ヌルボ・イルボ    韓国文化の海へ

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眼裏の風景

2019-07-16 21:30:32 | エッセイ・雑文(韓国・朝鮮関係以外)
眼裏の風景

 年に五、六回ほど神保町辺りを歩く。主目的は古書漁りだ。
 行く度に、街が少しずつ変わっていることに気づく。新しいたてものビルが建っていたり、店ができていたり・・・。だが、なじみの店がなくなったのでもないかぎり、新しい建物や店舗の場所に前は何があったかは思い出せない。
 しかし、全体として街のたたずまいはずいぶん小ぎれいになった。東京の他の街でも横浜でも同じことは言えるが・・・。
 今春地方から上京した新大学生たちはこの街にどんな第一印象を持っただろうか。
 私にとっては、駿河台~神保町界隈の原風景はちょうど半世紀前のそれである。以来、この街の過去の相貌は三種類眼裏(まなうら)に残っている。今の風景の背後に、いわば「レイヤーが重なっている」のだ。

 一九六八年。入学してまもなく先輩から古書展のことを聞き、東京古書会館に行ってみた。今の会館の近くにあった別の建物である。古書展では年配の愛書家の人たちが大勢本を物色していた。その姿はまさに今の自分である。
 付近一帯の学生街は当時「日本のカルチェ・ラタン」と呼ばれたりもしていたが、この言葉は今も生きているのだろうか?
 「カルチェ・ラタン」が日本で広く知られたのは、この六八年の五月、パリで起こった五月革命のニュース報道からだった。政治的な面よりも、反戦、マイノリティ重視、エコロジーへの関心などを訴えたこの運動の影響力は大きく、現代にまで及んでいると言ってよいだろう。
 当時日本では、前年十月の第一次羽田事件以来、いわゆる三派系全学連による学生運動の過激化が目立ってきた。そんな中、「神田カルチェ・ラタン闘争」と称される運動が展開されたのは五月革命の翌六月のことだ。
 中大に集まった社学同の学生たちが街に出て、持ち出した机などでバリケードを築いた。この時は機動隊がバリケードを解除したのだが、この六八~六九年の大学闘争の最高揚期、この一帯で明大、日大、中大等のデモ隊が投石で機動隊に対抗することがあった。当時の歩道には三〇センチ程度の敷石が敷かれていたが、それを剥がして車道で砕き、投げる。パリの学生街カルチェ・ラタンでは学生たちが道路の敷石を剥がして警官隊に投石したというが、これもそれをなぞったものだ。
 六九年一月一八日には、駿河台一帯では東大安田講堂の攻防に呼応して全共闘学生ら約二千人が機動隊と衝突した。今当時の報道写真を見ると、道路全面に石が散乱しているのがわかる。
 自分のことを言えば、上記のような投石の飛び交う現場に居合わせたことはない。元来小心者で、君子ではないが「危うきに近寄らず」を信条としていたからだ。「戦いのあと」を何度か見たくらいである。それでも、入学間もない頃の駿河台~神保町の景観を最初のレイヤーとすれば、二枚目のレイヤーだ。
 むしろ印象に残っているのは三枚目のレイヤーである。
 安田講堂落城後、各大学闘争は沈静化していった。一時全共闘側が占拠・封鎖していた明大の校舎は反全共闘派の学生と大学当局によって封鎖が解除され、そして「逆封鎖」された。
 七〇年代に入って時代の雰囲気は一変した。音楽だと、フリージャズからクロスオーバーの時代に。あるいは反戦フォークからいわゆる四畳半フォークを経てニューミュージックの時代に・・・。一言で言えば「明るくなった」。それも「虚ろな明るさ」だ。
 その七〇年代のある日、明大を見ると、かつてはなかった高い鉄柵がめぐらされていた。また、街の歩道に敷石はなく、アスファルト舗装になっていた。
 この殺風景な街の姿は心の空虚感とシンクロしていた。

 新宿東口も、駿河台一帯と同様に変貌してきた。
 私が東京暮らしを始めた頃は、「署名とカンパをお願いします」と呼びかける声がよく聞かれた。ところが、これも「闘争の時代」が終わると植え込みが造られ、そんな空間は失われた。
 六九年頃「西口広場」ではベ平連の青年たちが毎土曜日フォーク集会を開いていたが、これも規制を受け、抵抗もあったが結局七月一九日案内標示板が「西口通路」と書き変えられ、集会が開けなくなったことは、記憶している人も多いと思う。
 ヨーロッパの都市の広場は、憩いの場であるとともに集会の場である。儀式や行事が行われたり、権力者にも利用された。先頃三一運動百周年記念式が行われたソウルの光化門広場やソウル広場もそんな広場だろう。しかし日本にはヨーロッパ的な意味での広場は実在しないという。
 「その後の変貌」に驚いたのは安田講堂前も同じだ。
 六八年に五千人を超える全共闘系学生の集会も開かれた広場は、七五年地下に「当時としては類を見ない」学生食堂が作られた時に植え込みが造成され、大人数の集会は開こうにも開けなくなってしまった。

 闘争の時代のあと、このように取り急ぎ塗りつぶされたような風景は、九〇年代以降さらに上塗りが進められてきた。それが今の小ぎれいな街の景色だ。
 駿河台の明大は昔の建物も鉄柵等もなくなり、一九九八年にリバティタワーが竣工して付近も含め景観が一新した。歩道はきれいにデザインされた敷石で覆われている。そんな今の景色を、疑問を持って眺める人はまずいないだろう。
 しかし昨年、その表面が少し剥がれるような問題も表面化している。京大の立て看板をめぐる論議である。その後、早大でも問題提起があったという。「立て看板は街の美観を損ねる」というのが行政側の論理である。担当者による文を読む限り、かつてのような学生運動の規制といった意図はなさそうだ。しかし、「美観維持」が時として「美しくないもの」を排除する口実とされてきた歴史は知らなければならない。
 街の美化がもっと露骨に規制の手段として用いられている事例がある。大阪の釜ヶ崎地区だ。道路際に大きめのプランターがたくさん置かれている。しかし、花はきれいでも、並べ方が不自然だ。公報等には「環境美化の一環」とあるが、逆に美観を損ねているのでは、という所さえある。公共施設の塀には、一メートルほどの高さの所に壁掛け型プランターがいくつも架けられている。つまりは野宿できないようにするのが第一目的なのだ。

 今、半世紀前と比べるとはるかに小ぎれいになった思い出の街を歩くと、その間に消えてしまった、あるいは消されてしまった「大切なもの」に時おり思いが及ぶのである。