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デラシネ日誌

私の本業の仕事ぶりと、日々感じたことをデイリーで紹介します。
毎日に近いかたちで更新をしていくつもりです。

那覇で一の蔵

2006-03-11 15:20:02 | 長谷川濬取材ノート
家を11時すぎに出る。ヤフーの路線検索通りの電車に乗るものの、てっきり羽田までいく電車だと思っていたら、蒲田で乗り換えしなくてはならないのだったらしい。しかもすっかり寝ていて、気づいたら電車は蒲田をすぎ、品川に向かっていた。品川で羽田行きの急行がちょうど来ていたので、走って飛び乗る。時間的にはかなりきびしい。羽田に着いて走る。便利なもので、京急の改札口の外にすぐに搭乗手続用の機械がおいてある。滑り込みセーフ。波乱の幕開けである。
機内では走り疲れかすぐに寝てしまう。目が覚めてからは、持ってきた長谷川濬の日記の最後の一冊を読む。彼が20年間ずっと日記のなかで、断片的に書いてきた従妹との恋愛にも似た関係、そしてその従妹と親友の結婚、さらには大阪時代の不倫について、はっきりとしかも詳細に書いてあった。すべての謎がとけた。およそ2時間半のフライトで那覇空港着。モノレールで安里へ。ホテルは駅の真ん前。チェックインして少し休んだあと町に繰り出す。国際通りを歩き、市場をのぞく。沖縄の魚はみんなカラフル、あまり美味しそうではない。
19時前に漂流民の会員で、仙台出身のIさんが一年前に出したという「おりじん」という店に行く。メールのやりとりはしていたものの、会うのは初めて。並んでいる並んでる、わが郷里の酒が。仕入れたばかりという八戸の酒から、一の蔵、浦霞。途中から一度仙台でお会いした琉球大で言語学を教えているKさんご夫妻もやってきて、レザーノフの辞書や若宮丸のことで盛り上がる。土曜は暇という噺だったが、お客さんはひっきりなし。やっと落ち着いてから、知らない内に自分の独演会になってしまった。話しは野毛にまで及び、Iさんはすっかり野毛に幻惑されていた。結局2時半まで飲んでいた。歩いてホテルに戻る。ちょっと小腹がすいたのでラーメンを食べてから部屋に戻る。

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函館篇2

2005-08-28 11:05:47 | 長谷川濬取材ノート
市電宝来町停車場近くの文学館を訪ねる。予定にはなかったのだが、市電に乗っている時みかけ、ここだったらきっと長谷川兄弟についてなんかはあるだろうと思った。入場料300円。濬さんの同級生亀井勝一郎の「函館八景」のエッセイに従い、函館名所のパネルが入り口に飾られてある。濬さんも日記によく書いているガンガン寺のポプラ並木、立待岬などもでている。この本は買わないといけない。長谷川兄弟コーナーは突き当たりにあった。海太郎と四郎は、びっちりと刊行本や関連資料が置かれているが、濬さんのところは、「偉大なる王」と「私の動物たち」と翻訳本が二冊置かれているだけ。ただ5点の写真が参考になった。新婚当時、長女誕生の時、妻の両親たちとの写真など貴重なものばかり。妹の玉江がもっていたものらしい。それしても濬さんは善人まるだしの顔をしている。それはほかの3人と違う。正直まるだしの顔である。函館八景にヒントを得て、もう一度元町近辺を歩くことにした。

亀井は、ガンガン寺とカトリック教会の間の小道がポプラ並木だと書いていたのだが、やはりそれらしき木はない。いまから80年以上前のことである、刈り取られたか、枯れたなのかもしれない。チャチャ坂を登り、護国神社へ向かう。濬さんの「日記」には、少年の頃の思い出として、兄から借りた水兵服をきて、招魂社で七五三の参拝をしたと、何度か書き留められている。函館山ケーブルカー乗場の近く、生家からは10分ぐらいのところにある。大きな神社だ。ここも丘の上にあり、海をのぞむことができる。朝からちくりちくり痛んでいた左下腹部の痛みがかなり強くなる。何も食べていないせいもあるし、食べないと薬も飲めないこともある。とりあえず取材はここまでとする。護国神社からまっすぐ海に向かっておりる坂の入り口に高田屋嘉兵衛の像が建っている。
午後1時すぎ市電通りの小池カレーという店で、ポークカレーを食べる。このカレーをつくった問いを先代の顔写真が大きく飾られてあった。まあまあの味。薬をのんで一息。
今回の函館訪問のもうひとつの目的、函館写真図書館へ向かう。
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函館篇 1

2005-08-26 17:19:50 | 長谷川濬取材ノート
また夕べ腹痛で目を覚ます。目覚めが悪い。とにかくコーヒーだけ飲んで、ホテルを出る。駅まで行って、荷物を預け、函館市内の地図と市電一日乗車券を購入。まずは長谷川濬の生まれた元町を目指す。市電の末広町で下車。長谷川家の生家は、ハリスト教教会とカトリック教会の間の脇にあったという。いまの元町茶廊があるあたりかもしれない。このあたりはいわば観光スポットのメッカ。観光客の行き交いが多いところでもある。長谷川の少年時代の思い出に出てくるのは、ポプラ並木と、ガンガン寺、招魂社での七五三。ポプラ並木はいまはない。しかしやはり坂の多いところ、それぞれの坂から見下ろす海の景色が微妙に違う。啄木も代理教員を勤めていたという弥生小学校は、生家があるところから10分くらいだろうか? 家から学校に行くまで、やはり毎日海を見下ろしながら通ったのだろう。当時港には北洋に向かう漁船、外国船で賑わっていたというが、そういう景色は学校の行き帰りにしょっちゅう見かけていたのかもしれない。そして回りのエキゾチックな寺院。小さな時から海のにぎわい、そして異国情緒は、身体に染みついていたのではないか?
それにしても弥生小学校は、へんな建物の学校だ。外国の学校のような感じ。およそ日本の小学校とはおもえない建物であった。この途中に船魂神社がある。これは長谷川の小説に出てくる神社。わりと小さくこじんまりした神社だった。ここからも海が、木々の間から臨むことができる。
いったん坂をおりて、また市電に乗って谷地頭へ。大正10年の大火で焼き出された長谷川家は、谷地頭百番地に家を新築している。花屋さんで花を買う時に、百番地ってどこですかって聞いたら、そんな番地はないという。ここは36番地までしかないとのこと。当然のことかもしれない。この隣にある町は、同じくこの火事で引っ越してきた神彰が住まいがあったところでもある。長谷川濬と神彰のふたりの接点はすでにここにあったのである。
立待岬へ向かう。ここは何度も来たところ。石川啄木家族の墓があるところからすぐに神さんの墓がある。いつ来てもここはきれいに掃除されている。神家の墓には活けられたばかりの花が供えられていた。神さんの墓に花を供える。かもめが上空を何匹も飛び交っていた。
長谷川濬の日記によると、同じく啄木家族の墓からすぐのところに父淑夫(世民)の記念碑があることになっている。探しあてるのにそう時間がかからなかった。啄木の墓から立待岬に向かって、100歩も歩かないところの右手、消防の碑の隣に、長谷川世民の碑が立っていた。裏には世民の書いた短歌が彫られているのだが、読みきれなかった。建立されたのは、昭和18年のことである。ということはその頃長谷川濬は満州に行き、それ以来一度だけ航海の時に函館に立ち寄っているのだが、この碑を見てないかもしれない。ただ啄木の墓の近くという話しは日記に何度も出てくる。こうした話しを同郷の神さんにも言っていたのではないだろうか。それが神さんがここに墓を建てるきっかけになったということは考えられないだろうか。
立待岬ももう何回も来た場所。長谷川にとって立待岬は、中学時代に海水浴した場所として、日記で何度も回想されているところ。そんな泳げるところがあったかという疑問があっのだが、確かに波も荒く岩がむき出しになっているが、泳げないことはない。遊泳禁止の看板が建てられてあったが、一人泳いでいる人がいた。日記によるとここで長谷川は、同級生の女の子と泳いでいたらしい。その場所までおりてみた。長谷川はここで泳いだ回想を、北洋航海の途中、津軽海峡を渡る時に書いていたのだが、それはよくわかるような気がした。ここで荒波にもまれて泳いでた時は、はるか遠方に津軽海峡が見えていたからだ。彼はまもなく20才の時に、船乗りとしてカムチャッカに向かうのだが、そのきっかけは、海と身近に接し、親しみ、さらに海の彼方のものに憧れを強く抱くようになったからではないだろうか?遠くに臨む海峡、そしてその先にあるもの、そこへの憧れを強くもつようになったかもしれない。
朝から何も食べていないので、そろそろ腹がすいてきた。もうお昼時になっていた。
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