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登山 写真撮影等多趣味ですが最近は卓球で登山のためのトレーニングして 山岳写真撮影に励んでいます。

2015年7月 OSAC月例山行 中央アルプス 烏帽子岳の巻

2015-07-27 | 岡崎シニア山岳会
梅雨が明け晴天の中、私は参加できませんでしたが、OSACの月例山行が実施されました。
この山は過去2回計画され、天気などの理由で中止になったものですが、最後は締めてくれました。
参加したIさんに報告書を作成して頂いたので掲載します。

平成27年度、伊賀川、川祭りの巻

2015-07-23 | 稲熊1区町内会
今日は生憎の天気の中、伊賀川を美しくする会主催の川祭り、金魚を放流し、子供たちが川で捕まえる予定でしたが、中止になりました。
雨で川が濁っているからです、そこで堤防の上で、来ていただいた方に金魚を配りました。

伊吹山登山の巻

2015-07-22 | 日記
昨日は帰省中の娘と伊吹山に登りました、下界は晴れでしたが8合目位から霧で視界は有りませんでした。
子供の頃なら登山でしたが、昨日はトライブ、駐車場から登り1時間位で頂上に着きました。
頂上付近のお花畑には色々咲いており、蝶が飛び交っていました。
帰りに友人から撮影ポイントとして聞いていた、長浜の野鳥公園と彦根に立ち寄り帰路に着きました。

小呂池に居る、チョウトンボの巻

2015-07-17 | 風景&山岳写真
最近遠くに撮影に行く気力が減少し、近場で撮影ポイントを探しています。
岡崎市の市民病院近く、小呂池は人工池ですが、有名な撮影場所になり、遠くから来る人がいます。
そこで半日、トンボの撮影に集中しました。
チョウトンボの羽は時に、虹色に輝き大変綺麗です、飛んでいる状態でそれを撮るのが目標です。

町内会の活動を紹介するブログ大幅縮小の巻

2015-07-15 | 稲熊1区町内会
4月中旬から試験的に運用していた、稲熊1区町内会ブログについて、運営委員会で意見を聞きました。
最初に数人の役員さんと元役員さんに見て頂きましたが、書記さんから強い不満がでたので、運営委員会で相談したのです。
運営委員の方は比較的高齢者が多く、50%以上の方は事前に見ることができません。
そこで可否を判断できないのです。
多数決は取りませんでしたが、見ることが出来ない方の心境を察知し、町内会公式ブログは継続しないことにしました。
理由
1.今管理している私は後2年で役員を終わる予定、その後誰が継続するか?
2.投稿内容を事前に役員会に図るとした場合、狙いの情報伝達の迅速性が犠牲になる。
3.先述の見ていない方の不安
対応
1.今まで書いた内容に一部をこのブログで紹介
2.緊急連絡掲示板を今までの同じ所に作成、個人の資格で投稿→この件については次回運営委員会で承認対象。
3.上記は事前に記載事項の項目を投稿、中身は災害時の状況で埋める。
4.上記方式の場合、数ページの内容なので、役員会に印刷物を持参し、承認を得られる予定。
5.また災害発生時まで更新しないので、町民から忘れ去られる心配は有る。
6.役員退任後も災害時役員さんから情報を頂き、ブログを更新する考え。
追伸
最初にOさんから、問題にされた記事、政治活動ではないかと言う指摘。
緊急連絡掲示板は稲熊1区で検索できます。

伊能忠孝測量、江戸時代後期、岡崎付近の地図

2015-07-07 | 稲熊1区町内会
岡崎付近を切り取りました、岡崎城の城主、本多中務大輔とは
江戸の大名に武家官位(官職)があります。
「なかつかさたゆう」又は「なかつかさだゆう」です。
時代によって濁点がついたり、つかなかったりします。
本多忠勝や関ヶ原で討ち死にした島津豊久や江戸時代後期の大名・脇坂 安董 (寺社奉行、老中)もこの官位をもらっています。

100年前に有った乙見村(字稲熊)はここに記載なく、この当時まだ集落は伊賀や井田までだったようです。
また現在は市街地の乙川南に当時村は無く、田畑に隣接した住居が分散していたと推測しました。

伊能忠孝のこと
江戸後期の測量家。
初名、神保三治郎。
千葉県九十九里町に生まれ、1762年、17歳の時に佐原(さわら)の酒造家伊能家の婿養子となる。
忠敬が伊能家に来た時、家業は衰え危機的な状況だった。
忠敬は倹約を徹底すると共に、本業の酒造業以外にも、薪問屋を江戸に設けたり、米穀取り引きの仲買をして、約10年間で経営を完全に立て直す(29歳の時の伊能家の年間収益は351両=約3500万円)。

36歳で名主となり、1783年(38歳)の天明の大飢饉では、私財をなげうって米や金銭を分け与えるなど地域の窮民の救済に尽力し、忠敬の村は一人の餓死者も出さなかった。
1793年(48歳)の伊能家の収益は1264両(約1億2640万円)にまで増える。

この間、独学で暦学をおさめ、49歳で家業を全て長男に譲って隠居。
1795年、50歳を機に幼い頃から興味を持っていた天文学を本格的に勉強する為に江戸へ出た。
浅草には星を観測して暦(こよみ)を作る天文方暦局があった。折しも天文方は改暦作業の最中。
忠敬が江戸に家を構えた同年春に、当時の天文学の第一人者、高橋至時(よしとき 1764-1804/当時31歳)と間重富(1756-1816/当時39歳)が幕府の天文方に登用されていた。
この2人は大阪で日本初の月面観測を行った麻田剛立(ごうりゅう 1734-1799/当時61歳)の一門のツー・トップだ。

忠敬は高橋至時を訪ね弟子入りした。
当初、至時は20歳も年上の忠敬の入門を“年寄りの道楽”だと思っていた。
しかし、昼夜を問わず勉強する忠敬の姿に感動し、“推歩先生”(すいほ=星の動き測ること)と呼ぶようになる。
至時が不在の際は観測機器に精通した間重富から指導を受け、忠敬は巨費を投じて自宅を本格的な天文観測所に改造し、日本で初めて金星の子午線経過の観測に成功する。


1797年(52歳)、高橋至時と間重富は新たな暦(寛政暦)を完成させたが、至時は地球の正確な大きさが分からず暦の精度に不満足だった。
“いったい地球の直径はどれくらいなのか”。
暦局の人々は、オランダの書物から地球が丸いということを知ってはいたが、子午線1度の長さは25里、30里、32里など意見が分かれていた。
そこで忠敬は「北極星の高さを2つの地点で観測し、見上げる角度を比較することで緯度の差が分かり、2地点の距離が分かれば地球は球体なので外周が割り出せる」と提案。至時は忠敬の案に賛同した。
2つの地点は遠ければ遠いほど誤差が減るため、江戸から蝦夷地(北海道)まで距離を測ることが望ましかった。

だが、当時は幕府の許可が無ければ蝦夷地には行けない…。
そこで至時が考えた名目が“地図制作”だった(つまり暦制作が本来の目的で、地図制作は移動の自由を得るための口実だった)。
この頃、蝦夷地では根室にロシア特使が上陸して通商を要求し、ロシア人の択捉島上陸事件も起こっており、国防のために正確な地図が必要だった。
至時・忠敬の師弟はそこを突き、結果的に幕府は蝦夷地のみならず、東日本全体の測量許可を出す(ただし幕府の財政援助はなく、すべて自費。
伊能家の3万両=約30億円とも言われる資産が役立った)。

●第一次測量(1800年)~蝦夷地太平洋岸

●第二次測量(1801年)~伊豆・東日本太平洋側

●第三次測量(1802年)~東北日本海側

●第四次測量(1803年)~東海・北陸地方

享和3年(1803年)2月18日、前年に続いて堀田摂津守から辞令が下る。
今回指示された測量地域は駿河(静岡)から尾張(愛知)までの東海地方、能登半島や佐渡島といった北陸地方だった。
旅費は82両(約820万円)まで増額された。2月25日に江戸を発ち、沼津、御前崎(静岡)、渥美半島(愛知)、知多半島と測量を行い、5月6日に名古屋に入った。
そこから北上して岐阜を通過し、5月27日に福井・敦賀に到着。
その後の約1カ月は複数の隊員が病気になり、父子だけで測量することもあったという。
6月24日から北陸の雄藩・加賀藩に入ると、藩の地理情報が外部に漏れることを警戒して現地案内人が地名を黙秘するなど抵抗にあい難儀する。

能登半島や佐渡は測量効率化のため二手に分かれて行動した。
9月17日に佐渡を離れ、10月7日、219日ぶりに江戸へ戻った。ここに3年がかりで行った東日本の海岸線測量が完結した。
帰宅後、さっそく当初の目的であった地球の大きさの計算に取り組むと約4万キロいう結果になった。
師の高橋至時が入手したオランダの最新天文学書と照らし合わせると数値が一致し、師弟は手を取り合って大喜びしたという。
忠敬が弾き出した数値は、地球の外周と千分の一の誤差しかない正確なものだった!

だが、それから間もなく、至時は天文学書の翻訳等で無理を重ねて床に伏し、年明けに39歳の若さで他界した。出会いから別れまで9年。
忠敬は嘆き悲しみ、師の墓がある上野・源空寺の方角に毎朝手を合わせた。
天文方には跡継ぎとして、子の高橋景保が登用された。

1804年(59歳)、これまでの測量データを「日本東半部沿海地図」としてまとめあげる。
大図69枚、中図3枚、小図1枚という大規模なもの。同年秋、11代将軍徳川家斉が江戸城大広間で上覧。
そのあまりの精密さに、立ち会わせた幕閣は驚愕する。
忠敬の身分では将軍に接見できなかったが、その3日後、小普請(こぶしん/禄高三千石未満の御家人)組として10人扶持(ふち/一日玄米五合を一日扶持と計算した一年間分の米や金。
この場合その10人分)を与えるという通知が届いた。
そして忠敬に“続けて九州、四国を含めた西日本の地図を作成せよ”と幕命が下る。


●第五次測量(1805年-1806年)~近畿・中国地方

●第六次測量(1808年)~四国

●第七次測量(1809年-1811年)~九州前半

●第八次測量(1811年-1814年)~九州後半

●第九次測量(1815年)~伊豆諸島

●第十次測量(1815年、1816年)~江戸

こうして1800年の蝦夷地測量から17年がかりで集めた全国の測量データを用いて、前代未聞の全日本地図の作成作業が始まった。
1817年(72歳)、かつて忠敬が測量を果たせなかった蝦夷地北西部の測量データを間宮林蔵が持って現れた。
あとは各地の地図を一枚に繋ぎ合わせるだけだ。地球は球面ゆえ、平面に移す場合の数値の誤差を修正する計算に入った。
だが、この局面で忠敬は持病の慢性気管支炎が悪化し、急性肺炎(老人性肺炎)に冒されてしまう。

病床で門弟の質問に返事を書くなどしたが、文政元年(1818年)4月13日、弟子に見守られながら73歳で世を去った。
高橋景保や弟子たちは“この地図は伊能忠敬が作ったもの”と世間に伝える為に、その死を伏せて地図の完成を目指した。

忠敬の死から3年後の1821年7月10日。
江戸城大広間で幕府上層部が見守る中、景保や忠敬の孫・忠誨(ただのり/15歳)、弟子たちの手で日本最初の実測地図「大日本沿海輿地(よち)全図」が広げられた。
3万6000分の1の大図214枚、21万6000分の1の中図8枚、43万2000分の1の小図3枚という、途方もない規模のものだった。

伊能忠孝測量、三河古地図の巻

2015-07-06 | 稲熊1区町内会
先日岡崎周辺の古地図を見つけましたが、解像度が悪いので、新しい物を図書館で探しました。
この地図の出所は「アメリカに有った伊能大図」と言う書物です。
今回添付したのは有名な江戸時代の測量家「伊能忠孝」が三河地方を測量した物です。
岡崎付近から挙母(今の豊田市)や猿投までカバーしています。
ここに登場する地名として岡崎付近では岡崎城、欠村、能見村、伊賀村、井田村、百々村、岩津村、日名村などが有り乙川の南には村がなかったことが分かりました。
また伊賀八幡社、滝山寺、竜渓院、北の方では猿投社が記載されています。
そして残念なことに地元の稲前神社は記載有りません。
私の先祖は江戸時代から今の豊田市中垣内町に住んでいましたが、この地図に村として記載されています。

岡崎市99周年市制記念日の巻

2015-07-04 | 稲熊1区町内会
町内として参加した時頂いた資料に岡崎市の歴史が有り興味深く読みました。
私が住んでいる稲熊町は乙見村字稲熊だったそうです。
また明治維新の混乱期、岡崎県や額田県が一瞬できたとは知りませんでした。

町内会(自治会)の巻

2015-07-03 | 稲熊1区町内会
4月から町内会の重責を担当しています、そして町内会のブログを試験的に開設し関係者の意見を収集しています。
上手く理解が得られれば、非常時など、連絡事項を一斉に送ることができるので有効でな無いかと考えています。
現在役員さんから組長さんに回す連絡網が有りますが多分、情報が回るのに1日以上掛り、それでも電話に出ない人を、飛び越さなければならないと考えています。
今年は事前に回覧で連絡してからですが、伝達訓練を行う予定です。

ツバメの巻

2015-07-03 | 風景&山岳写真
最近町内会対応でなんとなく遠くに行く気にならず、近場で写真撮影をしています。
特に忙しいのではないのですが、行政からの要請に十分応えるには骨が折れます。
この機会に関連の法律を勉強しましたが、町内会=自治会、行政は法的には町内会の活動を強制できないのです。
(これは戦前の反省です)
しかし町内会に活動費を補助しコントロールする作戦です。
我々の町内会の予算は、町費3600×700世帯=250万円+補助金60万円=310万円、補助金の割合は20%程度です。