2020年11月6日やまちゃんが死んだ。フェイスブックで胃ガンを公表してから5カ月足らずで天国に逝ってしまった。あっという間であった。
私は迂闊だった。胃ガンだと聞いて、身の回りに胃がんになり、その後快癒した人が何人かいて、なによりクラウンの大先輩亀田雪人も胃がんを克服して、クラウン芸に磨きをかけていたのを思い出し、やまちゃんもこれをバネに大きく成長するだろうと、勝手に思い込んでいた。しかし彼の胃がんはたちが悪いものだった。治療が難しいと言われていたスキルス性胃ガンで、しかもステージ4と、ある意味絶望的な病に罹っていた。やまちゃんは最初に自分のガンがスキルス性でステージ4とはっきりと言っている。私が単純に見過ごしてしまったということだ。おそらくやまちゃんはこの宣告を受けたとき、生きたいと思いながら、生きようと思いながら、どこかで覚悟を決めていたのではないかと思う。宣告してから亡くなるまでの5カ月のあいだに彼がやろうとしたことを見ると、それを感じる。そして彼はその時、死が目の前にあったとき、決めたのだ、クラウンとして生きようと・・・。
ロシアのクラウンとの出会い
やまちゃんと知り合ったのは、市川のコルトンプラザ内にあった、いまはなきダスキン経営のサーカスレストランであった。彼はここでパフォーマーの手伝いをするイベントスタッフとして働いていた。はっきりとした記憶はないのだが、閉店する2、3年前のことではないかと思う。最盛期は外人パフォーマーが10人ぐらい働いていたときもあったが、その頃はグリーティング専門のクラウンが1人とか2人しか働いていなかったのではないかと思う。イベントスタッフのなかでやまちゃんは目立つ存在ではなかった、一言でいうと「もっそり」した感じ、イベント担当の女性スタッフがみんなテキパキして、しっかりしていたから、余計そんな風に見えたのかもしれない。気が利かないというわけでなく、しっかりやることはやるのだが、派手さがないというか、自己主張がないので、目立たなかったのだと思う。なにか頼んだあとにジョークをはさむと、ちょっと間をおいてからニコっと笑う、その笑顔が印象に残っている。いま思うと絶妙の間だった。
楽屋に行くと、やまちゃんがパフォーマーからジャグリングを教えてもらっているのに何度か出くわした。イベントスタッフの中でパフォーマーとは一番無縁そうな男だったので、とても意外な感じがした。しかしやまちゃんは、真剣にクラウンになろうとしていた。ダスキンから私が勤務していた会社が契約を解除され、サーカスレストランから撤収させられたあと、やまちゃんはパフォーマーとしてクラウンの衣装を着て、グリーティングをしていた。照れ屋のもっそり男がそんなことをするとはまったくおもいもよらなかったので、それを聞いてびっくりしたものである。
さらに驚かされたのが、サーカスレストランの閉鎖が決まったあと、彼がソ連のサーカス学校に入りたいと会社を訪ねてきたことだった。サーカス学校に入りたい、クラウンになりたい、そんなことを彼が思っていたとは、とても考えられなかった。よりによってなぜソ連なのかと聞くと、いつものようにはにかむように「自分はロシアがあっているんです」と答えていた。彼の師匠にあたる、日本人クラウンのPONTA(現松鶴家ぽん)がモスクワのサーカス学校で学んだことにとても関心をもっていたようなので、その影響なのだろうと、その時はそれ以上突っ込まなかった。
やまちゃんは亡くなる四カ月ほど前児童演劇劇作家で演出家の西上寛樹のインタビューに答えるかたちで、自分の人生をふりかえっている。このなかで彼はロシアのクラウンと出会いについてこんな風に語っていた。
カーニバルプラザで働いていたアメリカやクラウンカレッジ・ジャパン出身のクラウンたちは、「ハアーイ」と元気よく声をだしたところで「別の生き物」になる設定になっている。それが自分にはできなかった、恥ずかしいということもあったが、とにかくできなかった。そんな時サーカスレストランでひとりのロシアのクラウンと出会う。彼が柱のかげからちょっとのぞくような仕種をしているのを見て、いいなあと思う。彼にクラウンとは別の生き物ではと問いかける。そのときロシア人はこう答えた。
「ロシアは人だよ、クラウンは別の生き物じゃない。でも普通の人よりちょっとユーモアのある人がこの仕事をやっている」
このロシア人クラウンとは、アレクサンドル・アリョーシチェフ、サーカスレストランではサーシャと呼ばれていた。アクロバットやジャグリングが達者というわけでもなく、短いレプリーズ(寸劇)で芸と芸の間をつなぐのが上手なクラウンだった。なにより瞬時にお客さんの似顔絵を描くことが得意で、ソ連時代は似顔絵クラウンとして有名だった。彼はやまちゃんにとっては憧れであり、理想のクラウンとなるロシアのクラウンエンギバロフとも一緒に仕事をしていたことがある。
このインタビューを読んで、サーシャだったらそんなことを言うだろうなと思った。彼はサーカスレストランの仕事のあと、クラウンカレッジ・ジャパンで一年ほど講師をしていた。アメリカの本校との契約が切れたクラウンカレッジ・ジャパンに請われてのことだった。何度か通訳したことがあったが、その中でサーシャが、クラウンにとって大事なことは観察力だ、バスに乗っていても、レストランで食事するときも周りの人がなにをするのか、注意深くみてごらん、レプリーズをつくるときのヒントが一杯ころがっていると言っていたことをよく覚えている。このサーシャと会ったことでやまちゃんはロシア留学を決心することになったようだ。いわばサーシャがやまちゃんのロシアへの道をひらいたことになる。そしてその道を進むように尻を押したのが、私だった。
モスクワ国立サーカス学校からモスクワブラザーズ
キエフのサーカス学校にするかモスクワのサーカス学校にするか迷っていたとき私がクラウンを学びたいのなら、いい先生がいるからモスクワがいいと言ったらしい。
インタビューの中でやまちゃんは「カーニバルプラザに外国のパフォーマーを呼んでいた会社の人に相談したら、レフ先生というすごくいいクラウンだから彼に習うといい」と語っている。
モスクワのサーカス学校に素晴らしいクラウンの先生がいる、これは間違いなく私が言ったことだ。先生はレフ・ウサチョーフ、彼とはPONTAがモスクワのサーカス学校で学んでいたとき、初めて会い、教え方といい、人間性といい、この人だったら大丈夫だという確信があった。やまちゃんはモスクワのサーカス学校でレフ先生の指導のもと、クラウンとして基礎をしっかり積むことになった。そのころは年に一度はモスクワに行っていたので、やまちゃんがサーカス学校で学んでいたとき、学校を訪ねたことがあった。やまちゃんはレフ先生とほとんどマンツーマンの状態で学んでいた。ふたりとも言葉を気にすることもなく、以心伝心語り合ってきた。いい関係で学んでいると思った。この時先生と一緒につくったという帽子とカバンをつかったレプリーズを見せてもらった。雰囲気があって、面白いレプリーズだった。ロシアがまだ混乱していた時代だったが、そういう生活にも溶け込んでいた。トイレットペーパーがないとか愚痴など一切いわず淡々と暮らしていた。結構図太い男だということを知った。
モスクワから帰国したあとのやまちゃんとの接点は、やまちゃんが、ウクライナ人のアーティストアンドレイと合体して、モスクワブラザーズを結成したときだった。大使館経由でアンドレイが日本で仕事がなくて困っているという相談を受けた私が、モスクワから帰国したやまちゃんに一緒にやってみないかと相談したことがきっかけだった。欧米のようにソロのアーティストが活躍できるような場は日本にはなく、大道芸やイベントで仕事を探すしかない、ハンドスタンドアクロバットをしているアンドレイの演技時間は5分足らず、これでは仕事が探せない、そこでクラウンのやまちゃんを組んだらどうかと思った。最初のころはいろいろ話題になり、仕事もあったが、他の外国人と比べてギャラが少ないとアンドレイがいい始めたことで、このコンビは解散する。自分たちでやりたいと言ってできたコンビではなかったので、一年足らずで解散となったのもしかたのないことだったかもしれない、その場しのぎの私の思いつきで、やまちゃんには申し訳なかったと思っている。
その後やまちゃんと会うのは、私が勤めていた会社ACCがプロデュースした公演や他の公演で顔を会わすぐらいで、ほとんど接点はなくなったが、彼は黙々と、ゆっくりとクラウンの道を歩いていた。西上とのインタビューを読むと、当時ほとんどの芸人たちが生活のために働いていた大道芸やイベントの仕事は断って、かたくなにクラウンとして仕事しようとしていたようだ。児童館や学童クラブの集まりで、クラウンをするなかで、自分のレプリーズをつくっていった。こうしたちいさな仕事をいくつもこなしていくなかで、クラウンとしての地歩を固めていく。そこからおやこ劇場でも少しずつ知られるようになり、さらには児童演劇にも出演するなど、これからがますます期待されるクラウンになったときのガン宣告だった。
亡くなるまでの5カ月の間、病と闘いながら、彼はクラウンとしてどう生きるかということに対峙していくことになる。生きるということは、その先にある死を見つめることを意味していた。
この時素晴らしい仲間が、やまちゃんを応援しようと立ち上がる。やまちゃんと「青い卵」というユニットをつくっていた宮城摩理は、8月横須賀の元映画館だったライブスペースを押さえて、2日間「青い卵」のライブ公演を企画、実施した。さらに9月にはなかの芸能小劇場で「YAMAちゃんフェスティバル」が2日間行われている。ここでやまちゃんは大好きだという「雪の日」というクラウン劇を、かねてからの念願であった生演奏をバックに演じることができた。わずかな期間にこれだけのことができたのは、やまちゃんのために何かをしようとした仲間の力である。特に「YAMAちゃんフェスティバル」で「雪の日」を上演できた意義は大きい。やまちゃんはこれを演じることで、大きな遺産を残すことになったのである。この作品に、クラウンYAMAのすべてがこめられていた。
「雪の日」の赤い花
私はなかの芸能小劇場でのライブ公演は見ることができなかったが、この時の公演を収録した映像を見ることかできた。(有料配信で12月31日まで閲覧できる) クラウンYAMAの白鳥の歌となった「雪の日」はこんな作品である。
YAMAが客席から輪を投げてもらい、それをキャッチするというやりとりが行われる。三つの輪を頭と両手で受けとめたところで、上手にアコーディオンとバイオリン、下手にピアノのミュージシャンが席につく、ここでYAMAが、タクトをもってそれをふりあげたところで、暗転。まもなく上手からトランクと花のない葉っぱだけの植物の鉢植えをもったYAMAが、寒い冬の日を思わせる風の音をバックに、ロングコートを着て、自分で頭に紙吹雪をかけながら登場する。かじかむ手を擦っているうちに両手がくっついてしまうところから、定番ともいえるいくつかのルーティンが演じられる。ポケットからとりだしたハンカチーフが手からはなれなくなったり、帽子を被ろうとするが帽子がとんでしまいなかなかかぶれない、やっと被れたかと思うと指がはさまってとれなくなる、指がとれたかと思うとその指が消えてしまう、帽子を投げて頭でキャッチしようとするが、背中に落ちて、それをなんとかして頭へと持っていこうとする、コートの袖から右手首が消え、出てきたと思うと左手首が消えといった一連のルーティングが、演じられる。ここまでがこの作品の前半部分といえるだろう。
後半は床に自分でふりまいた紙吹雪を拾い、それを玉にしようとすることから始まる。トランクの中からボールが出てくる。雪がボールになって、それをトランクに入れようとするがなかなか入らないということを繰り返していく中で、このボールがさらに大きくなる。後半は紙吹雪-玉-ボールという変化(へんげ)を巧みに見せていく。紙吹雪を集めてまた玉にする、それが今度は三つのボールになる。それを床で転がし、そして三つボールのジャグリングとつながっていくが、ここを見せ所とはしないで、さらっと流し、あくまでも変化にこだわる。ジャグリングのあとトランクにボールを戻すが、どうしても一個だけ入らない、繰り返しやっていくうちにこれがまた紙吹雪に返る。この場面にはっと息をのんだ。さらに手かから2つの青とオレンジの花びらがでてくる。そして葉っぱだけの鉢植えにも赤い花が咲く。紙吹雪に戻るところから花が咲くというこの場面はほんとうに美しかった、雪の日の、寒さの中で、白黒の画面が、ぱっとカラーに変わったような錯覚に陥り、なによりも暖かさが伝わってくるのである。ラスト、YAMAはロングコートを脱いで客席を回り、また舞台に戻り、鉢植えをとりあげ、花をいとおしげに見つめるところで暗転、エンディングとなる。
後半の変化をテーマにした流れは実に見応えがあったし、惹きこまれていった。叙情性さえ漂っていた。花を登場するシーンでおもわずYAMAが尊敬憧れていたエンギバロフのレプリーズ「ボクサー」がよみがえってきた。
見るからに弱そうなボクサーに扮するエンギバロフと、いかにも強そうな体格をした相手役のふたりが登場、ボクシングの試合が始まる。エンギバロフはけちょんけちょんに叩きのめされてしまう。ここで客席の一番前に座っていた少女が、「レーナ( エンギバロフの愛称) がんばって!」と花をアリーナに投げ入れる。この花を相手役が、足で踏み潰したあげく放り投げるのをみたエンギバロフは、顔掻きむしり悔しがり猛然と反撃にでる、何度もダウンを繰り返すが、最後には相手をノックダウンさせる。
ボクシングというサーカスでありきたりの素材に、少女が投げ入れる花というモチーフを発見したところに、エンギバロフ独自のロマンチシズムがあった。
「雪の日」のエンディングを見ながら、このエンギバロフの花がよみがえってきた。花は勇気を、力を、希望をなげかけてくれた。「雪の日」の中で冬の中咲いたあの一輪の花は希望であり、勇気であった。あの花を愛でるラストシーンはそんな希望への祈りでもあった。
これを演じたあと、彼は残された人生をクラウンとして生きることを決めた。
無理して笑顔をつくり、蔭で涙を堪えるという日本的なピエロではなく、彼はロシア流クラウンの流儀で、自然体で生きようとしたのだ。
ブログの中で彼はこんなことを書いている。
「今までは人前に立つなら『元気な姿を!』と思ってましたが、無理せず今出来る姿を見せていけばいいそれが生き方を見せるということかなと感じました」
病はやまちゃんの身体をあっという間にむしばんでいく。彼はフェイスブックの中でそのむしばまれた姿をあからさまにさらけ出す。あのふくよかなぽっちゃり顔がどんどんやせ衰え、頬がそぎ落とされていく、それでも懸命に笑顔を浮かべながら、やまちゃんはみんなに僕に元気玉をくださいと呼びかけた。あれは同情している仲間やファンに悲しまないでという思いもこめられた、ギリギリのやさしさだった。励まさせることで、仲間たちに気苦労させないようにした、究極のやさしさだった。死出の旅へとなった入院するときも、あんなにやせてやつれていたのをさらけ出しながら、笑顔で仲間にエールをおくっていた。彼は最後までクラウンを演じた。演じたというのは正しくない、クラウンを生きたといった方がいいだろう。クラウンとして生きて、そして死んでいった。
やまちゃんは、ブログの中でクラウンについての断章をいくつか書いている。その中でこんな文があった。(2015年)
「YAMAをサーカス学校に紹介してくれた大島さんがエンギバロフについて書いていた
エンギバロフが語る、クラウンの作品とは。「実際の生活を舞台にあげることがクラウニングではない。苦しんで、苦しんで、苦しみ抜いて、出てきた自分を作品にする。生活をなぞった作品は陳腐な一枚のスナップ写真のようだ。自然界に宝石が存在しないのと同じで、生活そのままのパントマイムは存在しない。『自分』を入れなければいけない」
そして、いかにしてクラウンになるか、という彼の考えも興味深かったです。ユーモアは必要ない(むしろクラウンは真面目でなければいけない)、健康は絶対に必要(サーカス場では、天下無敵の身体を持っていなければやっていけない)、想像力も必ず要るというわけではない(いつも単純で、迷っているくらいがよい)、人生体験はひどい方がよい(仕事は少なくても10は変えた方がよい)、絶対に奥さんを持ちなさい(でなければ失恋時の想いなど演じられる わけがない)・・・などなど。そんな彼は 1972 年、37 歳の若さで生涯の幕を閉じてしまいます。
詩をよく詠んだというエンギバロフは「クラウンは詩人であり、おとぎ話をつくる」とも言っています。アンデルセンの童話を表現したいと考えていた彼の作品は、可笑しいけれど悲しい、いわゆる悲喜劇とよばれるものでした。人間の存在の深いところまで突き詰めようとした 彼のクラウニング。」
別のブログで彼はエンギバロフについてこうも書いている。
「なんて素敵なクラウンだろう
自分もそうありたいと誓った」
やまちゃん、
君は、おとぎ話のクラウンになった
そして見事にクラウンとして生きた
「雪の日」の最後のあの笑顔を忘れることはできない
そして君のあの笑顔をみつめていた花は
私たちへの本当の贈り物だった
君がつくってくれた笑顔の向こうには
あったかい、やさしさ、そして喜びがあった
雪の日に咲いたあの花のように
最後にエンギバロフのこの言葉を贈りたい。
『クラウン
これは職業ではない
これは世界観なのだ
私は人びとに喜びや微笑み
そして悪に打ち克つ善への信頼をもたらす
おとぎ話のクラウンになりたいと思う
私のヒーロー
アンデルセンのように』
やまちゃんが残した最後の作品「雪の日」を伝えていきたい、そう思っている。
クラウンYAMAのインタビュー
https://blog.amano-jaku.com/2020/07/27/clownyama-2/3/
「雪の日」有料配信申し込み(12月31日まで)