世界一周タビスト、かじえいせいの『旅が人生の大切なことを教えてくれた』 

世界一周、2度の離婚、事業の失敗、大地震を乗り越え、コロナ禍でもしぶとく生き抜く『老春時代』の処世術

自分を見つめる

2018年10月11日 | 100の力
ボクは何が言いたいのか。

ボクは何がしたいのか。

ボクはどうありたいのか。


どこから来て何処へ行くつもりなのか?

ボクは一体何者なのか?


ゴーギャン風に問いかけてみる。





お金持ちになりたいのか。

有名になりたいのか。


どちらも否である。


幸せになりたいのか。

Yes.

それはもう叶っている。

十分幸せなのです。


むしろ、

この幸せをみんなに分けてあげたい。



それでも生きていいる以上、

欲望がある。


強いていうなら、

自遊でありたい。

(ある意味、十分自遊であるのだが)


好き勝手とはまた違う、自遊。


自由とは違う自遊。

自ら由(よし)とするのではない。

自ら遊ぶのだ。


だからといって、遊戯の遊びではない。

では何なんだ。


浮遊していたいのだろうか?

根無し草になって流浪していたいのだろうか?


それもあるだろう。

だが、陽炎(かげろう)のように漂っているだけではつまらない。


そこに何らかの意味を見出したい自分と、

そんなことはどうでもいいという自分がいる。


君の笑顔が見たいから

などとうそぶいてみたところで

なんになるのだろう。


ある特定の対象があれば

そこに留まることを余儀なくされる。


対象と共に流離(さすら)うなら許せるかもしれない。


こうしているうちに

短い秋の夕暮れが終わる。



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今回の執筆の目的は

自己研鑽である。


その為に、

一行進むたびに大量の資料に目を通す状態が続く。


一つ一つ、

脱皮するように謎が解けていく。


そこで、

自分の正体が一つ一つ解き明かされていく。


自分は何者か?


瞑想によっても

同じような現象が起きる。


もう一人の自分が自分を見ている。

幽体離脱しているかのように冷ややかな目で客観視している。


自分の愚かさ、未熟さ、至らなさに打ちのめされる。


だからといって

その都度自己嫌悪に陥っていたら

身が持たない。


時には自分自身に寛容にならなければならない。


許すということを施すのだ。

認めるということを受けれるのだ。


「一切許認受」である。


自分に留まらず、

相手に対しても。


そうして限りなく成長を続ける。


これが人生の究極の目的ではないかと知らされる。




【補足】


昨夜、ある人から

「常楽我浄(じょうらくがじょう)」という仏教の言葉を教わりました。


これは、お釈迦様が、逆説的に

この世は「無常・苦・無我・不浄」であると説いているのです。


まだ、完全には意味を呑み込めていません。


この意味を知ることもまた勉強であり、

成長につながるのです。


ありがとうございます。

感謝します。