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伊藤博文と宗教

2016-08-27 | 天皇生前退位
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2016年 8月27日(土)09時38分42秒

『伊藤博文─近代日本を創った男』には伊藤博文の宗教観を伺わせる箇所はそれほどありませんが、伊藤の子どもの英語家庭教師として伊藤家に住み込んでいた津田梅子の回想は興味深いですね。(p230)

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伊藤公は人間性に深い関心を持っていた。彼はその人の身分にかかわらず、訴える力を持つ人間の言葉に耳を傾けた。召し使いであろうと、女子供であろうと、…(中略)…「生も死もわたし〔伊藤〕にとっては同じようなものだ。これから先、何が起こるかを怖れたことは一度もない」といった言い方で、彼は自分を宗教心のない人間だと決めつけていたが、私に言わせれば、彼は、何と言ったらよいか、わけのわからない力(生命の?)といったものを信じていた。彼の多くの言動にはしばしば、信仰と名づけたくなるようなそうした途方もない神がかり的なものがあった(大庭みな子『津田梅子』一五二~一五三頁)。
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ここはもう少し丁寧に見たいので、大庭著を確認しようと思います。
個人の内面的な信仰はともかく、伊藤が国家に過度な宗教的色彩を与えることを断固拒否した点については、神祇官再興問題の経緯に明らかですね。(p264)

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神祇官再興を止める

 伊藤の影響力の強さは、一八九〇年(明治二三)一〇月上旬の神祇官復興問題でもわかる。神祇官は、祭祀と行政を行うものとして明治初年に置かれた機関である。祭政一致の復古主義の象徴的な官庁であったが、明治四年(一八七一)八月には廃止された。
 ところが、山田顕義法相(長州)・吉井友実枢密顧問官(宮内次官兼任、薩摩)・佐野常民枢密顧問官(佐賀)・海江田信義貴族院議員(薩摩)らが、国会開設を前に神祇官を復興しようと建白した。これは、全国の神官や敬神党の人心を皇室と藩閥側に結集させようというものだった。
 一八九〇年一〇月二日、閣議でも「内決」したが、土方久元宮相〔伊藤系〕は、異論があることについて、伊藤に意見を聞くべきであると、天皇に奏上した。そこで同三日、元田が伊藤に意見を問い合わせた。元田自身も神祇官の再興には賛成であり、どうか早く賛成の「御明答」を下さいという手紙で、伊藤に懇願している(伊藤博文宛元田永孚書状、一八九〇年一〇月三日、『元田永孚関係文書』)。
 しかし翌日、伊藤は神祇官の再興に関し、閣議で決まり官職を制定することについては「当局の御原議」があるので、「局外之小臣」が何か汚いくちばしを入れるべきではないと考える旨を、土方宮相・吉井次官に回答する、と元田に返答した(元田永孚宛伊藤博文書状、一八九〇年一〇月四日、『元田永孚関係文書』)。実際伊藤は、神祇官を尊崇するのは当然のことであるので、さらに「愚見」を申し上げることはないと、土方宮相・吉井宮内次官に回答を拒否した。その上で、内閣で「深議」を尽くした上は、「御宸断」〔天皇の判断〕が下されるべきだと述べた(土方・吉井宛伊藤書状、一八九〇年一〇月四日、「吉井友実関係文書」、国立国会図書館憲政資料室所蔵)。
 伊藤は、下問に答えない形で、神祇官再興に反対の意思を示したのである。この結果、閣議で決まったにもかかわらず、神祇官再興は具体化しなかった。
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山県内閣の閣議で「内決」したことを伊藤の意向でひっくり返されたのでは山県も愉快ではなかったでしょうが、結局、山県も伊藤の判断を受け容れたことをどう評価すべきなのですかね。
山県は神祇官復興を希望していたけれども、同時期に伊藤とは対立の火種をいくつか抱えていたので、この問題は相対的に重要ではないとして事を荒立てるのを避けたのか、それとも山県自身も復古的な発想とは多少距離を置きたいと考える人で、伊藤の対応を見て「内決」が軽率だったと反省したのか。

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