学問空間

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「カール・レーフラー」を探して(その2)

2018-11-11 | 深井智朗『プロテスタンティズム─宗教改革から現代政治まで』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年11月11日(日)22時39分52秒

小出しにする理由もないので、続きも全部引用してみます。(p197以下)

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 レーフラーも、ニーチェのキリスト教批判がその矛先を向けているのは、カントの影響を受け、神を実践理性の要請として理解し、キリストの神性は宗教的な価値判断であると考えたリッチュル学派、とりわけヴィルヘルム・ヘルマン的なキリスト教の再構築にあると見ている。そこでは既に述べた通り、人間の意志が行う価値評価がキリスト教信仰の生みの母であると理解されているので、リッチュル学派はニーチェのキリスト教批判に対して完全に無防備であり、逆にこの神学に対してはニーチェのあらゆる価値の転倒というプログラムは完全な破壊力を持っていたというのである。つまりこの神学は、ニーチェの前提、すなわち宗教的言表は価値評価をする意志による決断であるという前提を基盤として成り立っているのであり、ただリッチュル学派はニーチェとは逆の結論を出しただけなのである。それ故にレーフラーはヴィルヘルム期に神学者たちをニーチェと共にトータルに否定することができたのである。
 ところがレーフラーは、このリッチュル学派の傾向は、リッチュルとヘルマン、そしてさらにはマルティン・ケーラーを経由してカール・バルトの神学の前提となっているというのである。バルトはこのような人間学的、心理学的な神学批判、あるいはニーチェのように意志としての主体性による神学批判を克服するために、神が語るという啓示の真理性、上からの、超自然的な神学の開始点を学としての神学の営みの中に確保しようとしたのであるが、実はこのような超自然主義的な神学が可能になるのは、バルトが神学において「信仰の決断」という一点を必死に確保しているからであり、そこにバルトの神学は土台を置いているからである。それ故にバルトの超自然主義的な思惟の中には、真理を意志に基礎付けたニーチェの考え方が既に前提とされているにもかかわらず、バルトはリッチュルを批判することでニーチェの問題から解放されたと考えてしまったのである。レーフラーによればそれは間違いなのである。
 バルトの神学はリッチュルの問題を克服することができなかっただけはなく、むしろそれはリッチュルの神学の先鋭化、あるいは帰結なのであり、リッチュルにおいてもバルトにおいても、実践的な要求が超自然的な真理へと飛躍する動機を与えているという点では同じことなのだという。バルトはそれを「信仰の決断」と表現しただけなのである。この線でニーチェを克服することはできないのであり、むしろバルトの神学そのものがニーチェの神学批判の標的であり、それによってその誤りが明らかにされるものであることが分かるとさえ言うのである。つまり、決断としての信仰がその内容の真理性にとって決定的になっているような神学では、ひとはニーチェの意志の形而上学の地平から自由になっていないのであり、ニーチェによってその欺瞞性が解明された教会的キリスト教宗教そのものがバルトであり、さらにはゴーガルテンの決断主義だということになるのである。それ故にバルトやゴーガルテンは共に、ニーチェがもっとも鋭く批判したキリスト教の姿であり、ニーチェの批判がそこで明らかになるような神学なのである。
 バルトは自らの神学的立場を確立するためにリッチュルを批判し、その過程で合わせてニーチェを批判した。ニーチェのリッチュル批判はまったく正しいと述べ、その後で神学を超自然主義によって開始することで、リッチュルとニーチェを抱き合わせで批判し、処理しようとしたのである。そこでなされていることは、ニーチェが正しかったのはリッチュルに対してであり、自らが再構築するキリスト教はそれとは別だという考え方である。
 レーフラーはそのニーチェを使ってバルトを批判したが、しかしその後でニーチェを否定することはしなかった。むしろ彼は、ニーチェはあらゆる時代の教会的なキリスト教に対して正しかったのであり、その意味でニーチェは真のキリスト教を知る者だと考えたのである。
 このように、この時代のニーチェの流行は、単なるキリスト教批判のためのニーチェの援用ではない。ニーチェ自身のキリスト教批判は既に述べた通りリッチュルとその学派の神学を標的にしたものであるが、この時代のニーチェの思想の利用は、同じ神聖フロント世代が、主流派に転向したかつての同志たちを批判し、その唾棄すべき行為を告発するために用いられたもので、適応範囲がきわめて明確に限定されているのである。それ故に、カトリックの神聖フロント世代のひとりエーリヒ・プシィヴァラは、転向したフロント世代に対して次のように述べたのであった。「似合わない服を着てキャヴァレーから出てきて舞踏会に出てみたが、踊っているうちに相手も自分も悪臭を放つ死体になっていることに気が付いていなかった。」かつての同志への批判である、彼らの思想に対する「弔辞」をあえて書いて、「私はニーチェの言葉を引用し、彼らの冥福を祈ることにしよう」とまで書いたのである。
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うーむ。
正直、私もきちんと理解しないまま文字を追っているだけなのですが、「カール・レーフラー」が実在しないのであれば、ここまでの分量を重ねて「捏造」する理由は何なのか。
小柳敦史氏の発端の書評や関係論文を読んでみたい気もしますが、不慣れな分野でもあり、年内はちょっと無理ですかね。
まあ、もう少しすれば東洋英和女学院の学内調査委員会の結論も出るでしょうけど。
それにしても、こうした事態になってみると、「似合わない服を着てキャヴァレーから出てきて舞踏会に出てみたが、踊っているうちに相手も自分も悪臭を放つ死体になっていることに気が付いていなかった」はずいぶん気味の悪い予言のような感じもします。
それと、「キャヴァレー」が cabaret のことであれば、「キャバレー」の方が良さそうですね。
どうでもいい話ですが。

https://en.wikipedia.org/wiki/Cabaret
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「カール・レーフラー」を探して(その1)

2018-11-11 | 深井智朗『プロテスタンティズム─宗教改革から現代政治まで』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年11月11日(日)21時56分18秒

深井智朗氏の件、ちょっとびっくりですね。

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東洋英和女学院院長に研究不正疑い 引用論文存在せず?

 学校法人・東洋英和女学院(東京都港区)が、学界や論壇で受賞を重ねる深井智朗(ともあき)院長の著書に「研究活動上の不正行為の疑いがある」として、学内調査委員会を設置することが9日わかった。深井氏が引用した神学者の論文の存在が確認できていないという。
 問題の著書は「ヴァイマールの聖なる政治的精神――ドイツ・ナショナリズムとプロテスタンティズム」(岩波書店、2012年刊行)。4ページにわたり、「カール・レーフラー」という名の神学者が書いたとされる論文「今日の神学にとってのニーチェ」に基づいて論考が展開されているが、当の論文の書誌情報は示されていなかった。【後略】

https://www.asahi.com/articles/ASLC972PYLC9UCLV013.html

この掲示板でも『ヴァイマールの聖なる政治的精神』に少し言及したことがありますが、私自身の関心は森鴎外の「かのやうに」に出てくるアドルフ・フォン・ハルナックという神学者について知りたいというだけのことだったので、「カール・レーフラー」が登場する部分は斜め読みで済ませていました。

五條秀麿の手紙(その1)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/35e6dcdccbb3df021601109a5670b320
五條秀麿の手紙(その2)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/749396dca7e34e24dd7faf3f62eba3aa
「かのやうに」とアドルフ・ハルナック
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/30c61f6e07014e1938162323f7670929
『ヴァイマールの聖なる政治的精神─ドイツ・ナショナリズムとプロテスタンティズム』
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/05c17e6a9f9523a67d4f569559ed713a

『ヴァイマールの聖なる政治的精神』を確認してみると、問題の「4ページにわたり、「カール・レーフラー」という名の神学者が書いたとされる論文「今日の神学にとってのニーチェ」に基づいて論考が展開されている」のはp196~199ですね。
同書の全体の構成は、

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プロローグ 聖なる政治的精神
――近代ドイツ・プロテスタンティズムの二つの政治神学
第1章 アドルフ・フォン・ハルナックとマックス・ヴェーバー
――世紀末の二人のリベラル・ナショナリスト
第2章 ゲオルク・ジンメルが見た転換期のドイツ神学
――ヴィルヘルム帝政期の国家神学とヴァイマールの神聖フロント世代の政治神学
第3章 学問の市場化としての「学問における革命」
――大学神学部と大学の外の神学
第4章 ニーチェは神学を救うのか
――ヴィルヘルム期からヴァイマール期の神学におけるニーチェの奇妙な流行
第5章 ヴァイマールの神聖フロント世代の殿を戦うディートリッヒ・ボンヘッファー
第6章 神聖フロント世代の両義的な政治精神
――パウル・ティリッヒとエマヌエル・ヒルシュにおける「民族的なもの」
エピローグ プロテスタンティズムとナショナリズム

https://www.iwanami.co.jp/book/b261288.html

となっていて、「第4章 ニーチェは神学を救うのか ヴィルヘルム期からヴァイマール期の神学におけるニーチェの奇妙な流行」は、

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1 「表現主義」批判としての「新即物主義」の時代
2 ニーチェのキリスト教批判はどのように解釈されるべきなのか
3 新即物主義の画家オットー・ディックス
4 ニーチェのキリスト教批判の神学的援用
5 神聖フロント世代における二つのニーチェ利用
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の五つの節に分れています。
問題の4頁は「4 ニーチェのキリスト教批判の神学的援用」ですね。
参考までに冒頭を少し引用してみると、

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4 ニーチェのキリスト教批判の神学的援用

 神学史のもうひとつの事例を取り上げてみよう。ヴィルヘルム期末期から既存の教会や神学への批判を繰り返していた『ディ・タート』誌に論文をしばしば投稿していた、ディックスと同年代の神学部外の神学者カール・レーフラーは、一九二四年に書かれた「今日の神学にとってのニーチェ」という論文の中で、ニーチェのキリスト教批判を分析した上で、今日のカール・バルトの神学はニーチェの批判したリッチュルの神学と同じ構造を持っているが故に、その批判を免れることはできず、ニーチェの批判によってカール・バルトの神学は消滅するという議論を展開している。レーフラーはかつて「パトモス・クライス」にさえ参加したバルトが、いつの間にかゲッティンゲン大学を皮切りに大学の教授となり、教義学大系に興味を持ち始めたということに疑念を持った神学者のひとりであった。彼自身は堅信礼教育における使徒信条の使用を拒否したために、牧師としての地位を剥奪され、自由キリスト者同盟という雑誌上の交流グループを一九二九年に立ち上げたひとりである。彼は神聖フロント世代のひとりであったが、二〇年代以降「転向」を果たした神学者たちの裏切りを批判した、フロントにとどまった神学者のひとりである。
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といった具合です。
このレベルの文章であれば「今日の神学にとってのニーチェ」には何らかの形で出典の明示が必須でしょうが、本文にも注記にも、それは見当たりません。
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松村敏「大正中期、諏訪製糸業における女工生活史の一断面」(その3)

2018-11-11 | 松沢裕作『生きづらい明治社会』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年11月11日(日)09時29分7秒

「表4 岡谷製糸「北部」工場の「帰国」女工のうち非再入場者の状況」の数字は不可解ですが、「また資料には、「逃走」などの理由の記載とともに「見込ナシ」「止」「他へ移動」(他工場へ移動の意)、「不従事」(他の製糸工場にも不就業の意)など追跡調査の結果が記されているものもある(表4)」(p34)となっているので、逃走者の合計から再入場者数を引き算した51名のうち、「追跡調査の結果が記されている」16名だけを集計した、ということですかね。
とすると、残りの35名、全体の約69%については工場側は特に追跡調査をせず、放置したのかな、という話になります。
そうであれば、表4は松村氏の説明とは逆に、「実家訪問など工場側の徹底的な追跡調査」が行なわれなかったことを示すものとなりそうです。
さて、松村氏は「逃走」の時期について、

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 「逃走」の時期をみると(表5)、4~5月と7~8月が多く、9月以降はかなり減少している。この意味するものは何か? 6月は「逃走」だけでなく全体として「帰国」する者が少なく、これは実家の養蚕・農事手伝いで帰省中の者が多いことで説明できよう。
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とされていて(p36)、ちょっと意味が取りにくかったのですが、これは5月のうちに「養蚕」51名、「農事」1名、更に「本人病気」15名、「家族病気」22名等で合計128名が「帰国」しており、その多くが6月には工場に戻って来ていなかった、ということですかね。
5月の「帰国」128名は合計480名の約27%で、突出して多いのですが、その反動が6月に現れているということのようですね。
松村氏は続けて、

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9月以降の減少に関しては、『生糸職工事情』(1901年調査)に、女工が他工場に転じようとする時期は募集の時期から「旧盆の頃」までで、その後はほとんど「争奪の弊害」は止むとある。その理由は「旧盆の頃には工女の収得すべき賃金は幾分か已に積れるが故に工女は容易に転場をなさざるによる」という。1918~20年頃の岡谷製糸でも、賃金支払い方法は実質的にはまだ年末払いの慣行が続いていたはずであるから、同様の事情があったといえよう。「逃走」するなら早い方が得なのであった。
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とされており、「賃金支払い方法は実質的にはまだ年末払いの慣行が続いていた」は、月払いが常識である現在からは少し分かりにくい話ですが、これは、注(2)に説明があり、

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(2)賃金支払い方法は、年末払い慣行が続いていたが、工場法施行により1919年9月以降は毎月払が義務づけられた。岡谷製糸でも、1919年度の本社工場の雇用契約書(市立岡谷蚕糸博物館蔵「橋爪家資料」)には、賃金について、「毎月壱回御支払被下候事但シ大正八年八月迄ノ分ハ年末閉業帰宅ノ際御清算ノ上御支払ヲ受クル事」と記されている。しかし寄宿工の場合、1919年9月以降も実際には直ちに貯金に振り替えられ、実質は変わらなかったといわれており(桂皋「本邦製糸業労働事情(三)」『社会政策時報』42号、1924年、115頁)、岡谷製糸本社工場も同様だったであろう。
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ということですね。(p49)
従って、会社側から見れば、「逃走」した者に対しては既に働いた分についても賃金の支払いを免れて得をする訳で、それは「逃走」時期が遅ければ遅いほど良い訳ですね。
また、「解雇」する必要がある程ではないにしても、細かい作業が求められる製糸労働に向かない人、寄宿舎での団体生活に向かない人は、会社から見ると早く出て行ってくれた方がありがたい訳で、特に3~5月くらいに「逃走」した人に「実家訪問など工場側の徹底的な追跡調査」が行なわれたかは疑問です。
「北部工場」の場合、雑に人を集めて「逃走」した人にも雑に対応し、それなりに有能な人は調査したけれど放置も結構多かった、くらいが実情だったではなかろうかという感じがします。
とにかく「北部工場」は168釜程度の規模なので、どこまで一般化できるのかという不安はつきまといますね。
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