな影響を与えた南方系の人々がいたと私は考えます。それは縄文時代にはすでにこの列島にやってきていたと思います。
 それは南太平洋からはるばるやってきた人々です。そんな遠いところから来るものかと思わないでください。黒潮という強い流れに乗れば、その移動は十分に可能だったらしいのです。九州南部や四国、紀伊半島南部などの浜には、よくヤシの実が漂着するそうです。ヤシの実はフィリピンなど比較的近い島から流れてくる例もありますが、中には赤道に近い南太平洋の島々から流れてくるものも少なくないといいます。
 ヤシの実のように人間が漂流してきたと言いたいのではありません。彼らはちゃんと船に乗ってやってきたのだと思います。何千年も昔にそんな船などなかったという説もありますが、とすれば、南太平洋に散らばる島々にそれぞれ似たような民族が存在することを説明できなくなります。彼らは大昔から遠洋に漕ぎ出ることのできる船を持ち、はるかな海路を旅する知恵も持っていたと考えるべきです。
 その一部は、間違いなくこの列島にもやってきたと私は思います。なぜなら、南太平洋の島々と同じような風習が後の日本にも存在したからです。例えばフンドシがそうです。夜這いもそうです。刺身に代表される生食も南方由来の習慣です。また、結婚しても夫婦が一緒に住むことなく夫が妻の家に通うだけという通い婚もそうです。さらに、日本列島の西南に近年まで残っていた、成年に達するまで男子が共同生活するという若衆宿や若衆制と呼ばれた制度も南方系のものです。これらの風習だけでなく、言葉にもその痕跡がありありと残っています。
 よく私たちは、ポコポコとかパラパラとかビロビロとか、そんなふうに同じ音を繰り返す言葉を使います。これは北方系の言語にはあまり見られない南方系言語の特徴だそうです。言語についてはそれだけでなく、単語がずばり共通している例が少なくありません。日本語の起源を南太平洋だと考える言語学者が多いのも当然だと思えるほど、日本語と南太平洋の島々の言葉とは共通点が多いのです。
 これが単なる偶然だとはとても考えられません。南太平洋と日本列島は離れすぎていますが、だからこそそんな偶然が起きるとは考えられないのです。考えられることはひとつ、それは南太平洋の島々からやってきた人たちがいたということです。それもわずかではなく、かなりの人数です。でなければ、この列島に南太平洋と同じ言葉が残るはずはありません。
 この列島には、おそらく太古から多くの南方人が黒潮に乗ってやってきたのだと思います。南太平洋の島々と同じ風習が九州南部や四国、紀伊半島南部に多く残ったのは、それらの地域が黒潮の洗う海岸線を持っていたからでしょう。
 こうして南方系の民族がこの列島に入り込み、ひとつの勢力になっていったと思います。それが後の縄文人の一派になっていくと私は考えます。この稿では彼らを南方系縄文人と呼ぶことにします。さらに後の時代に、ハヤト(隼人)と呼ばれた種族が九州南部に存在しました。彼らはおそらくこの南方系縄文人の一派だと思います。沖縄に残る琉球民族もその一派だと私は考えています。またアイヌ民族もそうだと思います。
 アイヌ民族は後に北海道を中心とする地域に住んだため北方系と思われがちですが、身体的特徴から見ると彼らはむしろ南方系なのです。おそらく彼らは後の渡来人による征服事業に追われて北へ北へと移り住んでいったのでしょう。
 この南方系縄文人と前記の北方系縄文人は、この列島の中でおおむねうまく共存していたのだと思います。というより、住み分けていたと思います。南方系縄文人は寒冷な気候を嫌い、後のアイヌ民族を例外として列島南部から北へはそれほど移動しなかったように思うのです。一方、北方系縄文人たちも、それほど南下しなかったと考えます。
 というのも、つい百数十年前まで、この列島の住人たちは地域によって顔形も体型も言葉もかなり違っていたからです。それは、大雑把に分けると関西型と関東型になります。たぶん彼ら2系統の縄文人は東海地方あたりを境界にして住み分けていたのでしょう。
 縄文時代の遺跡から出土する土器の模様などから推測すると、北と南の交流は案外活発だったとも考えられます。とすれば混血もあったはずですが、もし活発な混血が行われていたとしたら、東と西のその後の地域差はもっと小さくなっていたはずです。交流は一部の人々によって行われていたにすぎなかったのかもしれません。
 とすれば、北方系縄文人の祖先と考えられるブリヤート人と現在の日本人がよく似ているのはなぜでしょうか。考えられるのは、南方系縄文人の数が意外に少なかったからだということです。
 考えてみればそれは当然のことです。南方系縄文人の祖先は海を渡って遠い島々からやってきたのです。そんなに多くの人々がやってきたとは考えにくいでしょう。それに対して北方系縄文人の祖先は陸地を渡ってきたわけですから、相当数がこの列島に入り込んで定着したと見ることができます。ですから、北方系縄文人のほうの人口が圧倒的に多かったと考えられます。現在の日本人がブリヤート人とよく似ているのはそのせいだと思います。
 ともあれ、多少の混血により関東以北の人々にも南方の習慣が少しは入り、関西以西の人には北方の習慣が多少は混じったとはいえ、彼ら2系統の縄文人はおおむね住む地域を別にしてそれぞれ独自の文化を築いていったと考えます。

●王朝文化は弥生人が築いた

 弥生人の渡来はそれ以後です。「日本人はどこから来たか!?」で書いたように、彼らは主に中国大陸南部からやってきたのだと思います。
 古代中国人が倭人と呼んだのはおそらくこの弥生人たちです。魏志などの中国の記録を見る限り、倭人は南方の海洋性民族そのものです。そこには北方の血を臭わせるような記述は見当たりません。中国南部には今も蛋民と呼ばれる水上生活者がいます。彼らは海に浮かべた船を住居に、海に潜って魚介類を採ったりして暮らしています。その習俗は、魏志東夷伝倭人条(いわゆる魏志倭人伝)にある「倭人、帯方の東南の大海中にありて(中略)男子は老若の別なく、みな鯨面・文身(入れ墨)、断髪し(中略)好んで潜水して魚や蛤を捕る」(一部意訳)という有名な一文が示すものとそっくりです。
 弥生人たちの主流は、おそらく現在の蛋民たちと同じルーツを持つ人々だったでしょう。「日本人はどこから来たか!?」で書いたように、私の想像ではそれら弥生人たちの最も大きな集団は南インドのタミル人の後裔たちだったはずです。タミル語が日本語の主な源流になったのはこのときだと思います。
 コンピュータによるシミュレーションによると、弥生時代から7世紀ころまでにこの列島にやってきた人は少なくとも数十万人にのぼるそうです。その中にはいわゆる弥生人も騎馬民族も含まれます。騎馬民族の数はそれほど多くないと考えられるので、数十万人のおそらく大部分は弥生人だと思います。
 でなければ、その後の日本列島の低地が水田で埋まるほど稲作が浸透したことが説明できません。またタミル語が日本語の主な源流になることもありえなかったと思います。
 しかし、ブリヤートを祖先にする北方系縄文人の数は新しい渡来人の数倍も、もしかすると数十倍もあったと思います。弥生人は稲作技術を携えて相当広い範囲に入り込んでいます。このため先住の縄文人とはだいぶ混血したはずです。それなのに後の日本人の血にブリヤートの血が色濃く残ったのは、弥生人の数が北方系縄文人に比べて少なかったからだと思うのです。
 稲作というのは、当時の列島において、いや世界的にも画期的な生産技術でした。狩猟や遊牧に比べて、同じ面積の土地で数倍の人口が養えるほどすごい生産技術だからです。この技術は、弥生人が特に勧めなくても先住民の間に広まったのではないでしょうか。弥生人の数が北方系縄文人よりはるかに少なくても稲作が短期間に列島の中で広まったのは、稲作という生産技術それ自体に大きな力があったからだと思います。
 あるいは、彼ら弥生人はこの優れた生産技術をもとに縄文人たちを支配したかもしれません。弥生人は鉄器も持っていました。鉄器は農具だけでなく武器としても使われたはずです。鉄器を知らない縄文人たちは弥生人の敵ではなかったと思います。
 弥生人の言葉が後の日本語の主流を形作ったのは、彼らが支配者としてこの列島の各地で君臨したからかもしれません。もしかすると、この列島に今も息づく南方由来の習俗は、南方系縄文人よりも弥生人のほうが多く残したのかもしれません。弥生人になったと考えられる東南アジアの種族は南太平洋の島々の種族と深い関係があると見られているので、南太平洋の習俗の多くはあるいは弥生人経由で列島へともたらされたとも考えられます。
 ところで、騎馬民族が支配者となってもその習俗は下層民にまでは浸透しませんでした。それに対して弥生人の習俗はどうして下層民にまで入り込んだのでしょうか。
 農耕民族は、騎馬民族とは違って征服した後は被支配者に自分たちの文化を押しつけます。弥生人の場合はまったく稲作を知らない人々に稲作をさせる必要がありました。この必要から、少なくとも初期のころは支配者側の人間が直接指揮して下層民たちに日々の仕事をさせたに違いありません。とすれば下層民にも弥生人の言葉は入り込んだはずです。多くの習俗が入り込んだことも十分にありえます。
 同様に、騎馬民族が支配する世になっても弥生人の習俗は残ったと思います。新支配者である騎馬民族は、その伝統から実務の多くを旧支配者の弥生人にやらせたはずです。たぶん弥生人の多くは滅び去ったのではなく、騎馬民族の下で新支配者側の貴族となって生き残ったのでしょう。
 後の天皇家に代表される皇族の習慣などを見ると、そこには南方的な色彩がたくさんあります。それは騎馬民族が残したものではないでしょう。おそらく、弥生人たちがもたらしたのだと思います。後の王朝文化は弥生人が築いたと言ってもよいかもしれません。

●ニニギは弥生人だった

 省略


●繰り返された侵略と征服

 昨年10月、古代出雲の地・島根県で大発見がありました。銅鐸が40個近くもまとめて出土したのです。それらの銅鐸を調べてみると、近畿地方から出土したものと同じ鋳型からできたものが何個かありました。銅鐸は、石や粘土で作った鋳型に青銅を流し込んで作ります。だから同じ鋳型から作られたものは同じ大きさで、鋳型に傷があればそれも複製されます。そのキズから、兄弟だと判明したのです。
 銅鐸は謎に包まれていて、いったいどういう用途で使われていたのかよくわかっていません。用途がわからないのは、この道具についての記録が一切残っていないからです。証拠はないながら、多くの学者は銅鐸を祭器だったと考えています。
 銅鐸は主に畿内で出土している青銅器で、そのことから畿内には銅鐸をシンボルとする政権があったと考えられています。その銅鐸が出雲の地から出土したことで、当時の出雲が畿内と何らかの形で交流を持っていたことがわかってきました。
 一方、同じ場所から銅矛も出土しています。さらに、数キロ離れた場所からは銅剣が何と358本もまとまって出土したのです。銅矛や銅剣は主に九州で出土する青銅器で、銅鐸と同様に祭器の道具として用いられていたと考えられています。このことから銅矛と銅剣は九州政権のひとつのシンボルだったと考えられています。
 銅鐸が九州から出土した例は皆無に近く、銅矛や銅剣が畿内で出土した例もあまりありません。当時の日本列島は、銅鐸文化圏と銅矛・銅剣文化圏にほぼきっちりと分かれていたのです。
 その銅鐸と銅矛と銅剣が揃って出雲から出土したのです。これは何を示しているのでしょうか。
 さらに不可解なのは、これら銅鐸と銅剣がどちらもきれいに並べられて埋められていたことです。遺跡だから埋まっていて当然ですが、これらは自然に“埋まった”のではなく、人為的に“埋められていた”のです。それら銅鐸の多くの取っ手部分にはバツ印が刻まれ、銅剣にも同じ印が刻まれていました。
 古代出雲の人々は、なぜゆえに銅鐸と銅剣に傷をつけて埋めたのでしょうか。
 私は、銅鐸は弥生人、つまり稲作集団の祭器、銅矛や銅剣は騎馬民族集団の祭器だったと考えています。
 北九州に上陸した弥生人たちは稲作の好適地を求めて東へと向かい、河内・大和という最適地を発見してそこに定着しました。大雑把に言えばそうなります。列島各地には先住者である縄文人たちがいましたが、生活する場所が違うので争うことは少なく、混血を重ねることも少なかったでしょう。彼ら弥生人は朝鮮半島から渡ってきた青銅器の光と輝きに神秘的なものを感じ、それを手に入れて祭器として使ったのではないでしょうか。出土する銅鐸は青く錆びていて見た目に美しいものではありませんが、作られた当時はおそらく金ピカに輝いていたはずです。
 こうして銅鐸は弥生人にとって重要な祭器となり、その集団の東進とともに近畿へと伝わっていきました。こうして銅鐸は、近畿で政権を打ち立てた大王たちのシンボルになったと思うのです。
 近畿政権が力を蓄えつつあったころ、しかし北九州には騎馬民族、あるいは騎馬民族系の集団が続々と渡来し、そこで地元の勢力を平らげてみるみる巨大に成長していました。彼らは戦闘集団らしく銅剣と銅矛を崇めました。すでに鉄器を持っていた彼らにとって、銅剣や銅矛は実用品ではありませんでした。祭器として用いていたのでしょう。
 その騎馬民族集団が、ときを得て東進し、近畿政権を打ち倒しました。そのとき以来、この列島で銅鐸が作られることはなくなったのではないでしょうか。
 銅鐸を祭器に使っていた近畿以外の勢力は、中央の政変を知って慌てたはずです。出雲の地で銅鐸が大量に埋められたのは、政変を知った出雲の豪族が新政権への配慮から行ったことだったと私は思います。他の地域から出土する銅鐸も、その多くは意図的に埋められたものなのです。中にはわざわざ割って埋めた例もあります。こんなことをしたのは、たぶん銅鐸をシンボルとしていた上部政権が銅鐸とは何の関係もない別の政権に取ってかわられたためだった思うのです。
 銅鐸が祭器の一種だったとすれば、祭りは支配者の仕事なので支配者側の記録に残っていないはずがありません。それがないのは、この道具が祭器ではないか、あるいは支配者とは無縁のものだったからでしょう。
 銅鐸のルーツとみられるものは朝鮮半島や北九州で出土しています。それらはみな小さいもので、見た目にはカウベルのようです。もしかすると馬の首にでもぶら下げて使われていたのかもしれません。それが弥生人によって東に伝えられていくうちに巨大でしかも派手な装飾のあるものに変化しました。畿内で出土したものには人の背丈ほどもある大きなものがあります。これを馬の首に下げることは不可能です。それは冗談としても、こんな大きなものとなると、櫓の上に吊して叩くとか、そんな用途くらいしか考えられません。かなり重いでしょうから吊して使うことも難しかったかもしれません。やはり銅鐸は祭器として使われたと考えるのが最も妥当でしょう。
 とすれば、銅鐸が記録に残っていないのは、それが後の日本国政権につながる支配者とは無縁のものだったからと考えるしかありません。このことからも、この列島の中心ともいうべき近畿に最初の政権を立てた王朝は、新しい侵略者によって滅んだと考えていいと思います。滅んだのは弥生人の王、滅ぼしたのは騎馬民族の王です。
 では、出雲の地で銅剣までもが埋められたのはなぜでしょうか。
 これについては明確な回答をまだ得ていません。もしかすると銅剣や銅矛は騎馬民族の祭器ではなく、騎馬民族以前に渡来した別の種族の祭器だったかもしれません。弥生人の後、騎馬民族の前に渡来して勢力を蓄えた彼らが近畿政権を打ち倒したという考えです。
 あるいは、こういう考えはどうでしょうか。すなわち、当時この列島には近畿と北九州に大きな勢力がありました。それぞれ銅鐸、銅矛・銅剣を崇めていて、列島の勢力を二分していました。出雲はそのどちらにも属さない第三勢力ともいうべき存在でしたが、争う不利を知っていたので銅鐸も銅矛・銅剣も持って、どちらの勢力ともうまくやっていました。こうして一応の均衡を保っていた列島に、突如として巨大な武力集団がやってきました。彼らは列島の在来二大勢力をあっとう間に滅ぼし、新しい大王となりました。出雲は慌て、滅んだ政権のシンボルである銅鐸も銅剣も土中に埋めた……。
 突如として出現した巨大な武力集団とは、言うまでもなく大陸の騎馬民族です。後のモンゴル帝国などの侵略をみると騎馬民族の行動はどうやら伝統的に素早いので、私のこの推理は案外当たっているかもしれません。
 こうして騎馬民族がこの列島の覇権を握ったのち、列島内部はまたたく間に統一されていきました。統一とは言いようで内実は血塗られた侵略と征服だったと思います。反抗勢力は容赦なく滅ぼされ、あくまで反抗した一群は南、あるいは北へと逃れたでしょう。巨大権力といえども列島の隅々まで完全に支配することは難しかったのに違いありません。その結果、九州南部と沖縄、それに東北、北海道にそれぞれハヤトやアイヌといった人々が後々まで残ったのだと思います。 

●王朝貴族は日本人の原型ではない

 省略 

●台頭してきた武士とは何者か

 省略

●半島の血が日本人の一典型を作った

 省略


●猛々しさと誇りを忘れた日本人

 省略

 《参考文献》
「日本語をさかのぼる」(大野晋)・「日本語の起源-新版」(大野晋)・「二つの顔の大王」(小林惠子)・「聖徳太子の正体」(小林惠子)・「天武と持統」(李寧煕)・「日本の古代1」(森浩一編)・「古事記物語」(太田善麿)・「原・日本人の謎」(邦光史郎)・「新釈日本史-この国のはじめ」(邦光史郎)・「古代天皇の秘密」(高木彬光)・「歴史の舞台」(司馬遼太郎)・「逆説の日本史1」(井沢元彦)・他 



最新の画像もっと見る

コメントを投稿