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「お見捨てなく。」(by 本郷和人氏)

2015-12-04 | 増鏡
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2015年12月 4日(金)08時51分55秒

>筆綾丸さん
>編集者は少なくとも三人はいて、それぞれが別々に発言
本郷・西対談を読んだだけですが、私は名無しさんの発言に人格の一貫性を感じます。
事情を知らない読者から見ると、『哲学と歴史の対話』は名無しさんがずいぶんエラソーな発言を繰り返すヘンテコ対談集ですが、これも名無しさんと著者との間に特別な「友情」ないし信頼関係があってこそ、ではないですかね。
「おわりに」の末尾に、

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 それから、こうした場をプロデュースして下さった編集の山崎比呂志さんに、改めて感謝したいと思います。こう書くといつもと変わり映えがしないので自分の表現の拙さを恥じるばかりですが、本当にありがたく思っているのです。今後ともどうぞ宜しくお願いいたします。お見捨てなく。
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とあって、本郷氏がお礼を言っているのは山崎比呂志氏だけ、ということも傍証になりそうです。

>フッサールの生まれ変わりを自称
フッサールも変な人ですよね。
斎藤慶典氏『フッサール 起源への哲学』(講談社メチエ、2002)の「プロローグ 『頭の悪い』哲学者、フッサール」には次のようにあります。(p6以下)

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 私自身、現象学者の端くれとして、かれこれ二十年以上にわたってフッサールを読みつづけてきたわけだが(こんなことは別に自慢にも何にもならないが)、読めば読むほど思わずにいられないのは、自分のことを棚に上げれば、いったいこの人は何と不器用で、何と頭が悪いのか、ということなのである。彼の場合、その生前に刊行された著作の多くは、現象学とはこのような哲学ですよ、というプログラム的・綱領的なもので、個々の具体的で事象に即した記述と分析は(ここにこそフッサール現象学の真骨頂があるのだが)、そのほとんどが研究草稿のかたちで未公刊のまま、死後に残された。この膨大な数にのぼる研究草稿を読むとき(これは彼の没後六十年以上を経たいまでも『フッサール全集』《Husserliana》として刊行がつづいており、完結の目途すらたっていない)、ことさら先の「頭の悪い人だなあ」という感が強い。何でこんなものを読まなきゃならないのか、と思わずにはいられないのである─頼まれもしないのに読むほうが悪いのだが。
 もともとこれらの草稿は公刊を意図して書かれたものではなく、日々の哲学的営為の作業現場にほかならないことを割り引いても(ちなみにフッサール自身、現象学の基本的性格を「作業哲学〔アルバイト・フィロゾフィー〕」と呼んでいた)、その論述は行きつ戻りつを繰り返し、ときに脇道にそれ、ときに堂々めぐりに陥り、ときに突如として途切れ、飛躍し、……といった具合なのである。それでも彼にとってこうした研究草稿を書きつづけるとき、その思考はフル回転しているのであって、通常の正書法での記述では思考の展開に筆が追いつかず、それが為に彼はある種の速記法をマスターし、それでもって猛烈なスピードで草稿を書きつづけたほどなのである。だがそこには華麗で魅惑的な文体(たとえばニーチェのような)もないし、透徹した思考がもたらす鋭い洞察(たとえばヴィトゲンシュタインのような)もない。つまり、そこには天才的なひらめきは皆無なのであって、一言でいえば鈍重なのである。掘り出されたばかりの原石やら土くれやらがあちらにもこちらにもうずたかく積み上げられたまま、とぐろを巻いているかのようなのだ。【後略】
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「鈍重」はご丁寧にも太字になっています。
ま、もちろんこの後にはフッサールを哲学者として高く評価する記述が続く訳ですが、個人的にはこういう面倒な人に関わるだけの時間があれば何か別のことをやってみたいと思います。

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

テンノリアン 2015/12/01(火) 12:47:54
小太郎さん
『歴史と哲学の対話』を半分ほど読みました。

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本郷ーうーん、そうかもしれませんね。ただ、そこで問題になってくるのは、カンタベリー大司教は世襲ではないでしょう?
ーー世襲かどうかはどうでもいいでしょう。王権を承認する機能として、「構造」が同じではないか、という話なんですから。しかも王権と括弧つきの「聖性」との上下関係というか力関係も同じじゃないかと。どちらも、王権のほうが、すでに地位が高くなっていて。(84頁)
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対談者の発言をこうもあからさまに否定したら、これはもはや編集者の立場を逸脱していますね。本郷氏は、この野郎、とムッとしたのではないかな。じゃ、君が議論を続けろよ、と。
編集者は少なくとも三人はいて、それぞれが別々に発言しているため無記名とせざるをえず、とりあえず傍線で代表させた、というような事情なんでしょうね。あるいは、この無記名の傍線は対談者のための補助線なんだよ、と己惚れているのかもしれません。

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ーー権力は握ったとしても、その正当性を認証してくれる「機関」がやはり必要になってくる。それで秀吉は、そういう「機関」として天皇を使ったということではないでしょうか。(78頁)
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編集者Xのこの発言は、戦前の「天皇機関説」などを意識したものなんでしょうが、うるせえな、という感じですね。
66頁以降は国家と権力の話で、正統性と正当性という言葉が頻出するのですが、正確に使い分けられていない印象を受けました。編集者は、こういうところこそ注意すべきなんですが、対話に補助線を引くことに夢中で、散漫になっているのかもしれません。
水林彪氏の著書に、マックス・ヴェーバーをめぐり、丸山真男は正統性と正当性に関して誤訳している、というような記述があることを思い出しました。

前半の対談ははじめの方にフッサール現象学の話が少し出てくるものの、あとはホッブスとロックとルソーを中心にした歴史の話で、ほとんど哲学の香りがせず、期待が外れました。
いちばん面白かったのは、本郷氏の「テンノリアン」という造語です。Tennorian と綴るのでしょうが、Tennoriant と綴れば(発音は同じ)、微笑む天皇、を含意し、Tennorien と綴れば、無の天皇、を含意します。後者の Tennorien はバルトの空虚の中心をも含意できるかもしれません。

これから、後半の対談を読みます。
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