goo blog サービス終了のお知らせ 
goo

「国定忠治」はなんで有名なのか

 先だって志賀高原に行った折、なんと「国定忠治」に出会ってきました

 「国定忠治」というのは、幕末に生きた侠客で、上州(=上野国(こうずけのくに);今の群馬県)では今も人気一番と思われますが、何でそんなに有名なんでしょう

「国定忠治」が生きたのは1810~1850年の間らしいのですが、この頃の幕府は体制の弱体化による汚職や政治の乱れが多くなり、幕府直轄領・関八州は上州の大前田栄五郎、駿河の清水次郎長、江戸の新門辰五郎・江戸屋虎五郎、甲斐の黒駒勝蔵等の日本を代表する任侠の祖がしのぎを削っていた

忠治の名が知られるようになったのは、天保4年から同7年(1833~1836年)にかけて天保の大飢饉と呼ばれる凶作が続き、農民は窮地のどん底にさらされた時の救済活動によるようです

この折、賭場での儲けとはいえ、稼ぎを投げ打って灌漑用の溜池を普請したり、貧しい百姓達に金銭を施すなどして、各地で飢饉の為死者が続出する中、忠治の縄張り内での餓死者は一人も無かった事から、地元の義賊的英雄となったそうです

縄張り争いでの人斬り、禁止の賭場の開設、関所破りをしたりで役人に追われていたが、地元の人達に助けられ各地に史跡が残っています

志賀高原前山スキー場のリフト横で、国定忠治の隠れ家跡なるものがありました 

巨岩の洞窟の中にでも隠れていたのでしょうか!?                                                      この地は熊の湯温泉がありますので、温泉に入り隠れ療養もかねていたのかもしれません

忠治隠れ岩の伝説紹介として、史跡碑の横に建てられた看板をアップしました

1850年、「国定忠治」は自ら破った上野国吾妻郡大戸村大戸関所で磔の刑に処せられました(享年41才)・・・つかまった時は脳溢血で脚が不自由になっていたそうです

「国定忠治」の人気は今も衰えず、忠治の墓にはその博才にあやかろうとお参りに来る人も多いそうです

「赤城の子守歌」や東海林太郎の名月赤城山、新国劇「国定忠治」等で忠治の生涯は脚色されたりしているとは言え、その庶民せい人気は群馬有名人のトップかもしれません

群馬の上毛カルタで、『雷と空っ風 義理人情』というのがありますが、これが「国定忠治」人気の秘密の様に思えます

尚、直接義侠「国定忠治」が、上毛カルタで詠われなかったのは、、GHQにより、思想や犯罪が問題とされ、不採用となった為だそうです

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )
« 「志賀高原」... “ビバーナム・... »
 
コメント
 
コメントはありません。
コメントを投稿する
 
名前
タイトル
URL
コメント
コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

数字4桁を入力し、投稿ボタンを押してください。