議席の数が、すべてを決める、これが現実となった。正義を危うくし、道理が通らなくなる事態がうまれた。ネジレが生じて以来、菅さんはイジメを受け続け、やるべきことをさせてもらえず、理由なしの退陣をすることとなった。あたりまえの法案成立さえままならず、退陣と引き換えにするしかなかった。
自民は、通すべき法案さえ通過させない心算だったようだ。被災者の苦労がどんなにあろうと、意に介さない。政権奪取のためならなんでもする構えである。
民主党では、小沢氏の影響下にあるとされる議員が多数をしめる。状況が、菅さんを首相にまで、押し上げたが、議員に対する影響力は、金と力を背景に、小沢氏が依然として力を持っている。身内の立場でありながら、菅さんへの怨念を隠さなかった。ここも被災者への視線は冷たいものがある。
そもそも、議員になどなる気がなかった人を、説得し、選挙ノウハウを伝授し、人的な支援も行い、議員に育て上げるという「努力」を、小沢氏はしてきた。田中角栄の薫陶を受け、政界のすみずみまで知り尽くし、議席数がすべてであると考えている。
保守層にとって、安心な政党だけで構成される議会にし、政権交代が可能な状態にすることが、彼の目標であったようだ。小選挙区制は、民意の反映など眼中にない。少数の支持でも多数を確保できる仕組みであり、二大政党にするためのツールでもある。
政治が、支配機構を構成する強者の側に立っている間は、底流に弱者の不満と矛盾を抱えているのだから、安定はしない。弱者をしぼりあげて、強者がその成果を得る。この仕組みが、なくならない限り、根本的に問題は解決しない。
「社会主義国」の失政は、人間そのものについての再考察を、余儀なくした。権力争いと、秩序維持のために国民と政権の矛盾が付きまとい、汚職腐敗と縁がきれない。理想どおりには、進まず、一本調子には、事態が改善されていない。
となれば、今後の社会は、どうなるべきだろうか。人間社会のあるべき方向は、どこへ向かうべきだろうか。国民一人ひとりが、生きがいをもって暮らすためには、どういう条件が必要だろうか。
それは、いきなり、理想のシステムの提案という形でうまれるようには思えない。今ある問題点を、掘り起こして、それが、どの様にして起こったのか、原因を明確にし、その改善策を実行する。この繰り返しの作業の中で、あらたな価値観が醸成され、進歩に向かうのではないかと思う。具体的問題の解決からしか、しっかりした展望は見出しえないのではないだろうか。
問題を明らかにし、その解決策を提示し、実行する。それは、おそらく多種多様な考え方、価値観を許容しながら、調和できるものになるのではないだろうか。
国を動かす中心に 我が身守らん心の強い人は不向きです。
カンナさんが教えてくれましたが、原発事故で自分が被曝しても良いとまで言った菅さん…彼は国の中心に咲くべき花だったと感じます。
我が身守らん心の強い人、守る為に数を求める人は、有権者の顔色ばかり追って、情報過多のこの社会で、本当の人の心はつかめず、日本を救う政治は出来ないでしょう。