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登山 写真撮影等多趣味ですが最近は卓球で登山のためのトレーニングして 山岳写真撮影に励んでいます。

世界の少数民族-1 サーミ人の巻 これから連載で私が興味を持っている少数民族を紹介します

2011-07-31 | 民族学、考古学!?
サーミ人はラップ人とも呼ばれ、添付の画像の通り北欧の北の外れに住んでいます。
人口は3万人とも30万人とも言われますが、混血したり、自分をサーミ人と言いたくない人がいるからと思います。
身体的な特徴として男性の平均身長が152cmと低く周辺の北欧民族の平均175cmと比較し大きな差があり、最近まで永い間混血しなかったと思われます。
私は北欧に住んでいる所謂白人系人種は蒙古系民族に比較し寒さに適応する身体的特徴を備えていないため、比較的新しく、北欧に進出したと考えています。
彼らは、温暖な地中海沿岸に住んでいる民族から逃避したと考えているのです。
しかし、地中海沿岸の民族の方が平均身長が低く、北に進出する過程で何故、身長が伸びたのかはなぞです。
もともと平均身長の高い民族が欧州南部にも居て彼らが戦に負け、北欧に退避したのかも知れません。
また周辺の北欧人が長頭(頭蓋骨の横幅と前後の長さの比において前後の方が長い)に対しサーミ人はモンゴル系のように短頭ですが、全体の顔形を見ると、白人的で、目の色の薄く、鼻の幅の狭く、比較的高い特徴が有ります。
皮膚の色、頭髪も周辺の北欧人に近く見えます。
旅行記に登場するサーミ人は写真にあるように、トナカイの放牧で暮らしている人が多く登場しますが、色んな生活をする集団がいます。

以下ウキペディアから引用

サーミとは決してトナカイ遊牧専業の民のみを指すのではない。それらの民はサーミ全体のわずかに過ぎず、トナカイ遊牧以外の生活様式を持った人々のほうが多い。  サーミは、大きく分けて五種類の生活様式に分類できる。

海岸サーミ人(1884年).山岳サーミ人
大規模なトナカイ遊牧を専業とする人々。「サーミ人」と聞いて連想されるのはこの系統の人々であり、北欧諸国が観光資源として活用しているサーミ人のイメージもこれが元となっている。もっとも、現在ではトナカイの遊牧のみを職業としている人は皆無に等しく、その他副業として第一次産業についている人がほとんどである。

海岸サーミ人
サガに描かれた交易の民とは彼らのことを指したと思われるが、現在では他のスカンディナヴィア人と変わらない生活を送っており、その生計の中心は漁業を含めた第一次産業、第三次産業にある。

森林サーミ人
小規模のトナカイ放牧を行う人々で、漁業、農業やその他第三次産業との兼業を主としている。山岳サーミ人と森林サーミ人における違いは、その飼育するトナカイの種の違いから来ている。山岳サーミ人が飼育するトナカイは広大な牧草地とそれに伴う長距離の移動が必要な種であるが、森林サーミ人が飼育しているのは、森林の周辺に生える地衣類を主食とし、大規模な移動を必要としない種なのである。

河川サーミ人と湖サーミ人
この2つの間に明確な違いはない。ただ、漁業を主とする人々であることが共通している。この二つを分ける要素は、その漁場の違いである。「湖サーミ人(イナリラップ)」は、フィンランドの最北部に位置するイナリ湖で漁業を行う人々(1996年現在でおよそ20人程度)を特に指し、「河川サーミ人」はその他大小の川で漁を行う人を指すのである。

サーミ語(Sámegielat)とは、スカンジナビア半島、および、ロシアのコラ半島に住む原住民、サーミ人が使用する言語。古くはラップ語の名でも呼ばれていたが、現在この呼称が用いられることはほとんどない。詳しい言語の歴史は不明だが、フィンランド語に近いことから、ウラル語族フィン・ウゴル語派に分類することもできる。方言の差が大きく、それぞれの方言を独立した言語と見なして「サーミ諸語」という言い方をされることが多い。
ただし、スカンディナヴィア側のサーミ諸方言には共通した文語も多い。以下はその全方言である。



福島原子力発電所事故-21 新安全構造の提案の巻-2

2011-07-28 | 日記
昨日原発の電源が喪失してもメルトダウンを防止できる基本構造を提案しましたが、もう少し現実的な構造を再提案します。
この構造であれば、今有る電気駆動の再循環ポンプを使い、炉心を冷却できます。
非常用復水器に蒸気駆動の小型タービンと発電機を付加するだけですが、非常時それを確実に手動で動作させる、訓練が不可欠です。
米国のスリーマイル島や今回の事故でも運転管理責任者の資質が問題になりました。
先日投稿したこの記事ですが、重要なことを書き忘れました。
マスコミの報道で余り報じれれていませんが、今回の地震や津波で、この原発の配管系に大きなダメージが有ったと思います。
原子炉格納容器は高い剛性が有り、重いため、一体で揺る動かされ、配管の固定先の原子炉建て屋と相対的に大きく位置的に差異が出るはずです。
この差異により、配管系は大きくダメージを受けたことが想像できます。
今回提案した、非常用復水器と蒸気タービンの配管も十分この点を考慮し、柔軟性の高いものにする必要性があります。


福島原子力発電所事故-20 新安全構造、提案の巻

2011-07-27 | 日記
今回の原発事故に対応し、ドイツのメルケル首相が世界で一番安全基準の高い日本でこのような事故になったので、ドイツでは原発を縮小すると言う発言が有りました。
しかし私は原子力保安員の作成した基準は甘いと思います。(最近この考え方が主流になりましたが)
そこで原発の基本構造をどうすべきかということですが、私は以前記述した通り、最悪電源が喪失しても、メルトダウンしないように、炉心を最低限の冷却ができる構造にすべきと思います。その構造提案です、私は原発を一気に諦めず、安全性の高い構造を開発すべきと考えています。


OAC夏合宿、白山山行に参加の巻-2

2011-07-26 | 登山、ハイキング
前に投稿した通り、白山に行きましたが、この時期高山植物が見頃です。
平瀬道から登ると途中黄色いニッコウキスゲの群落を見ることができ、展望歩道との合流点から室堂にかけ、クロユリ、ハクサンコザクラ、ハクサンフウロ、ハクサンイチゲ、ハクサンシャジン、チングルマ、シナノキンバイなど最高の状態でした

OAC夏合宿、白山山行に参加の巻

2011-07-25 | 登山、ハイキング
OACでは毎年2-3年の経験者に山行リーダを経験して頂く等の目的で、夏合宿を行い、今年は白山で実施しました。
今年は自動車&部品業界が木金休みになったことに対応し、23-24日4パーティーと28-29日3パーティー2回に分け、規模が大きくなりました。
私は23-24日の平瀬道からのピストンコースに参加し、初めて大汝峰にも登り、頂上に有る池を周回して来ました。
我々のパーティーはFさん(女性)がCLでOACで一番若いI君を含む5人でした。
登山口朝5時30分起床、6時30分スタートでしたが10分ほど遅れ、40分に歩き出しましたが、1時間ほど歩いた所でI君のペースが上がらず、
彼の希望も有り、テント装備の本体以外約4kgを持ったのが利いたようで、彼が持った共同装備を他の男性3人で分担することにしました。
この後は順調に高度を稼ぎ、大倉山避難小屋に9時30分コースタイム(3時間)より少し早いペースでした。
途中の休憩を入れこのスピードで歩くことが出来れば山岳会として合格と思います。
歩き出しはユックリ歩くように言いながら、少し早いペースだったことがI君の体調に効いたように思いました。
そしてカンクラ雪渓(展望台)付近ではまだ大きく残る雪渓を眺めながら、涼しい空気を感じさらに登ると展望歩道との合流点に着きました。
そこから室堂までのお花畑は素晴らしく、今までみたことが無いクロユリやハクサンコザクラの大きな群落を見ることができました。
室堂で大休憩をした後、黒ボコ岩経由でテント場の南竜ヶ馬場に向かい、計画通り14時40分からテントを設営しました。
今回の食事当番のOさん(男性)は2時間以上かけて素晴らしいグルメカレーを作成し、他のパーティーから見学者が出るほどでした。
翌朝は2時30分と非常に早い起床で、4時に歩き出し、展望歩道の展望台で日の出を見る予定でしたが、15分ほどスタートが遅れ、日の出に間に合いませんでした。しかし展望台では御岳、乗鞍岳などが雲海から顔を出していました。
その後室堂に戻り荷物をデポし池めぐりコース、大汝峰に登り、室堂に戻りました。
後は来た道を下山し予定通り2時40分に登山口に着きました。
OACで一番若い人と最高齢者の登山でしたが、足を引っ張ることなく下山でき幸いでした。


北海道でヒグマに会見!?の巻-2

2011-07-19 | 旅行
先日簡単な旅行記を投稿しました、その中にも写真を掲載しましたが、ヒグマの写真です。
早朝(午前5時ころ)宿泊先のウトロから温泉水が流れる滝、カムイワッカ湯の滝に向かう時、車道の左約20m位の林中を歩いていました。
助手席に居た家内も写真撮影に熱中していたので、車を降り、追跡して撮影した写真もありますが、この写真は帰りに、こんども車の左側に有った、沢の対岸を歩いている時の写真です。
自然保護センターで熊を見た方は報告してくれと書いてありましたので、報告に行くと、同じ日に2回も遭遇するのは大変珍しいそうでした。

アンナプルナベースキャンプまでのトレッキングの巻

2011-07-19 | 海外遠征
今秋添付した画像情報の通り、現地ガイド会社である、ヒマラヤンスマイルにお願いして、ポカラからアンナプルアベースキャンプまで往復するとレットキングを計画しています。
同行者を7月末まで募集しています、興味の有る方連絡ください。(コメントに記載ください)
宿泊はロッジで、日本の山小屋より少し程度が良い宿泊環境です。(1名1つのベットを確保)
また食事はロッジのレストランメニューの中から選択できます。

アイヌのルーツの巻-2

2011-07-17 | 民族学、考古学!?
前の記事で比較的最近日本人から見たアイヌの歴史を記載しましたが、アイヌは文字を持たなかったので、それ以前のことが分かり難いのです。
添付した伊藤氏は自身のHPの中で、アイヌはホモサピエンス(アフリカを出た時は間違いなく黒人であった)が白人と黄色人種に分化する頃の形質を残しているという仮説を発表されていますが、この点私も同じように思います。所謂少数民族が住む土地を変えながら、その民族の形質を長い間、保っている事例はスペインのバスク地方に居るバスク人のように有るからです。
また日本人のルーツを考える中で日本に暮らしていた、縄文人に対し、朝鮮半島経由で弥生人が入り込み、沖縄や伊藤氏の説のように、日本の北に逃れ、そこに縄文人の遺伝的形質が多くのこったと言う考えがあります。
私も基本的には同じ考えですが、アイヌ=北方縄文人という説には同調できません。
縄文時代以後、北海道、千島列島、樺太にはアイヌやそれ以外の北方民族が暮らしており、彼らはよく住む場所を移動したからです。
また北海道に有った縄文遺跡の発掘物とアイヌの文化に余り共通性がないのも理由です。
最後に今回アイヌ舞踊を見学する中で撮影させていただいた、踊り手の顔形を添付しますが、前の記事の記述の通り、通常のモンゴロイドとかなり異なることが理解頂けると思います。
私は大変不思議に感じますが、最近の日本人の顔形の中で白人的な美人顔が増えていることも事実ですが平均的なアイヌの顔も目鼻立ちが比較的白人的と思いました。

アイヌのルーツの巻-1

2011-07-17 | 民族学、考古学!?
私は若い時から人種や民俗学に興味が有り、その中で日本人のルーツやアイヌに付いても大変興味が有りました。
そして今回、7月2日から14日まで北海道を旅行しましたが、阿寒湖畔に有るアイヌ村で伝統の踊りを鑑賞する中で、踊り手の顔立ちから、アイヌのルーツを考えてみました。
まずアイヌに関する、基本的な情報を添付しますが、私が若い頃読んだ本では、当時多くの学者が白色人種系で有ると考えていたことに注目しました。
そして今回知床自然世界遺産情報提供施設、ルサ・フィールドハウスに居た学芸員のお話では知床に有る縄文遺跡の住人はアイヌ系では無く、アイヌはその後、北から北海道に入ったということでした。
この記事の後で添付する、伊藤氏の説は、アイヌは日本の北縄文、文化のルーツと位置づけていますが、私は現在、先述の学芸員の説に同調しています。

北海道でヒグマと会見!?の巻

2011-07-15 | 旅行
今回ブログの更新を休み、北海道に行っていました。
北海道は梅雨が無く天気の良いことを期待して行きましたが、最初の2日は東北地方に有る前線の影響で、ひどい雨に遭いました。
サロベツ原野は大変広大で、エゾカンゾウやハマナスが満開でしたが、雨が強く写真撮影どころでは有りませんでした。
そして礼文に渡りました、やはり1日目は雨でしたが、2日目から晴れて、高山植物と利尻島のコントラストが大変綺麗でした。
また稚内から網走にかけベニア原生花園やサロベツ湖にも原生花園があり丁度見頃でした。
網走では大学時代の無線部の友人Sさんと40数年ぶりに会い大変感激しました。
そして彼は文科系でしたがSSTVなど最先端の技術を運用し、その技術と意欲に敬意を表することになりました。
その後彼の提案で網走での宿泊を止め、ウトロまで行くことにしました。途中斜里町の原生花園に立ち寄った時、地元の方から先ほどヒグマが出たので注意して欲しいというアドバイスを頂、退散しました。
そして新しく出来た道の駅で1泊し、翌日早朝、知床5湖に向かいましたが途中でヒグマに遭遇し、写真を撮ることが出来ました。
その後、野天の温泉に入った帰り道でもヒグマに会い、レンジャーに報告に行きましたが、受付の女性はまだ見たことが無いそうで、大変ラッキーでした。
この後、知床横断道路を使い、羅臼のペンションを目指しました。ペンションに入るには早すぎるので半島の先までドライブし、そこに有るルサ・フィールドハウス(世界自然遺産関連施設)でアイヌの歴史など、勉強しました。
知床にも縄文遺跡が有りますが、アイヌの先祖の遺跡でな無く、アイヌはもっと後に時代に、この地域に移住したそうです。
この施設の2Fで鯨が観察できることが有るそうですが、今回は視界が悪く無理でした。
翌日は摩周湖ー阿寒湖経由で(道)阿寒丹頂の里泊予定でしたが、釧路湿原も見たいと遠周りすることにしました。
そして、釧路市内で宿泊できる公園を探しましたが、良い場所が見つからず、結局郊外の塘路湖キャンプ場まで行くことになりました。
ここは釧路湿原を展望できる、展望台の近くで、早朝から丹頂ツルを探していると、遠くに雛を育てている親鳥を確認できました、この時期の親鳥は雛を守り、飛ばないそうです。
その後湿原の西側に有る、ビジターセンターに行き、遊歩道を歩いていると、遠くに白い鳥を確認でき、レンジャーに聞いたところ、これも丹頂ツルだそうでした。
ここから今日の宿泊地である、十勝川温泉に行き、1泊し、最後の撮影ポイントで有る、美瑛に向かいました。
美瑛の手前の富良野に有る、ラベンダーガーデンに立ち寄り、予定していた(道)びえい丘のくらに行きましたが駅に近く環境が良くないので、西北の丘公園に変更しました。ここは夕張岳や大雪山の展望がよく、良い所でした。
翌日早朝、美瑛周辺の撮影ポイントを探し、撮影終了後、夕張、札幌経由で小樽に戻りました。

ニューギニア山岳部族、石器時代から現代に突入の巻

2011-07-01 | 民族学、考古学!?
私は民俗学に興味が有り、以前連載記事を掲載しましたが、今回パプアニューギニアに滞在しその伝統を収集した塩田氏の本を読みました。この本は2006年に発行されましたが、彼がニューギニアに滞在したのは1985年ー87年で当時の貴重な情報です。
ニューギニアの沿岸地方は当時すでにキリスト教の影響を大きく受けていましたが、添付した地図の中央山岳地帯は丁度影響が出始めた頃でした。
当時のニューギニア山岳地域は石器時代で、まだ土器も無い状況でした。
そして言語の異なる部族がその境界で争う(戦争状態)ことも有る時、塩田氏は約2年彼らと生活し、失われかけている。彼らの伝統生活の記録に努めました。
ここでこの本の概要を簡単に述べることはできませんが、私が特に興味を感じたことを箇条書きにします、私の想像では日本の石器時代にも同様な状況が有ったのではないかということです。
1)比較的狭い山岳地帯に異なる言語の部族が存在し、時々戦争状態になった。
2)状況により、部族間で同盟を結び、他の部族と対決した。
3)同じ部族の中でも、毒殺など殺人が横行していた。
4)戦争状態の後、ブタなどの譲渡で、それを償うことも行われた。
5)キリスト教が入るまえに、ある種の宗教(山の神のような)が存在していた。
6)1夫多妻で財力の有る男性は数人の夫人を持ち、彼女らが農作業をしていた。
7)まだ酋長(村長)の権威が確率しておらず、原始民主制のような体制であった。
いずれにしろ、石斧や弓矢を武器に争いが絶えない、地域に白人が入り込み、キリスト教や、法律を持ち込み、急速に、文明開化されている、外から見ると、悲劇の民族ですが、彼らはどう感じているか、私には分かりません。