選挙にいくことは、あたりまえと思うけれども、全然関心もないのでいかないという人が結構いる。行けばいいというものではないが、政治に関心をもたないというのは、危険である。
世の中の風潮に流されて、選挙にいっても、自分の確たる意見もないので、なんとなく、周囲に流されているだけだったりすれば、行く気もなくなるだろう。
しかし、政治こそ、我々の生活を決めてしまう大きな要素である。政治家がへんな方向を企図すれば、必ず、それは生活に直結してくる。
大阪では維新が強いが、大阪市をなくして、府と一体化させるといっている。これなど政治が生活に直結するいい例である。制度を変え、住民の力を殺ぐことも可能である。
厳しく監視しなければ、為政者は独裁を目指すかも知れない。現に過去の歴史は、ドイツの例で明らかである。ヒットラーは、合法的に権力を得ることができ、ユダヤ人虐殺までいった。
一人の人間の、奇妙な価値観に全体が踊らされる状況ができた事例である。日本は、伝統的な価値観のなかで、独裁政権が国民を総動員して戦争への道をまっしぐらに進んだ。多くの人命、財産が失われ、また、自国のみならず他国の人々の生活を脅かし、人命、財産を毀損したのである。
戦争の原因に、当事国の、どちらに正義があるかといえば、必ず、戦勝国の論理が正しいことになる。負けた方は、ながいあいだ誰にも評価されず、馬鹿なことをした連中であり、国家だったということになる。犯罪として、指導部は死刑においこまれる。戦争犯罪人として処刑された人々を、とんでもない悪人であるとは、一個の人間としてみれば、とてもそうとは思えない。だが、肝腎なところで、間違ったのだろうことは否定できない。
それもこれも、戦争による現象である。こんなことにならないために、国民は政治を見ていなければならない。戦争なんていいはずがないのである。だが、今でも、戦争をチラつかせる国家がある。国民を締め上げ、監視社会を構築し、言論の自由を許さない国がある。
日本でも、戦前の日本の立場を、日本の誇るべき伝統であるとして、復活させ、その価値観を復活させたいとする人々がいる。それは、敗戦により苦渋を舐めさせられ、なんとしても我慢のならないことであると考える人々である。
戦前の日本の状態がいかなるものであったか、強い者が弱い者を虐げ、馬鹿にし、我慢を強いてきたし、男女差別も激しかった、その反面、自己利益を超越した、諸外国に見られない行動、考え方が、根底にあり、それは、間違いなくある種の「美しさ」を持っていたといえる。
日本の美徳とは何か。人類全体で考えて、おそらく、普遍的ないいこともあるかもしれない。だが、それは、はっきりと、時代遅れであり、人類が克服し、改善しなければならないことも多くある。
今に生きる者として、後代の人類のためにも、あるべき姿、あるべき政治をイメージして、選挙行動に臨む必要がある。目先のことだけではなく、その見識を深め、高めていかなくてはならない。でなければ、「国民が寝ていてくれれば有難い」と本音を漏らす政治家が跋扈することとなる。
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