世界一周タビスト、かじえいせいの『旅が人生の大切なことを教えてくれた』 

世界一周、2度の離婚、事業の失敗、大地震を乗り越え、コロナ禍でもしぶとく生き抜く『老春時代』の処世術

人生最大の危機

2012年12月12日 | 苦境
また苦しみがやってきた。

今度の波は多きいゾ。


今人生最大の危機を迎えている。

面白いもので、

その都度その都度危機を迎えるたびに

それはその時点で人生最大の危機であった様な気がする。


今までそうした幾多の波にも飲み込まれそうになりながら、

なんとか乗り切ってここまで来た。


そしてそののすべてに運が味方してくれた。


自分の想像もしなかったところで

または、手の届かないところで

底知れぬ見えざる力が働いていたような気がしてならない。



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さて今度の波はどうか。


一言で言えば、破産の危機である。


次から次へと金銭がらみの問題が起きている。


資金繰りの悩むことは日常茶飯事だ。

金額の大小はさほど関係ない。


百万単位、一千万単位に苦しむこともあれば

一円に泣くことだってある。



今回の試練が今までと違うのは、

今までは自分のため、家族のためと思って立ち向かってきたが、

今直面していることは、むしろ人のためといえる。


とはいえ、貢献とエゴは紙一重にある。

つまり、人のためと言いながら、本当は自分のためではないのか。


私利私欲を、貢献という言葉で美化しているだけでないのか。


期せずして、あるいは血の滲むような努力をして得た資金、財産を

寄付や何かの貢献に使うことはよくあることだ。


その時点で、どんなお金持ちや成功をおさめた人も

一種の後ろめたさのような感覚を抱くのかもしれない。


自分だけがこんなに儲けていいものだろうか、

独り勝ちでいいものだろうか。


どんな世になっても、世の中苦しむ人はいる。

成功すればするほど真逆の人たちの存在が目に入り、放ってはおけなくなる。


成功の陰には努力や煌(きら)びやかももさることながら、

泥臭さと罪悪感が伴うのは何故だろう。


その罪滅ぼしが貢献へと向かわせるのだろうか。


だが、その貢献さえもエゴとみなされてしまう傾向は否めない。


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今、身辺整理という形で無駄をそぎ落としていこうとしているにもかかわらず

心の負担は反比例してその関わりを増大させている。


何もしなければ何事も起こらないだろう。

だが、動けば身の回りに風も吹けば波もたつ。


風を呼び波を起こさなければ、退屈さがまとわりつく。

そう思えばエゴと言われても否定できないのかもしれない。


だが、退屈しのぎにしては事が大きすぎる。


ただそれが自分の生き方なのかもしれないし、

神から与えられた宿命なのかもしれない。



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自分の生き方が100%正しいとは全く思わない。

だが、自分に正直であろうとすればするほど、何故か軋轢を生む。


その軋轢こそが試練となって具現化(incarnation)されるのだろうか。


それならば、甘んじて受け止めなければならないだろう。

その試練を真っ向から受けて立つしかないだろう。


逃げていはいけない。

勇気を振り絞り、他人が何を言おうと自分を信じてをこの茨の道を進むだけだ。


この試練をどう凌ぐか。

今試されている。


課題が次から次へと投げかけられる。

これでもか、これでもかというばかりに。



【追記】

人生というものは、所詮苦しみなのだ。


苦しみを避けて快楽を求めても

また苦しみが追いかけてくる。

「苦労の種は尽きない」ともいう。


ならば、いっそ苦しみや苦労と共に歩いてみよう。

苦労の労は、いたわるという意味を持つ。

いたわるの意味は、

㋐弱い立場にある人などに同情の気持ちをもって親切に接する。
気を配って大切に世話をする。「病人を―・る」

㋑労をねぎらう。慰労する。「選手を―・る」

㋒手当てを加える。養生する。「からだを―・る」

とある。

毛嫌いしないで優しい気持ちで接すればいい。


だから、苦しさを道連れに旅をしよう。

そうすれば、苦しみが楽しみへと変わっていく。


苦しみとはそもそも「来る染み(沁み・浸み・滲み)」なのだ。


来る年波とともに、皺(しわ)や肌のシミのように

知らず知らずのうちに、何処からかじわっと忍び寄ってくる。



もう苦しみから逃げることはよそう。

疲れるだけだ。


いっそのこと、苦しみさんとお友達になろう。

親友になろう。

どうやら苦しみさんに惚れられてしまったようだ。