作品名 「円生と志生」
原作 井上ひさし 出演 角野卓造 辻満長ほか
観覧日 2005年2月7日 公演時間 およそ2時間40分
会場 紀伊国屋ホール
待望久しかった井上ひさしの新作。井上がずっとこだわり続けている戦争と庶民のテーマ。舞台はまたしても大連。終戦を大連で迎えた、若かりしふたりの落語界の巨匠の600日の大連での生活を追う。戦後の大連という、自分にとってはいまやっている長谷川濬の戦後とも重なるとても魅惑的な時代・舞台背景があったのかもしれないが、最初から舞台に引き込まれた。時には笑い、時には涙を浮かべながら、ほんとうに楽しく観賞させてもらった。戦争と庶民というテーマとは別に、「笑い」ということ、それに殉じる芸人という視点から、ずいぶんと考えさせられることも多々あった。戯曲が本になったら、ぜひまた読みたいと思う。まだ整理がつかないので、見終わって気になったことを、アトランダムにメモとして残しておきたい。
1 語り継がれる笑いの芸へのいとおしさ。旅館を追い出された円生と志生が転がり込む花街で、そして志ん生がキリストと間違えられて、一騒動おこす修道院で、歌われる歌が印象に残った。また聞かせてくださいよ、あの面白い話を、という内容なのだったと思うのだが、娼婦たちにも修道女たちにも楽しませる、落語という力をもった芸、それがひとを「笑わせ、楽しませる」芸であった。笑いの芸の強さ、たくましさ、そしてそれを受け入れる大衆。
1 小話とコント。未来のふたりの巨匠は、さまざまな苦労をしながら終戦後の大連を生き延びる。そのなかで芸の鍛練にもつとめるわけだが、ここで小話こそが、落語にとっては大事だということに気づく。かつて井上ひさしは、浅草のストリップ小屋でコントを書きつづけたわけだが、こうしたコントが、のちの彼の傑作戯曲へと繋がっていく。いつか井上がチェーホフのことを書いたエッセイのなかでも、チェーホフにとって初期のヴォードビルがいかに大切だったかを語っていた。井上のドラマトゥルギーを考えるうえでも、面白かったのだが、クラウンニングを考える時にも、非常に参考になる視点であった。
1 小話と聖書。修道院の場は、ほんとうにおかしかったが、そのなかで、円生と志ん生が小話を競い合うのを小耳にはさむ修道女が、そのひとつひとつが聖書の一節と合致すると指摘、それが騒動のもとになるのだが、この指摘は興味深い。聖なるものと笑いの接点。
1 笑いの力。この問題が一番大きい。ひとを笑わせてどうなるの、その意義はということを問い詰めている芝居だと思う。笑う力をもった人たちがいる限り、笑わせようと懸命になる芸人がいてもいい。むしろ庶民が笑う力を失ってしまうこと、それがどれだけおそろしいことなのか。
このところよくクラウニングのことを考えることが多いのだが、それに対するひとつのヒントとなった芝居かもしれない。
原作 井上ひさし 出演 角野卓造 辻満長ほか
観覧日 2005年2月7日 公演時間 およそ2時間40分
会場 紀伊国屋ホール
待望久しかった井上ひさしの新作。井上がずっとこだわり続けている戦争と庶民のテーマ。舞台はまたしても大連。終戦を大連で迎えた、若かりしふたりの落語界の巨匠の600日の大連での生活を追う。戦後の大連という、自分にとってはいまやっている長谷川濬の戦後とも重なるとても魅惑的な時代・舞台背景があったのかもしれないが、最初から舞台に引き込まれた。時には笑い、時には涙を浮かべながら、ほんとうに楽しく観賞させてもらった。戦争と庶民というテーマとは別に、「笑い」ということ、それに殉じる芸人という視点から、ずいぶんと考えさせられることも多々あった。戯曲が本になったら、ぜひまた読みたいと思う。まだ整理がつかないので、見終わって気になったことを、アトランダムにメモとして残しておきたい。
1 語り継がれる笑いの芸へのいとおしさ。旅館を追い出された円生と志生が転がり込む花街で、そして志ん生がキリストと間違えられて、一騒動おこす修道院で、歌われる歌が印象に残った。また聞かせてくださいよ、あの面白い話を、という内容なのだったと思うのだが、娼婦たちにも修道女たちにも楽しませる、落語という力をもった芸、それがひとを「笑わせ、楽しませる」芸であった。笑いの芸の強さ、たくましさ、そしてそれを受け入れる大衆。
1 小話とコント。未来のふたりの巨匠は、さまざまな苦労をしながら終戦後の大連を生き延びる。そのなかで芸の鍛練にもつとめるわけだが、ここで小話こそが、落語にとっては大事だということに気づく。かつて井上ひさしは、浅草のストリップ小屋でコントを書きつづけたわけだが、こうしたコントが、のちの彼の傑作戯曲へと繋がっていく。いつか井上がチェーホフのことを書いたエッセイのなかでも、チェーホフにとって初期のヴォードビルがいかに大切だったかを語っていた。井上のドラマトゥルギーを考えるうえでも、面白かったのだが、クラウンニングを考える時にも、非常に参考になる視点であった。
1 小話と聖書。修道院の場は、ほんとうにおかしかったが、そのなかで、円生と志ん生が小話を競い合うのを小耳にはさむ修道女が、そのひとつひとつが聖書の一節と合致すると指摘、それが騒動のもとになるのだが、この指摘は興味深い。聖なるものと笑いの接点。
1 笑いの力。この問題が一番大きい。ひとを笑わせてどうなるの、その意義はということを問い詰めている芝居だと思う。笑う力をもった人たちがいる限り、笑わせようと懸命になる芸人がいてもいい。むしろ庶民が笑う力を失ってしまうこと、それがどれだけおそろしいことなのか。
このところよくクラウニングのことを考えることが多いのだが、それに対するひとつのヒントとなった芝居かもしれない。