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林太中(はやし・たちゅう)について

2016-02-23 | グローバル神道の夢物語

投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2016年 2月23日(火)10時06分38秒

土井了宗・金龍教英著『目でみる越中真宗史』(桂書房、1991)に佐田介石が本山に送った報告書の内容が紹介されているので、その部分を引用してみます。(p148)

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 一方、両本願寺からは松本厳護(東派)、佐田介石(西派)が実情調査のために派遣されている。このことについては「越中国諸記」(西本山と末寺との往復書状を書き留めたもの・西本山蔵)に介石の報告書状が数通収められている。介石はそのなかで、「今日の富山藩の勢、筆紙に尽し難し、十万石高に候へとも仏式兵隊七大隊相揃へ、もし人気動揺つかまつり候はば、それを幸いとして、一時に滅寺つかまつる覚悟の手当に相成り─中略─たとい藩を相手取、合寺は開きども、藩を怒らせ藩の憎みを蒙り候て、如何たち行き申すべきや、今日の寺院寮、徳川家の寺社奉行と雲泥いたし候へば、寺院寮を当に致し藩の事を讒し候はば、富山合寺所へ毒害いたすも同様にてござ候」と報じている。大洲鉄然・島地黙雷らが寺院寮へ掛け合っていることに対し、富山藩は小藩なれども、フランス式兵隊を七大隊も擁し、下手な手出しをすれば滅寺にもなりかねない。寺院寮や、寺社奉行とは大違いと強い口調で述べている。大洲らと意見を異にした介石は結局京都に呼びもどされた。
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この後、「東派・西派の割合」で引用した「この時、帰俗を望む者には、元の建物(庫裏)・跡地を与えるとの「触」があった」という文章に続きます。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/3365389aafdc7e8376a99e4567c23b2a

「寺院寮や、寺社奉行とは大違い」とありますが、「今日の寺院寮、徳川家の寺社奉行と雲泥いたし候へば」は、現在の寺院寮は江戸時代の寺社奉行とは全然異なって、寺社奉行のような強い権限はないから寺院寮を頼りにしてはいけない、と読むべきではないですかね。
ま、それはともかく、佐田介石(1818-82)の報告書を読むと、佐田はまるでミイラ取りがミイラになったような有様ですが、これでは高杉晋作の奇兵隊に参加し、第二次長州征伐に際しては僧侶を集めた部隊を組織して陣頭指揮した大洲鉄然(1834-1902)や、大洲鉄然ほどの武闘派ではないにしろ、一時は自ら武装した島地黙雷(1838-1911)から見れば、何を生ぬるいことを言っているのか、という感じになりそうですね。
ただ、林太仲による富山藩の兵制改革は相当本格的なものだったようで、検索してみると「近世越中国のお話」というブログにその概要が紹介されています。

「近世越中国のお話 ②西洋式藩兵の編成」
http://ettyuutoyama.seesaa.net/pages/user/m/article?article_id=3145764

また、林太仲は三十そこそこの若年とはいえ、凄絶な藩内闘争を勝ち抜いた辣腕家だったようですね。
富山市郷土博物館サイトにも、藤田呉江という画家の業績を紹介する中で、藩政改革のために家老を暗殺した林太仲らのグループの活動に触れています。

「富山藩人物帳 藤田呉江」
http://www.city.toyama.toyama.jp/etc/muse/tayori/tayori48/tayori48.htm

林太仲についてもう少し詳しく知りたいのですが、太仲の養子に浮世絵を海外に売りまくった画商の林忠正(1853-1906)がいるそうなので、この人が手がかりになりそうです。

「クールジャパン列伝 林忠正」
http://www.apparel-web.com/column/kurita/vol_13.html

コメント
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