エルダーBP

登山 写真撮影等多趣味ですが最近は卓球で登山のためのトレーニングして 山岳写真撮影に励んでいます。

OSAC会員、S氏の写真展、山 花 岳 (やまはなだけ)の巻

2012-11-13 | 風景&山岳写真
今年もOSAC会員、Sさんの個展が12月10日から岡崎市中心部の篭田公園南西100m位のメイプると言う喫茶店で開催されます。
近隣にお住まいで山に興味のある方は是非ご覧ください。市営駐車場が篭田公園の地下に有ります。

ネパールの6000m峰イムジャツエ(別名アイランドピーク)登山の巻 

2012-11-12 | 海外遠征
いよいよ11月16日出発で出かけます、私にとって今までで最高峰6160mの山です。
今回、同行者のIさんの休みの都合もありましたが、私が以前年末年始に登ったカラパタール5545mの印象が強く働き11月の登山になりました。2007年正月のカラパタールは昼間5度C程度で快適でしたが、この時期のカトマンズの気温から標高差4750mで計算すると最低気温は8度C-28度C=-20度C位を覚悟する必要性が有ります。
風が強い場合は大変で、予備日を3日準備(フライト予備日+天候予備日)していますので、それを使うことになります。
また2007年もそうでしたが、カトマンズールクラ間の国内線が霧で欠航することが良く有りそのため計画には2日フライト予備日を取りました。

人類の系譜、日本人のルーツのー6 稲作渡来民の巻

2012-11-11 | 民族学、考古学!?
今度稲作渡来民と言う本を読みましたが、中々深い内容でした。
私が過去に読みその段階では納得した大野晋先生のタミル語が日本語のルーツでタミル人が稲作を伝えたと言う説に付いてもう一度良く考える必要性を感じました。
まだ私として考えがまとまりませんが、この本の知見も加え、頭を整理し、近いうちに、ブログに投稿します。
この本の主張は中国で始まった稲作が縄文時代末期に山東半島、朝鮮経由で九州に伝わり弥生時代に入ったというものです。
またその前提となる当時の船の歴史を解析しています。その部分を添付しますが、当時の船で外洋を航行するには大変危険が伴い、多くの人々が大挙して日本に渡ったとは考え悪く、渡来した漂流民は元々そこに居た縄文人の言語に同化したと考えられるというものです。
私はこのことには全く異論がなく、そうであれば、元々日本に居た縄文人がどこから来たのか、その縄文人の言葉のルーツを考える必要性があります。
まだ結論では有りませんが、同じルーツの民族で同じ言葉を話す人々が有る程度継続的に日本に移動したと考えられます。
そのためには日本が陸続きの時樺太経由で入ったように私は思いますが、沖縄に石器時代の人骨が出ているのでこれをどのように考えるか課題もあります。
ただ以前書いたように日本人とDNA的に一番近いのは現在バイカル湖付近に居るブリアート人と考えると説明はつきます。
ただその場合タミル語と日本語の共通性の話はとん挫します。
ここでこれから考えるのはタミル人の移動の痕跡(中国からインドまで移動した可能性がある)とブリアート語とタミル語の共通性です。
また少し本題から逸れますが、今まで読んだ本ではアイヌは本来、南から来た民族と言うことでしたが、船の構造が北方系だそうで、ここに矛盾があります。

12年11月 OSAC 月例山行は位山から川上岳(カオレ)の巻

2012-11-05 | 岡崎シニア山岳会
11月の月例山行はSさんの計画で、位山から川上岳になり11月4日行きました、このルートは天空の遊歩道と呼ばれ、大変景色の良い所です。
そして頂上付近は少し紅葉の時期を過ぎていましたが登山口付近では見ごろでした。
また愛知は晴天続きでしたが、日本海に近い方は悪天候の日があったようで、頂上付近は銀世界、美しい風景に出合いました。
1)5時30分 集合、途中飛騨清見から高山に抜ける、中部縦貫道が事故で不通
2)9時30分 位山登山口、約1時間遅れ
3)10時20分 位山頂上
4)12時まで川上岳方向に歩く、とても川上岳まで歩くのは困難と判断、ここで引き返すことにする、30分休憩。
5)14時20分 位山 頂上に戻る、水場を偵察。
6)15時30分 登山口
7)下呂温泉、中津川経由で帰路に着く
8)20時30分 岡崎

岡崎山岳会のザイル祭参加の巻

2012-11-01 | 日記
11月27日ー28日岡崎山岳会のザイル祭があり参加しました。
ザイル祭とは毎年秋に行う行事で1年の締めくくりとして、安全登山を感謝する物です。
今年は会の行事の中で事故が生じたこと、新人教育の中で出た問題点を整理する意味も有り、27日、定例の岩登り研修の後、2時間勉強会を行いました。
この勉強会は登山の当り前を共有化することが主な目的ですが、この当たり前を100%実行できていないことに改めて認識し、これからの山行に反映することが主な目的でした。