ささやかな暮らしだけれど、自分で決めて行動できるのは、なかなか稀有なことである。もっとも、客観状況によって、動かされるのは間違いなく、原野で暮らしているわけではないから、ただただ思い通りに生きられるわけではない。多くの人々の力を得ながら、支えられなからのことである。
これらの存在をまったく気付かずに暮らしている向きもあるいはあるかもしれない。自分だけの力で、それが、大部分であると思っているかもしれない。だが、事実は、自分の力は、まったく大したことはなくて、そこに気付かないのは、決定的なミスを呼ぶ原因となる。
福知山線の事故は、事故から12年も経っているのに、本当の事故原因が共通の認識となっていない。技術的なカーブに対する安全対策がどうのこうのという、周辺事情に終始しており、本質をつこうとしていない。
JRの前身の国鉄は、労働組合が強くて有名であった。その行動は、激しくストもよくあった。今はない。当時の労働組合のあり方に問題はあったことは事実だが、この関係が影響している。労働問題である。JRになって、労働者に対するしめつけは苛烈になった。
ここから、事故原因が語られなければならない。そこには、労使関係から、人間同士どう生きていくのか、哲学が語られなければならない。事故の底流にある人間蔑視、いじめ、などなど、そこに本質的な事故原因がある。