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登山 写真撮影等多趣味ですが最近は卓球で登山のためのトレーニングして 山岳写真撮影に励んでいます。

人類の系譜、日本人のルーツのー8 日本人のDNAの巻

2012-12-31 | 民族学、考古学!?
歴史民族資料館のHPから日本人、韓国人、中国人のDNAを比較したデータがありましたので、円グラフにしました。
1.日本人の特徴
日本人固有のDNAを持った人の比率が韓国人、中国人と比較し少なく、韓国人、中国人の多く持っている、DNAを持った人が多く居る、また沖縄の人やアイヌに多いDNAを持った人も比較的多く存在し、日本人は周辺の種族のDNAを多く取り込んでいる、民族と言える。
2.韓国人の特徴
歴史的にも地理的にも近い、中国人のDNAを持った人が多いのは理解し易いが、面白いことに沖縄の人に多いDNAを持った人が18%と日本人の16%より多い。頭に上に瓶を載せて運ぶ習慣などの文化的な共通性と関係が有るのかも知れない。
3.中国人の特徴
本州の日本人に共通するDNAを持った人は少ないが韓国人、沖縄の人々と共通するDNAを持った人が10%位居るが、これは逆に中国大陸から韓国、沖縄に人が移動した証拠になると思う。
細石刃を携えバイカル湖方面から移動してきたとされる、ブリアート人などもう少し細かい部族のDNAデーターを探しています。

人類の系譜、日本人のルーツー7 ヴェルム氷期の巻

2012-12-28 | 民族学、考古学!?
相変わらず日本人のルーツを考えています、色んな本やネット上に情報が有りますが、確定的な説は無いので、私のような素人でも勝手なことを言える環境があります。
矛盾点の指摘や反論は大いに歓迎しますが紳士的な言動でお願いいたします。
今回私が考える原点にしたのは、ヴェルム氷期と呼ばれる18000年前位にピークだった氷河期の日本周辺地形です。
これによると間宮海峡を挟みシベリアと樺太は繋がり、樺太と北海道、東北は陸続きでした。
また朝鮮半島と九州もほぼ陸続きで、細い水道を挟んで対峙していたかもしれませんが当時の丸木船で航海できたと思います。
ここで日本で発見されている最も古い時期の遺跡を記述し、このヴェルム氷期との関連を考えてみます。

1)山下町洞人 以下ヴィキペディアから引用 ◎は私の考え
沖縄県那覇市山下町第一洞穴で、1968年に発見された。約3万2000年前とされる6〜7歳の子供の大腿骨と脛骨で、国内では最古級の人骨である。最近の検討によると、初期現代型新人の特徴に一致するという。

◎添付の地図に有るように、沖縄は大陸と陸続きになったことはないが氷期には大陸とかなり近づいた、極少人数の人々が海流に乗り漂着したと考えられ、それが日本人のルーツとなったとは、考えにくい。

2)石垣島・白保竿根田原洞窟の人骨
2010年2月4日、沖縄県教育委員会は、沖縄県石垣市白保(石垣島)の新石垣空港建設敷地内にある白保竿根田原洞穴(しらほさおねたばるどうけつ)から発見された人骨について、琉球大学や東京大学などと研究を進めた結果、そのうち1点(約8cm×約11cmの20〜30代前半の男性の頭頂骨)が放射性炭素年代測定で約2万年前のものと分かったと発表した。また「更新世から縄文・弥生期にかけての日本人の変遷に関する総合的研究」の分析では、発見された人骨片のうちの右頭頂骨片に対して、20416±113年前(BP)という推定年代値を得た。これは放射性炭素によって直接ヒト化石の年代を推定した値としては国内最古のものであった

◎上記山下洞人と同様極少人数の人々が海流に乗り漂着したと考えられ、日本人のルーツとは考えにくい

3)港川人
1967年〜1969年に沖縄県島尻郡八重瀬町(旧具志頭村)の港川採石場の石灰岩フィッシャーで実業家・大山盛保によって人骨(上腕骨・尺骨・骨・大腿骨2点・脛骨2点・距骨・第1中足骨)の断片が発見された。上部港川人骨と呼ばれている。年代はおよそ1.2万年前と考えられている。

1970年に沖縄県島尻郡八重瀬町(旧具志頭村)港川採石場で数体の人骨化石が実業家・大山盛保によって発見された。人骨は少なくとも5体を数え、男性2体を含むという。約1.8万年前とされる。縄文時代が約1.3万年前から始まるとされていることから、更新世末及び後期旧石器時代末にあたる。顔は四角く、目は窪み、鼻はやや広く、立体的で頑丈であることなど現代日本人とは全く違っていて、縄文人と似ているところが目立つ。頭蓋では、骨が厚く、前頭骨が小さく、脳頭蓋の下部が幅広いなど独自の特徴でかなり原始的である。また、男性の推定身長は153〜155センチメートルで、上半身は華奢であり、かなり小柄である。

平成21年度日本学術振興会による共同研究では、後期更新世の沖縄港川人はアジア大陸の南方起源である可能性が高いが、北海道〜九州地方の縄文時代人とは、下顎形態に、多数の相違点が見出だされ、両者の間の系譜的連続性を認める従来の仮説は見直される必要があるという主張もなされている

◎1)-2)同様、沖縄は大陸と陸続きになったことは無い、また発見された人骨の特徴も日本本土で発見された人骨と異なることから、彼らが、日本人のルーツで有るとは考えにくい。
以前このブログで記述した東南アジア各地に残る少数部族、例えばスマトラのクブ族、フィリピンのアエタ族、アンダマン諸島のジャワ族のどれかと関連が有ることも考えられるが大陸から直接移動出来なかったので少数の人々が丸木舟などで流れ着いた程度と考えられる。

4)前・中期旧石器の遺跡
笠懸野岩宿文化資料館
日本は酸性の土壌が多いため、骨などが残りにくく前中期の遺跡は発見が難しい。しかし、数は少ないものの、近年の考古学研究の発展により、金取遺跡(9~8万年前]から中期旧石器が、砂原遺跡(約12万年前)では前期旧石器などの遺物が発見されている。

日本では縄文時代より前の時代を先土器時代、または無土器時代と呼んでおり、土器の時代を遡る時代の遺跡や遺物が長い間発見されず、土器以前に日本列島に人類は居住していなかったと考えられていた。ところが、1949年(昭和24年)に、相沢忠洋が、群馬県みどり市笠懸町岩宿で関東ローム層中から旧石器を発見した。日本の旧石器時代の調査・研究は、ここから始まった。現在までに、日本列島全域で4000カ所を超える遺跡が確認されている。これらの遺跡のほとんどが約3万年前から1.2万年前の後期旧石器時代に残されたものである。

4)-1 金取遺跡(かねどりいせき)は、岩手県遠野市宮守町に所在し、中期旧石器時代に属する日本列島の遺跡である。
なお2003年7月に報じられたところとして、8-9万年前と見られる地層から石器が出土し、日本国内最古との見方も出たが、2009年9月に出雲市の砂原遺跡で12万年前のものと見られる石器が出土、こちらが日本最古ではないかと報じられている。

◎この12万年前と言うことは大変説明し難い情報で、添付しが画像で見て分かるように間氷期(氷河期の前)でした。また以前のブログに記載したようにホモサピエンスがアフリカを出たのが10-15万年前と言われる中で、説明が難しいが、一つの仮説として、ホモサピエンス以外にアフリカからユーラシア大陸に移動した種でその後絶滅した種が多く有りました。有名な北京原人やジャワ原人などですが、そのような原人の1種が日本まで到達した可能性が有ります。

4)-2 浜北人
浜北人は、静岡県浜北市(現・浜松市浜北区)根堅(ねがた)の石灰石採石場で、1960〜1962年に発見された頭骨片と四肢骨片(鎖骨・上腕骨・骨・脛骨)の人骨化石である。上・下2つの地層から出土した。それぞれの層から出た獣骨の年代を加速器質量分析(AMS)法による炭素年代測定での結果は、上層が約1.4万年前、下層出土の脛骨が約1.8万年前を示した。

◎この遺跡はヴェルム氷期で陸続きになった大陸から移住した人々の可能性が高い

4)-3 北海道の遺跡

 十勝支庁上士幌町嶋木遺跡(旧石器時代の遺跡は、十勝でおよそ100ヵ所見つかっている) 恵庭岳が約1万8千年前に噴火したとき飛んできた火山灰よりも下の地層から見つかっている上士幌町嶋木遺跡は約1万9千年前と考えられている。石刃などの打製石器が発見されている。

 十勝支庁帯広市、新帯広空港建設で発見された遺跡 黒曜石はこの地方では十勝石といわれ、 石刃、尖頭器、石錐、細石刃などの打製石器が発見されている。地層から約2万3千年前と考えられている。

 十勝支庁帯広市、暁(あかつき)遺跡 およそ1万6千年前、暁遺跡周辺では、旧石器時代人が細石刃をはじめとする、いろいろな石器を作っていた作業場だったようだ。
 網走支庁(旧女満別町)大空町豊里石刃鏃遺跡 大陸とのつながりといえば、豊里遺跡から昭和32年に発見された石刃鏃(せきじんぞく)が日本考古学会でも画期的な発見だった。これまでユーラシア大陸北部で広く認められていた石刃鏃は、日本列島では発見されていなかったが、女満別ではじめて発見され、これによって大陸と日本列島の石刃鏃文化が繋がった
 
◎これらは明らかにヴェルム氷期時代の遺跡で、シベリアで開花した石刃鏃文化

石刃鏃文化とは「石刃に簡単な加工を加えて鏃とした石刃鏃を特徴とする文化。中石器時代から新石器時代初期にかけてユーラシア大陸北部に広く認められる。日本列島では,北海道東・北部に限って存在し,縄文時代早期浦幌式土器,女満別式土器などを伴う。アジア大陸側では,シベリア,中国東北,モンゴルの各地に存在し,数多くの遺跡が報告されている」

を継承していることから、陸続きだった、樺太経由で入った可能性が高い、現在バイカル湖付近に暮らす、ブリアート人と日本人のDNAの共通性が高いことから、私はこの時代に多くの人が大陸から渡り、日本人の大きなルーツになっていると考えている。

5)長野県の遺跡(例)

 立が鼻遺跡と呼ばれるキルサイト(狩猟した大型哺乳動物の)の遺跡である。発掘調査の時期は3年に一回3月に行われ、発電所の取水による湖水面の低下のため湖岸が沖合に後退する時期に合わせて、世界的にも珍しい「大衆発掘」という形態で行われている
 1962年の70名が参加した第1次発掘では、ナウマンゾウとヤベオオツノジカの化石発掘により、3~5万年前の最後の氷河時代のものであることが確認された。1964年の第3次発掘では、旧石器の剥片が発見され、ナウマンゾウと人類の関係が問題となった。1973年の第5次発掘では、参加者が千人を超えた。ナウマンゾウの切歯とオオツノジカの掌状角をはじめ、ナイフ形石器、骨製基部加工剥片(ナイフ形骨器)などが発見され、ナウマンゾウと旧石器時代の人類が共存していたことが証明された。
 
◎ナウマンゾウの骨と一緒に遺跡が出たことは明らかにゾウを追って人々が大陸から移動したと考えられる。私はこれが主な日本人のルーツと考えています。

◎以上まとめると出雲市の砂原遺跡で12万年前の石器が発見されたという情報が有るが、今までの考古学では上手く説明できない、ただ上で述べたようにホモサピエンス以外の原人の子孫かも知れない。
また沖縄で発見された、山下町洞人等も大変古いが、沖縄は大陸と陸続きでなかったので、多くの人々が流入したとは考え難く、日本人の主なルーツ(混血したことは考えられる)になったとは考え難いく、私は樺太経由で入ったモンゴリアンが日本人の主なルーツと考えています。朝鮮海峡は狭いか無かった時期も有ったと思いますが、極端に寒いシベリアに適応した、部族が、マンモスなどを追い、最も近いルートである、樺太経由で流入したと考えた方が分かり易い。その後朝鮮から人々が多く流入したのは僅か数千年まえのことです。



イムジャツエ(アイランドピーク)登山報告、まとめの巻  

2012-12-21 | 海外遠征
最後に言い残したことを思い出し補足します。
1)今回SPO2と言う血液中の酸素濃度を測定しながら、徐々に高度を上げたが私もIさんもSPO2に関しては順調に適応できた、しかしIさんはディンポチェ(標高4350m)位から高山病の症状として頭痛と吐き気が出て、ダイヤモックスと言う薬を飲んだ、SPO2と高山病の症状はイコールではないことが分かった。
高山病の症状で多いのは頭痛、吐き気、咳などで、頭痛は脳が浮腫んだ状態になり発症し、これが進むと脳水腫となり、放置すると死に至ります。順応のため、ディンポチェで2泊しました、そこでヘリが何度も飛んでいましたがこれは殆ど、高山病の人を、下界に運ぶためです。咳は肺が浮腫んだ状態の時出て、これも悪化すると肺水腫になります。
また私が今回悩んだ下痢も高山病と関係が有る可能性が有ります。
2)今回のガイドの対応は概ね〇でしたが、チュクンでIさんと私が別行動を取る時、直接我々に金額を要求しました。これはきっぱり断りましたが、これは完全にNGです。
またルクラから帰りの便を積極的に取ろうとなかったのも良い対応では有りませんでした。
そう思うと昨年アンナプルナBCまで案内してくれたガイド、ダワさんは最高でした。
3)今回予備日を使わずに、カトマンズに帰り、日程が余ったのでチトワン国立公園に行きましたが、ヒマラヤンスマイルのKPさんは差額を要求せず、サービスしてくれました。
何時も素晴らしい対応をしてくれるガイド会社です。
4)昨年アンナプルナBCに行った時、韓国人、中国人が多く、日本人が少ないのが気になりましたが、今回のエヴェレスト街道では中国人は殆ど居なく、韓国人も少なく感じました。この理由はアンナプルナBCまでの登山口ポカラまでは航空機だけでなくバス路線があり、予備日の設定が不要で、急げば1週間で往復できるので、忙しい現役世代でも行くことができる点であると分かりました。
実際昨年行き会った韓国の人の殆どは50歳位まででした。

2012年写真撮影、コンテストの巻

2012-12-21 | 風景&山岳写真
私がネパールに行っている時、家に下山報告しましたが、良い情報が入りました。
2012年写真撮影の目標としていた、中日新聞、私のアングルに入選した知らせです、それも期待以上優秀賞でした。
その他にも蒲郡祭りフォトコンテスト、岡崎市、環境フォトコンテストに入選出来ました。

イムジャツエ(アイランドピーク)登山報告、30日ー12月5日の巻  

2012-12-20 | 海外遠征
1)30日 ガイドのLama Pasaupさん案内でカトマンズ盆地観光に出かける
まずは車で30分位東の旧市街 パクタプルに行く、入場料15ドル、それからカトマンズ中心街から南、サルに居るゴンパス、スワヤンブナートへ行くがここではサルと犬は争わず共存している。
2)12月1日2泊3日でチトワン国立公園に行く、航空機もあるが、今回沿道の風景を見たかったのでグリーンラインと言う、長距離バスを使う、7時30分 カトマンズ発ー11時20分 フリンクールで乗り換え、ここで昼食を取る(バス料金に含まれる)-13時頃 チトワンバス停留所、現地ガイドがススキジムニーで迎えに来る、20分ほどでロッジに着く。
夕食後、この付近の原住民タル族の舞踊を見る。ところでチトワンに着き停電が頻発、ヘッドランプが手放せない。
3)12月2日 まず1時間ほど川下り、色々の野鳥、岸にはアルゲータが昼寝している。その後ジャングルウオーク、ここでも鹿やクジャクを見ることができた。一度ロッジに帰り、午後は象に乗りジャングルを歩く。チトワンには現在、100頭位のベンガルトラが生息している。
4)12月3日 朝9時25分発のバスでカトマンズに帰る。
5)12月4日 自由行動日、私は体調が悪いので休息日。
6)12月5日 帰国日ですが11時頃ホテルをチェッククアウト後、ヒマラヤンスマイルの事務所で休ませていただく。
7)12月6日 広州、上海経由で名古屋、上海で3時間位出発が遅れ、名古屋には23時30分くらいになる。

イムジャツエ(アイランドピーク)登山報告、26日ー29日の巻  

2012-12-19 | 海外遠征
1)26日 8時30分 ディンポチェー11時30分 テンボチェ、昼食ー16時 ナムチェバザール、ナムチェに入る直前、霧の中にダフェ(国鳥)を見るが写真ではよくわからない。
2)27日 8時30分 ナムチェバザール、歩きだすとすぐ、ダフェの群れを発見し、写真に収めることが出来たー11時30分 ベンカー、昼食 ー13時10分 パクディン泊
予備日を殆ど使かったので当初予約したルクラーカトマンズ便の12月2日からかなりずれこみ、再度予約変更が必要になる。ガイドは今日ルクラに行っも込んでいるので航空機に乗れないと言い、今日は行にも泊まったパクディンまでとなる。ガイドとしてはここで出来るだけ予備日をしたいと考えていると推測し、ヒマラヤンスマイルのKPさんに電話し事情を話す。
このパクディンで同じロッジに泊まった日本人パティー10名の名ガイド Lamaさんと親しくなり、彼が国内便の航空会社に対し顔があるので予約してあげるという提案がある、しかし今日は我々のガイドの顔を立て、お願いしなかった。 夜ヒマラヤンスマイルのKPさんに電話し事情を話すがガイドから下山報告が無かったことが分かる。予備日がかなり余っているので、カトマンズに帰ってからオプショナルツアーを相談することにする。
3)28日 8時30分 パクディン発ー11時30分 ルクラのロッジ着、午後の便でカトマンズに帰りたいと思っているのにガイドが空港に行、交渉を始めないので、不満を言い、ガイドを連れて交渉に行く。結局その日は乗れなかったがIさんが昨日知り合ったLamaさんの所へ行き、明日の便の予約を依頼する。
4)29日朝から空港に行き、空いた席に乗れないか待ち、結局12時の便に乗れるが我々2名だけで、ガイドの席は確保できないー13時頃カトマンズ空港着、KPさんの出迎えを得て、ホテルで明日からの観光を相談する。30日かカトマンズ盆地観光、1-3日はチトワン国立公園に行くことにする。

イムジャツエ(アイランドピーク)登山報告、23日ー25日の巻  

2012-12-18 | 海外遠征
1)23日 室温5℃ SPO2 N=58/分、82% Iさん59/分95% IさんSPO2は良いが高山病の症状有り、再度ダイヤモックスを渡す
8時30分ディンポチェー10時30分 チュクン着 午後急斜面のロープを張り、ユマーリング等ロープワークの練習
Nの羽毛服の羽毛量が少ないということになり羽毛入りのアウターを借りる(300ルピー/日)
ガイドはテントなどBCで必要な装備をレンタルする。
ガイドからハイキャンプは寒く大変なのでBCから日帰りでアタックを掛けるように提案がある。しかしその場合BC(4950m)から1200m以上の標高差があり、私の体力では無理と当初の計画通り、HC(5400m)を設営するように依頼、了解を得る。
しかしその後Iさんが高山病を理由にBCまで行、引き返えしたいと提案が有る、この条件でをガイドと再度交渉するが、トレッキングガイドがIさんに同行するので、ハイキャンプに荷揚げするパワーが不足する、そこでBCから日帰りでアタックすることに同意した。この時点でほぼ登頂を諦めたことになる。
2)24日 SPO2 N=68/分、90% かなり改善、Iさん70/分 93% SPO2は問題ない
 9時40分 チュクンー12時25分 BC着、14時Iさんチュクンに戻る、ガイド用テントに行き夕食を食べる、料理は主に登山ガイドが作るがポーターさんが咳をしながら手伝う、砂塵飛び交うテントの中では食欲が出ない。
3)25日 午前1時起床、韓国製カップ麺を食べ、1時30分ころから歩き出すー途中後続の数パティーに追い越される。BCにはストックを持ってこなかったのが悔やまれる、ピッケルでは風に対し体を支えられない。3時頃HCの底部に着くが、追い越して行ったパティーが風に耐えることができず、下山してくる。ここで私も決断し、下山に入る。
4時頃BCに着き、明るくなるまで休憩する。
8時ガイドから先に行くようにアドバイスが有ったので1人で下山開始、チュクンに着く30分位前に合流し、10時15分チュクンに帰る。
Iさんは近くの丘にハイキング中で帰りを待ち、ディンポチェまで下る、15時ディンポチェ着 、体調 少し咳が出るようになるまた下痢気味

イムジャツエ(アイランドピーク)登山報告、20日ー22日の巻 

2012-12-18 | 海外遠征
1)20日 室温8℃、SPO2、N 63/分、90%、Iさん63/分、92%、二人ともOK
8時 ナムチェバザール 発ー9時30分 キャンズマー9時50分 ゴーキョピークに向かう道との分岐ー10時35分 ブンキ・テンガ 昼食ー13時15分 テンボチェ
 途中カラパタールに向かった山ガールがガイドと下山して来る、高山病の症状が出て、他の人と別れて来たそうです。比較的大きなパティーの場合、高山病になる人が出るこことを前提にガイドの数を決める必要がある。
2)21日 朝 2.2℃ SOP2N=55/分、91%、Iさん63/分、85% 
7時50分 テンボチェー8時40分休憩、鳴海と富山から来た人(ベテラン、複数回イムジェツエに登頂)2人に会う、イムジヤツエに登頂したが(BCから15時間かかった)残りの仲間は高山病などで登頂できずこの2人より先に下山したという情報を得る。
10時20分 ソマーレ 休憩 -13時20分 ディンポチェ着
3)22日 高地順応日 朝室温5℃ 外気温は0℃以下 SPO2 N=60/分、88%、Iさん 67/分、91%、ただしIさん高山病の症状がでたのでダイヤモックスを渡す。
 近くの丘まで登り順応を促進する。カラパタールに向かう札幌から来たご夫婦に会う、彼らはガイド無で、ロッジ泊、安いロッジは200ルピーくらいと言う情報を得る(食事で商売)、標高4600mくらいまで登り戻る
ガイドとの会話で情報を得る、①トレッキングガイドは3000名位、登山ガイドは300ー500人位居る、シェルパ族の人口は30万人位、最近1万人位の規模でニューヨークを中心に米国に移住している。

イムジャツエ(アイランドピーク)登山報告、16日ー19日の巻

2012-12-17 | 海外遠征
1)16日中国南方航空を使い、名古屋ー上海ー広州ーカトマンズまで行きました、名古屋ー広州便は尖閣列島の問題で日中関係が悪化したのを反映し、20-30%位の搭乗率でした。
しかし広州ーカトマンズは中国の観光客が多く、ほぼ満席です。
カトマンズには22時過ぎと遅いにも関わらずヒマヤヤンスマイルの社長KPさんの出迎えを受ける。
ホテルはカトマンズの中心、タミル地区のMoonLight、疲れていたのすぐに就寝。
2)17日、朝KPさんがトレッキングガイドと登山ガイドを連れて来る、これからこの2人と行動を共にする。早速カトマンズ空港に行、ルクラ便を待ち9時に出発、約40分でルクラ到着10時ルクラ歩き出す。途中1時間ほど昼食を取り、15時パクディン着、歩行4時間程度。このロッジで日本から来た夫婦に会ったがベネズエラのギアナ高地に行ったことがるという旅マニア、もう一人は大阪のマラソンに出たことが有る、オーストラリアからの男性、そしてポルトガルから来た4人と国際的である。
今日からSPO2(血液中の酸素濃度)測定する、N=65/分、95%、Iさん 75/分、91%
3)18日 6時起床、室温8℃、SpO2 N=55/分、98%、Iさん 66/分、93%
8時30分 パクディン発ー10時20分 モンジョ昼食ー14時 ナムチェバザール着、装備が足らない場合調達できるのでここで持参した装備チエック、ダウンの羽毛量が少ないという指摘を受けるが最後のロッジ、チュクンで借りることにする。このロッジには有料であるがWiFiが使える設備が有った、中々先進的である。
4)19日 今日は高知順応日、SPO2中根77/分88%、市川、63/分、89% 
8時30分ナムチェバザール発ー10時10分 エベレストビューホテル、素晴らしい景色を見ながらコーヒーを頂く、このホテルは1972年三原さんが建設、1泊200ドル、定員25名、中々泊まれないー11時20分クムジュ村のゴンパ(お寺)でイエティーの頭の皮を見るー11時50分昼食ー14時30分ナムチェバザールに帰り、登山届を出す。
今日腹が張りガスが溜まる。

イムジャツエ(アイランドピーク)を登頂出来なかった要因と登頂を成功させる有効なアドバイスの巻

2012-12-16 | 海外遠征
1)時期の問題、添付した画像のように日本の業者の案内は11月〇でした、また私が2006年ー2007年(年末年始)カラパタール(標高5545m)に行った時、メンバーが頂上で上半身裸で写真を撮った経験などから11月にしましたが、カトマンズの気温から標高差で計算すると頂上はー20度C位でした。今回寒気が入り同時期にカラパタールに行った人にカトマンズで会いましたがー20度C位で風が強く、指が凍傷に成ったと見せてくれました。やはり11月は無理でロッジが大変込み合いますが10月上旬がお勧めです。晴天率は下がりますが春も可能性は有ります。
2)今回ガイドがハイキャンプで1泊することに対しかなり抵抗したがガイドとポーターが使うテントに問題が有った、屋根型で横から風が入る構造、私はこれでハイキャンプ1泊は無理と考え、BCからのアタックを認めた。事前にガイドと装備の相談が必要、ちなみに私はノースフェースの4ー5人用テントで1人で寝た、一緒に寝るように勧めたが辞退した。
3)1つの方法としてハイキャンプには我々だけが泊、日本から持ち込んだ食料で自炊する。ガイドは体力が有るのでBCから歩きだし朝合流してアタックする。
4)アイランドピークの場合登山者が多いので道に迷う心配はない、トレッキングガイドのみでBCまで登り、そこから上は我々の力だけで登る方法もある。
5)メンバーの選定、今回Iさんは高山病の症状がでてアタックを辞退したが、まだ予備日が2日あった、どうしても登りたいという強い意欲が有れば予備日を使い順応できた可能性もあった。メンバーには強い登頂意欲が必要です。

ネパールの6000m峰イムジャツエ(別名アイランドピーク)登山簡易報告の巻

2012-12-15 | 海外遠征
先日病院から携帯で投稿しましたが、退院したので、再投稿します。
11月16日 名古屋ー広州便は尖閣列島の問題が影響してか定員の20-30%、しかし広州ーカトマンズ便はほぼ満席、中國人の観光客が多い、夜遅くにも関わらずヒマラヤンスマイル社長KPさんの出迎えを受ける
11月17日 KPさんがガイド2名を連れてくる、トレッキングガイド=Furi Lama29歳 名古屋の田辺さんがダウラギリに挑戦した時サポート隊として参加、登山ガイド=Onchho Sherupa30歳 マナスル、チョユーなど経験
カトマンズールクラ順調に飛行できる、予定通りパクディンまで行1泊
11月18日 パクディンーナムチェバザール泊、3440m
11月19日 高地順応日、8時30分発ー10時10分エベレストビューホテル(1972年三原さん建設)、エベレストを見ながらコーヒーを飲むー11時10分 ゴンパ(イエティーの頭の皮を見る)ークムジュ村でランチーナムチェバザールに帰り、アイランドピーク登山届を提出、1パーティー600ドル必要
11月20日 8時 ナムチェバザールー13時15分 テンボチェ、3857m 、大きなゴンパが有り有名、ここからもエベレストが見える、カラパタールを目指したパティーのヤマガールが1名が高山病でガイドと下山して来る(他の人はトレッキング続行)
11月21日 8時 テンボチェー13時20分 ディンポチェ、4350m
11月22日 ディンボチェ停滞、高地順応、近くの丘4600mまで登る、Iさん高山病の症状が出る、ダイヤモックスを渡す
11月23日 8時30分 ディンボチェ発ー10時30分チュクン、4743m、午後ロープワークの確認のため近くの急斜面でユマーリングなどの練習、Iさん高山病の症状ダイヤモックスを渡す
11月24日 ガイドが風が強く寒いのでハイキャンプ設営を諦め、ベースキャンプから日帰りのアタックを提案される、しかしBCから6183-4950=1233mあり私の体力では無理と予定通りハイキャンプ設営を要請、了解を得る。しかしその後Iさんが高山病を理由にBCまでで引き返えしたいという希望を出す。この場合トレッキングガイドはIさんに対応すると登山ガイドとポーター1名でハイキャンプを設営しなくてはならず、それは出来ないという要請が有る。ここで私が妥協しBCから日帰りでアタックを掛けることにするが、登頂を断念したと同然である。
 9時40分 チュクンー12時25分 BC 風が強く砂埃がすごい、14時Iさん下山
11月25日 1時起床、1時30分スタートー3時ハイキャンプ、風が強く追い越して行ったパーティーが登頂を断念下山して来る、私も登頂を断念、よろけながら下山開始ー4時BC着、明るくなる、まで休憩、ガイドがBC撤収してかスタートするから先に行けというので1人で下山開始ー途中チュクン付近で追いつかれる、-10時15分チュクン、Iさんが近く丘にハイキング中、帰りを待ち、ディンポチェまで下る、15時ディンポチェ
11月26日 8時30分 ディンポチェー16時 ナムチェバザール着
11月27日 8時30分 ナムチェバザールー13時10分 パクディン泊
11月28日 8時30分 パクディンー11時30分 ルクラ泊
11月29日 12時発になんとか乗れるー13時 カトマンズ、KP氏迎えに来てくれる、予備日を殆ど使わなかったのでオプショナルツアーを相談、チトワン国立公園2泊3日にする。
11月30日 カトマンズ観光
12月1日 費用を抑え沿道の風景を見たかったので、長距離バスを使う、バス停まで送っていただく、途中で昼食になるがバス料金に含まれるー13時30分頃チトワン到着、現地ガイドが迎えにくる、夜チトワン原住民タル族の舞踊を見る
12月2日 午前中、ジャングルの川下り、ジャングルウオークを午後象に乗りサファリを楽しむ、サイ、クジャク、アリゲータ、イノシシ、鹿等を見ることができた。
12月3日 カトマンズに帰る
12月4日 自由行動日、私は休息日、体調不良
12月5日 帰国日ー出発までヒマラヤンスマイルの事務所で休ませていただく
12月6日 約3時間遅れ23時30分頃名古屋着
12月7日 咳、下痢のため入院