学問空間

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和知の場面の英訳(その1)

2014-10-12 | 南原繁『国家と宗教』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2014年10月12日(日)20時12分38秒

『日本中世の領主一揆』全体の中では『とはずがたり』に関する部分などどうでも良い話で、私も別に呉座氏の「中世人の名誉観念に関わる問題」の一般論に疑問を抱いている訳ではなく、『とはずがたり』を基礎に論じるのはどんなものかなあ、と考えているだけです。
また、私にとって『とはずがたり』全体の中では和知の場面などどうでも良い話だったのですが、何故か歴史研究者の琴線に触れる要素があるらしいので、少し丁寧に検討してみようかな、と思います。
さて、久しぶりに『とはずがたり』の注釈書をいくつかめくってみて、ついでに「下人」は英訳ではどうなっているのだろうと思ってカレン・ブラゼル氏の The Confessions of Lady Nijo を見たら、まあ、これは servant でしたね。
ついでのついでですが、『とはずがたり』に興味を持っていても英訳までは調べていない人が多いと思うので、参考までに和知の場面を紹介してみます。
カレン・ブラゼル氏の翻訳は1973年にスタンフォード大学出版会から出ていて、日本で『とはずがたり』のまともな注釈書が出始めてから間もなくですから、時期的にはずいぶん早いですね。


The Confessions of Lady Nijo
http://www.sup.org/book.cgi?id=2484

-----------
 Toward the end of the eleventh month I was happy to learn of a ship bound for the capital, but no sooner had we embarked than a heavy sea with high winds, snow, and hail made progress difficult, and I was in a state of terror. When we put ashore I inquired about Bingo province, and upon being told it was nearby, I disembarked at once and set out for the home of the lady I had met earlier on board the ship to Itsukushima, following her writen directions to Wachi. The first several days I spent there passed pleasantly enough for me, except that there were four or five cruelly overworked men and women whom the master abused almost every day. It was more than I could stand to watch. What kind of place was this? I also learned that the men used falconry to kill large numbers of birds, and that they hunted down wild animals as well, so heavy was their evil karma.

falconry:鷹狩
evil karma:悪業深重

 The lay priest Hirosawa Yoso, who was closely connected with the Kamakura government, sent word that he would visit here on his way to Kumano Shrine, whereupon the household, and indeed the entire district, went into a flurry of preparations. The master of the house where I was staying wanted a picture painted on a screen he had had covered with silk, and without really considering it, I said that if I had the proper materials I would be glad to paint the screen. Everything I needed was available in Tomo, I was assured, and a servant was sent to fetch it. I began to regret my offer, but seeing no way out of it, when the materials arrived I did the painting. The master expressed his delight and added, "You must settle down here," which seemed even at the time to be a strange remark.

lay priest:(直訳すれば「俗人の聖職者」)入道
※原文では「今は、これに落ちとゞまり給へ」と敬語を用いている部分、"You must settle down here," となっている。

 During his elaborate welcome, the lay priest noticed my painting. "Such skill is not usually found in the countryside. Who is the artist?" he asked.
 "Someone staying here," was the reply.
 "I suppose she can also write poetry. It would be a pleasure for me to meet such an accomplished person."
 Uneasy at the thought of meeting him, I suggested we could have a more leisurely visit on his return from Kumano, and I fled in confusion.

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「法人格」

2014-10-12 | 南原繁『国家と宗教』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2014年10月12日(日)10時03分36秒

>筆綾丸さん
神田千里氏の『織田信長』、読んでみたいと思います。

筆綾丸さんが10月5日の投稿で触れられている「法人格」ですが、法律の世界でも「権利義務の帰属主体であって自然人以外のもの」程度の意味で用いるのが普通なので、私は呉座氏の表現に特に違和感は抱きませんでした。
<「北方一揆」という集団は、一揆全体として一個の直勤御家人(幕府直臣)=国人に匹敵する身分を有していたと考えられる>(p43)のであれば、適切な用法だと思います。
他の歴史学者も、例えば「村請制」に関して「村」が法人格を有していた、といった説明をする人は多く、呉座氏はオーソドックスな表現を用いているだけみたいですね。

ちなみに呉座氏が批判している「中世後期の在地法秩序に関する再検討─肥前松浦党一揆を素材にして」(『法制史研究』44号、1994)の著者・西村安博氏は現在は同志社大学教授だそうですね。

--------
鳥取市生まれ。鳥取西高校卒業。九州大学法学部(法律専攻)、九州大学大学院法学研究科修士課程・博士課程(基礎法学専攻)に学ぶ。日本法制史について石塚英夫、植田信廣両教授の指導を仰ぐ。九州大学法学部助手、新潟大学法学部助教授等を経て、2003年4月、同志社大学法学部助教授に着任、2005年4月より同教授。博士(法学、九州大学)。

呉座氏は「第三章 松浦一揆研究と社会集団論」の注(20)で、

---------
そもそも一揆の法を形式的な「スローガン」にすぎないと評価する西村氏が、一揆の押書状から"反対解釈"を導き出すのは論理矛盾ではないだろうか。一揆の法が単なるスローガンなら、その条文が近代法的な厳密さを備えているはずがない。西村氏は近代的な法概念を中世社会に持ち込んでいるように思えてならない。
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と書いていますが、まあ、これは呉座氏の言われる通りなのでしょうね。

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

the most ungraspable human destinies 2014/10/10(金) 16:18:36
小太郎さん
「さても、不思議なりし事はありしぞかし。この入道下り会はざらましかば、いかなる目にか遭はまし。「主にてなし」と言ふとも、たれか方人もせまし。さるほどには、何とかあらましと思ふより・・・」という文がまた曲者であって、
http://www.bbc.com/news/entertainment-arts-29553516
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The academy said the award was "for the art of memory with which he has evoked the most ungraspable human destinies and uncovered the life-world of the occupation".
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本年度ノーベル文学賞の授賞理由「the most ungraspable human destinies」と似ていなくもなく、二条の下人論は事実なのか、あるいは、ただの the art of memory にすぎないのか・・・歴史研究者が誑かされているのでなければ良いのですが。

http://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480067890/
神田千里氏の『織田信長』を読み終わりました。
信長はサン=テグジュペリ『星の王子さま』冒頭の箱の絵の中のヒツジのようなものだ、と神田氏は言われますが、信長と Le Petit Prince は意表を突く組み合わせですね。
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信長はいわば、頑丈な観念の「箱」に入っているといってよい。様々な学問上の成果の登場にもかかわらず、信長の「箱」は牢固として健在なのが現状である。(14頁)
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そして「本当の」織田信長は、この観念の中に収まっているわけではなく、実をいえば厖大な史料の集積という、外から見ただけでは分からない「箱」の中に入っている。こちらの方が信長の「本当の箱」なのである。「箱」の中の人物はどんな人だったのか、納得のいくまで調べようとするならば、「王子さま」がやったように自分で穴から覗く、すなわち史料を自力で読んでみる他ない。(229頁)
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http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%B4%E3%82%A9%E3%83%A9
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%9C%E3%83%A9%E5%B7%9D
『日本通信』(1598年)が出版されたポルトガルのエヴォラは Evora で(232頁)、コンゴの Ebola 川とは何の関係もないのですね。

信長が義昭に宛てた「十七箇条の諫言」(48頁~)は、聖徳太子の「十七条憲法」の駄洒落ではあるまいか、とふと思い、なんだか大発見のような気がしました。

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第一日本で当毛利家と和睦すれば平和になるのですから、天下を握っておられる方にとって、上分別というものでしょう<第一日本に当家一味に候へば、太平になり行く事に候条、天下持たれ候上にての分別には尤もに候>。(133頁)
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この「日本」は日本六十余州のことで、天下を五畿内に限るとすれば、天下⊆日本という理解で良いのでしょうね。
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『とはずがたり』の和知の場面(その2)

2014-10-10 | 南原繁『国家と宗教』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2014年10月10日(金)09時40分50秒

続きです。

-------
 この主、事のやう言ひて、「よしなき物参り人ゆへに、兄弟仲ひぬ」と言ふを聞きて、「いと不思議なる事なり」と言ひて、「備中の国へ、人を付けて送れ」など言ふもありがたければ、見参して、事のやう、「能は仇なる方もありけり。御能ゆへに、欲しく思ひまいらせて、申けるにこそ」と言ひて、連歌し、続歌など詠みて遊ぶほどに、よくよく見れば、鎌倉にて飯沼の左衛門が連歌にありし者なり。その事言ひ出して、ことさらあさましがりなどして、井田といふ所へ帰りぬ。雪いと降りて、竹簀垣といふ物したる所のさまも、慣らはぬ心地して、

 世を厭ふならひながらも竹簀垣憂き節々は冬ぞ悲しき

 年も返りぬれば、やうやう都の方へ思ひ立たむとするに、余寒なを烈しく、「船もいかゞ」と面々に申せば、心もとなく、かくゐたるに、如月の末にもなりぬれば、このほどと思ひ立つよし聞きて、この入道、井田といふ所より来て、継歌など詠みて、帰るとて、餞など、さまざまの心ざしをさへしたり。これは、小町殿のもとにおはします中務の宮の姫君の御傅なるゆへに、さやうのあたりをも思ひけるにやとぞおぼえ侍し。
 これより、備中、荏原といふ所へまかりたれば、盛りと見ゆる桜あり。一枝折りて、送りの者に付けて、広沢の入道につかはし侍し。

 霞こそ立ち隔つとも桜花風のつてには思ひをこせよ

二日の道を、わざと人して返したり。

 花のみか忘るゝ間なき言の葉を心は行て語らざりけり

 吉備津宮は都の方なれば、参りたるに、御殿のしつらいも社などはおぼえず、やう変はりたる宮寺体に、几帳などの見ゆるぞ珍しき。日も長く、風おさまりある頃なれば、ほどなく都へ帰り侍ぬ。
 さても、不思議なりし事はありしぞかし。この入道下り会はざらましかば、いかなる目にか遭はまし。「主にてなし」と言ふとも、たれか方人もせまし。さるほどには、何とかあらましと思ふより、修行も物憂くなり侍て、奈良住みして、時々侍。
-------

ということで、この後は東二条院崩御の場面に続くので、和知の一件は嘉元元年(1303)から二年(1304)にかけての出来事だったことになりますね。

『とはずがたり』巻五「帰洛、東二条院の病と死を聞く」

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『とはずがたり』の和知の場面(その1)

2014-10-09 | 南原繁『国家と宗教』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2014年10月 9日(木)23時35分34秒

『とはずがたり』の和知の場面に言及しているサイトはいくつかありますね。

『備後山城風土記』
http://blogs.yahoo.co.jp/rokutopuu19551219/6337691.html
『武家家伝』・和知氏
http://www2.harimaya.com/sengoku/html/wati_k.html

ただ、原文を紹介しているサイトはないようなので、参考までに『新古典文学大系 とはずがたり・たまきはる』(岩波書店、1994)から引用してみます。(p219以下)

--------
 とかくするほどに、霜月の末に成にけり。京への船の便宜あるも、何となくうれしくて、行くほどに、波風荒く、雪、霰しげくて、船も行きやらず。肝をのみつぶすもあぢきなくて、備後の国といふ所を尋ぬるに、こゝにとゞまりたる岸より程近く聞けば、下りぬ。船の内なりし女房、書き付けて賜びたりし所を尋ぬるに、ほど近く尋会ひたり。
 何となくうれしくて、二三日経るほどに、主がありさまを見れば、日ごとに男、女を四五人具し持て来て、打ちさいなむありさま、目も当てられず。こはいかにと思ふ程に、鷹狩とかやとて、鳥ども多く殺し集む。狩とて、獣持て来るめり。大方、悪業深重なる節、鎌倉にある親しき者とて、広沢の与三郎入道といふ者、熊野参りのつゐでに下るとて、家の中騒ぎ、村郡の営みなり。
 絹障子を張りて、絵を描きたがりし時に、何と思ひ分く事もなく、「絵の具だにあらば、描きなまし」と申たりしかば、「鞆といふ所にあり」とて、取りに走らかす。世に悔しけれども、力なし。持て来たれば、描きぬ。喜びて、「今は、これに落ちとゞまり給へ」など言ふも、おかしく聞くほどに、この入道とかや来たり。大方、「何とがな」ともてなすに、障子の絵を見て、「ゐ中にあるべしともおぼえぬ筆なり。いかなる人の描きたるぞ」と言ふに、「これにおはしますなり」と言へば、「さだめて歌など詠み給ふらん。修行の習ひ、さこそあれ。見参に入らん」など言ふもむつかしくて、熊野参りと聞けば、「のどかに、この度の下向に」など言ひまぎらかして、立ちぬ。
 このつゐでに、女房二三人来たり。江田といふ所に、此主の兄のあるが、娘よすがなどありとて、「あなたざまをも御覧ぜよ。絵のうつくしき」など言へば、この住まひも余りにむつかしく、「都へは、この雪にかなはじ」と言へば、年の内にありぬべくやとて、何となく行たるに、この和知の主、思ふにも過ぎて腹立ちて、「我年頃の下人を逃がしたりつるを、厳島にて見つけてあるを、又江田へかどはれたるなり。打ち殺さむ」などひしめく。とは何事ぞと思へども、物おぼえぬ者は、「さる中夭にもこそあれ。な働きそ」など言ふ。
 この江田といふ所は、若き娘どもあまたありて、情けあるさまなれば、何となく、心とゞまるまではなけれども、先の住まひよりは心延ふる心地するに、いかなる事ぞと、いとあさましきに、熊野参りしつる入道、帰さに又下りたり。
「これに、かかる不思議ありて、我下人を取られたる」よし、わが兄を訴へけり。此入道は、これらが伯父ながら、所の地頭とかやいふ者なり。「とは何事ぞ。心得ぬ下人沙汰かな。いかなる人ぞ。物参りなどする事は、常の事なり。都に、いかなる人のおはすらん。恥かしく、かように情けなく言ふらん事よ」など言ふと聞くほどに、これへ又下るとて、ひしめく。

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「中世人の名誉感情に関わる問題」(by呉座勇一氏)

2014-10-09 | 南原繁『国家と宗教』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2014年10月 9日(木)22時30分4秒

>筆綾丸さん
呉座氏もけっこう大きな問題の一環として和知の場面に注目されているようですね。
筆綾丸さんが既に引用された箇所の直前の文章、念のため確認しておくと、

------
 最後に、本章の主要な議題の一つであった「人返」協約について補足しておきたい。従者に関する「人返」協約が結ばれる原因としては、元の主人(本主人)と現在の主人(当主人)との間で従者の帰属をめぐる争いが多発していたことがあげられる。こうした主人権をめぐる争いには、既述の通り政治的・経済的・社会的な背景があるが、より根源的な問題が潜んでいることも無視できない。それは中世人の名誉観念に関わる問題である。
------

という具合ですが、うーむ。
確かに『とはずがたり』には「下人」という表現が出てきますが、それは兄弟喧嘩の中での理不尽な悪口の一部であって、実際には二条はおよそ「下人」ではないですからねー。
注(1)を見ると、

-----
(1)これまでの研究により、当時の史料に見える従者(武家奉公人)は三つの階層に分類できることが明らかにされている。最上位は「被官」で、「内者」「郎従」「悴者」「若党」などとも呼ばれる。彼らは有姓で侍身分を有し、みずから同名や従者を従えてイエを形成している。次が「中間」で、「僕従」「小者」などとも表現される。彼らは無姓・凡下である。最下位が「下人」で、「中間」よりも身分が低く隷属性が強い。(後略)
-----

ということで、「下人」は無姓・凡下の「中間」より更に下の非常に隷属性が強い従者ですが、最上級貴族の出自を誇り、芸術的才能に溢れたお客様として短期間滞在しているだけの二条は、およそ「下人」とは程遠い存在ですね。
まあ、永原慶二氏の<在地領主の「家」権力>論ほどトンチンカンな印象は受けませんが、「従者(武家奉公人)」、特に「下人」でないことが明らかな二条の「日記文学」(私見では自伝風の小説)における冒険譚を基礎として「より根源的な問題」=「中世人の名誉感情に関わる問題」を論じるのは些か乱暴な感じがします。

※追記
引用部分を再掲しておきます。

---------------
鎌倉後期の宮廷女房が著わした日記文学『とはずがたり』には、作者が備後国和知郷の地頭代官和知氏の家に泊まっていたが、のちに和知氏の兄の家に移ったところ、和知氏が「年来の下人に逃げられ、しかも兄にかどわかされた」と怒り、兄弟喧嘩に発展した、という有名な逸話が見える。先行研究は、仮初めに宿泊した者を下人とみなす和知氏の認識に注目し、在地領主層のイエ支配権(家父長権)の強大さを説いている。だが兄との対決をも辞さない和知氏の激昂ぶりからは、自分の支配下にあった者に逃げられることは恥辱である、という意識も読み取れるのではないだろうか。被保護者=従者にしてみれば単なる”移動”のつもりでも、保護者=主人側には”逃亡”と映るのは、そのためである。
したがって従者の主人権をめぐる争いは、従者に逃げられたことを屈辱と感じる本主人と、まだ短期間の主従関係とはいえ一度扶持した者を手放しては沽券に関わると考える当主人という、双方の面子のかかった戦いであり、ゆえに平和的な解決は難しかったのである。(『日本中世の領主一揆』280頁)
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※筆綾丸さんの下記二つの投稿へのレスです。

日記文学 2014/10/06(月) 21:09:38
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鎌倉後期の宮廷女房が著わした日記文学『とはずがたり』には、作者が備後国和知郷の地頭代官和知氏の家に泊まっていたが、のちに和知氏の兄の家に移ったところ、和知氏が「年来の下人に逃げられ、しかも兄にかどわかされた」と怒り、兄弟喧嘩に発展した、という有名な逸話が見える。先行研究は、仮初めに宿泊した者を下人とみなす和知氏の認識に注目し、在地領主層のイエ支配権(家父長権)の強大さを説いている。だが兄との対決をも辞さない和知氏の激昂ぶりからは、自分の支配下にあった者に逃げられることは恥辱である、という意識も読み取れるのではないだろうか。被保護者=従者にしてみれば単なる”移動”のつもりでも、保護者=主人側には”逃亡”と映るのは、そのためである。
したがって従者の主人権をめぐる争いは、従者に逃げられたことを屈辱と感じる本主人と、まだ短期間の主従関係とはいえ一度扶持した者を手放しては沽券に関わると考える当主人という、双方の面子のかかった戦いであり、ゆえに平和的な解決は難しかったのである。(『日本中世の領主一揆』280頁)
---------------
以上は、「第七章 領主の一揆と被官・下人・百姓」の末尾の記述ですが、この章だけ重要な引用史料が「日記文学」で、他の章と比べると、非常に異質なものがあります。
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/90a74e07e5f92655c5dcc2c04cbd5919
以前、小太郎さんが仰っていましたが、「後深草院二条のような女の証言」はどこまで信用が置けるのか、危惧を覚えますね。『とはずがたり』の記述から恥辱(屈辱)というようなものを導き出せるものなのかどうか・・・。

京都に大学がなかった頃の話 2014/10/08(水) 17:32:21
小太郎さん
『とはずがたり』の和知一族の話は、恥ずかしい話ですが、今だによく理解できないんですよ。

http://www.iwanami.co.jp/hensyu/sin/sin_kkn/kkn1409/sin_k787.html
高橋昌明氏の『京都〈千年の都〉の歴史』をパラパラ捲ると、次のような記述がありました。
----------------
千本通丸太町上ル西側奥には内野児童公園がある。その一角に「大極殿遺址」と刻まれた石碑が立つ。立派な台座をともなう堂々たる碑である。遷都千百年記念事業として京都市参事会が建てたもの。
この場所を大極殿の跡地と比定したのは、在野の歴史家である京都府の役人湯本文彦で、平安京のことや桓武天皇の事績、および京都市の沿革・歴史を記した『平安通志』全二〇冊は、彼が発議し編纂主事となって、一八九五年、京都市参事会によって刊行された。わずか二年で完成できたのは、湯本の豊かな学識と、江戸後期以来進められてきた京都研究の蓄積、編纂に協力した田中勘兵衛(号教忠)・碓井小三郎ら、これまた在野の学者たちの力による。田中教忠は古文書・古典籍の収集家・考証家として知られ、平安神宮の造営は彼の提案にもとづく。碓井小三郎は、京都の名所・旧跡・伝説等の研究・保存に尽力し、二〇年かけて京都の地誌『京都坊目誌』を完成させるなど、故実家として知られる。(20頁~)
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http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B8%9D%E5%9B%BD%E5%A4%A7%E5%AD%A6
http://www.pref.kyoto.jp/dezi/data/index3.html
https://www.city.kyoto.jp/somu/rekishi/fm/nenpyou/htmlsheet/toshi30.html
1895年と言えば、日本全国において(帝国)大学は東京にあるだけで京都には(帝国)大学がない時であるから、そんな時代の「在野の歴史家」とか「在野の学者たち」とは何なのか、よくわからないものがあります。京都府立総合資料館が「アカデミズム」の以前と以後というふうに分けているのも面白く、アカデメイアの豹変には私塾長の君子プラトンも驚いているかもしれませんね。
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田沼睦氏「『とはずがたり』の下人史料」

2014-10-07 | 南原繁『国家と宗教』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2014年10月 7日(火)23時36分36秒

>筆綾丸さん
呉座氏が言及されている「先行研究」とは永原慶二氏の見解ですが、永原氏が『とはずがたり』のような奇妙な「史料」を<在地領主の「家」権力>論を基礎づけるために用いたことは氏の研究者人生における汚点と言っても良いように思います。
<在地領主の「家」権力>論自体もドイツの理論を形式的に日本中世にあてはめただけのような感じがしますが、若手の研究者はどのような評価をしているのか、ちょっと気になりますね。

ちなみに「下人史料」という観点から『とはずがたり』に最初に着目した歴史研究者はおそらく田沼睦氏(宮内庁・筑波大学)で、『中世後期社会と公田体制』(岩田書院、2007)には「『とはずがたり』の下人史料」という1969年の論文が再掲されています。
田沼氏が『永原慶二の歴史学』(永原慶二追悼文集刊行会編、吉川弘文館、2006)に寄せたエッセイを見ると、若い頃の田沼氏は永原氏の荘園調査に同行するなどしていたそうなので、謹厳な永原氏に、こんな面白い「下人史料」がありますよ、と御注進したのはどうも田沼氏みたいですね。

『永原慶二の歴史学』

『中世後期社会と公田体制』

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

日記文学 2014/10/06(月) 21:09:38
---------------
鎌倉後期の宮廷女房が著わした日記文学『とはずがたり』には、作者が備後国和知郷の地頭代官和知氏の家に泊まっていたが、のちに和知氏の兄の家に移ったところ、和知氏が「年来の下人に逃げられ、しかも兄にかどわかされた」と怒り、兄弟喧嘩に発展した、という有名な逸話が見える。先行研究は、仮初めに宿泊した者を下人とみなす和知氏の認識に注目し、在地領主層のイエ支配権(家父長権)の強大さを説いている。だが兄との対決をも辞さない和知氏の激昂ぶりからは、自分の支配下にあった者に逃げられることは恥辱である、という意識も読み取れるのではないだろうか。被保護者=従者にしてみれば単なる”移動”のつもりでも、保護者=主人側には”逃亡”と映るのは、そのためである。
したがって従者の主人権をめぐる争いは、従者に逃げられたことを屈辱と感じる本主人と、まだ短期間の主従関係とはいえ一度扶持した者を手放しては沽券に関わると考える当主人という、双方の面子のかかった戦いであり、ゆえに平和的な解決は難しかったのである。(『日本中世の領主一揆』280頁)
---------------
以上は、「第七章 領主の一揆と被官・下人・百姓」の末尾の記述ですが、この章だけ重要な引用史料が「日記文学」で、他の章と比べると、非常に異質なものがあります。
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/90a74e07e5f92655c5dcc2c04cbd5919
以前、小太郎さんが仰っていましたが、「後深草院二条のような女の証言」はどこまで信用が置けるのか、危惧を覚えますね。『とはずがたり』の記述から恥辱(屈辱)というようなものを導き出せるものなのかどうか・・・。
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白井聡氏の軍事知識

2014-10-05 | 南原繁『国家と宗教』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2014年10月 5日(日)12時11分2秒

>筆綾丸さん
『日本中世の領主一揆』は面白いですよ。
タイトルから予想したのとは違って同書の中心は法制史なのですが、呉座氏は法的なセンスが非常に良い人だなと思いました。
「一揆」という基本概念に執拗にこだわって論理的にゴリゴリ攻め続ける一方で、新しい法秩序が生成されて行く曖昧な領域をふわっとうまく包み込む柔軟さもありますね。

>白井聡氏の「永続敗戦論 戦後日本の核心」
検索したら、ご本人が「永続敗戦論からの展望」という文章を書いていました。

--------
 私はここに、日本人の生物としての本能の破壊を見る。しかも、原子力がこれだけの不祥事を起こしてしまった、「王様は裸だ」と誰もが知ってしまったのに、いまだに原発批判はかなりの程度タブーであり続けている。芸能界はその典型である。大学も大差はない。財界については言うに及ばず、脱原発を掲げる経営者もそれなりの数がいるものの、経団連をはじめとする主流派は、臆面もなく引き続きの推進を求めている。つまり、腐敗しているのは国家だけではない。市民社会もまた同じである。
 「三・一一以後の光景」を体験してわかったのは、この国の国民は奴隷の群れだということだ。このことがわかったとき、震災前から考えてきたことと震災後の光景が一貫したものとしてつながった。「敗戦」を「終戦」と呼び変えることによって、一体何が温存されたのかが見えてきた。
 あの戦争の時代、国民は全体として軍国支配層の奴隷にされたわけだが、その構造は基本的なところで持続してきたということが見えてきた。このことは、大部分の日本人にとって、主に冷戦構造と戦後日本の経済的成功のおかげで見ないで済むようになっていた。この構造を私は「永続敗戦」と名づけた。敗戦の事実を誤魔化しているがゆえに、敗戦をもたらした体制が延々と続いている。


まあ、これだけ読めば『永続敗戦論』は買わなくてよいかな、と思います。
全体的に語彙が幼稚で、子供が「王様は裸だ」と叫ぶのはけっこうですが、その子自身もパンツをはいていない感じがしますね。
ツイッターで私がフォローしている人が白井聡氏の軍事知識に疑問を呈していましたが、国際政治を論じる若手論客に軍事知識が乏しいのは困ったものです。

「人の心」を巡る現代戦争

>井上安代氏の『豊臣秀頼』
これは私家版みたいですね。
霞会館の『平成新修旧華族家系大成』を見ると、大正6年生まれの井上光貞氏には翌7年生まれの元勝・元廣という双子の弟がいて、元勝氏の夫人が和代(やすよ)氏なんですね。

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

Grand Maître 014/10/02(木) 17:18:44
小太郎さん
『日本中世の領主一揆』は、以前、パラパラ眺めただけですが、呉座勇一氏は今最も注目される中世史研究者の一人なのでしょうね。この掲示板で、御座候さんの切れ切れの感想を読んでいた頃は、そういう感じはしなかったのですが。

『筧克彦翁のいとも質素なる時祷書( Les Très Modestes Heures du Grand Maître KAKEI,K.)』の modeste を pauvre(≒ poor)にすると、意味がまるで違ってしまいますね。

白井聡氏の「永続敗戦論 戦後日本の核心」も、かなり売れているようですね。

以前、『酒井忠清』(人物叢書)と『江の生涯』(中公新書)と『淀殿』(ミネルヴァ日本評伝選)を読んで、福田千鶴氏をずっと男性だと思ってました。お江や淀殿への思い入れから推察できそうなもんですが、なんとも間抜けな話ではあります。

秀頼の書が語るもの 2014/10/03(金) 23:20:33
http://www.yoshikawa-k.co.jp/book/b182062.html
福田千鶴氏の『豊臣秀頼』を読了しましたが、残念ながら、秀頼像はいまひとつ明確ではないな、と感じました。
福田氏の秀頼像が生き生きとしてくるのは、二条城における家康との会見直後の書状(『豊臣秀頼自筆披露状』京都大学総合博物館所蔵)の解釈で、これは家康への挑戦状であとして書札礼の分析をされているのですが(153頁~)、末尾の宛所に相当するするのはあくまで「大御所御方にて誰にても御披露」であって大御所自身ではないのだから、この披露状がやや敬意を欠くようにみえても別段不思議ではないのではないか、と思われました。大御所御方の内の誰かに対して秀頼が対等の敬意を表わしたら、かえって可笑しくなるのではないか。福田氏は言及されていませんが、文中の「恐々謹言」は、相手が大御所自身であれば「恐惶謹言」くらいになるはずですが、大御所御方の内の誰かであれば、「恐々謹言」で充分のように思われます。福田氏の披露状についての解釈は何か違うような気がしますが、書札礼に関する私の知識が単に欠落しているだけなのかもしれません。
「ここで秀頼が家康に本気で詰めの勝負に挑む決意をさせてしまい、三年後の大坂冬の陣の引き金を大きく引いてしまったことは、若気の至りとはいえ、爪を隠し通せなかった秀頼の勇み足だったといえなくもない」(161頁)
とあるのですが、秀頼はそれほど不用心だったのだろうか。

秀頼自筆の神号(『豊國大明神 秀頼八才』)ですが、わずか八才(数え年)で、これほど雄渾な字を書くとは、凄いものだと思いました(139頁)。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%9F%E6%96%B9%E9%9B%84%E4%B9%85
些細なことながら、「土方勘兵衛雄久」の「雄久」に「おひさ」とふりがなしてあるのですが(77頁)、「かつひさ」と訓む方が武士らしく、「おひさ」では居酒屋の女将のようです。また、「・・・対陣をとって・・・」(59頁)は「対陣して」のことかとも思われますが、意味不明です。図10(143頁)における「勝所」は「膳所」の間違いでしょうか。「秀頼は右大臣、右府と呼ばれ」(136頁)の「右府」に「ゆうふ」とふりがなしてあるのですが、普通は「うふ」と訓み、実朝も信長も「ゆうふ」様ではなく、「うふ」様ですよね。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%81%9A%E6%A5%BD%E7%AC%AC
福田氏は一貫して「聚楽城」と書き、「聚楽第」という表記はしていないのですね。

プロローグで井上安代氏の『豊臣秀頼』を紹介されていますが、氏は井上光貞の義妹とのことで、福田氏と井上氏の会話はいつも、「いつか必ずや秀頼や茶々の無念の思いを晴らしてあげましょう」で終わるとありますが(3頁)、私には『とっぴんぱらりの風太郎』が秀頼の無念を充分に晴らしていて、四百年忌の嵩陽寺殿秀山大居士は幸運だと思いましたね。

http://www.nikkei.com/article/DGXLASDG0301G_T01C14A0CR0000/
永禄9年(1566)8月28日付の全14通が熊本県立美術館で10日から公開され、見たいとは思いますが、遠すぎて行けません。
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呉座勇一氏、角川財団学芸賞受賞

2014-10-01 | 南原繁『国家と宗教』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2014年10月 1日(水)22時42分37秒

3月に出た呉座勇一氏の『日本中世の領主一揆』(思文閣出版、2014年)を今頃やっと購入し、本文のみをざっと読んだ後、改めて注記を含め精読し終えて感想を書こうと思っていたところ、下記ニュースを目にしました。

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角川学芸賞に呉座、白井氏

第12回角川財団学芸賞(角川文化振興財団主催)は1日、呉座勇一氏(34)の「戦争の日本中世史 『下克上』は本当にあったのか」(新潮社)と白井聡氏(37)の「永続敗戦論 戦後日本の核心」(太田出版)の2作に決まった。賞金各100万円。贈呈式は12月4日、東京都千代田区のホテルグランドパレスで。(2014/10/01-20:40)

私は角川源義賞と学芸賞の区別がついていなかったのですが、源義賞は「日本文学あるいは日本史分野(関連分野を含む)の研究として刊行された、個人の学術書」が対象で、学芸賞の方は「高レベルの研究水準にありながら、一般読書人にも読まれうる個人の著作」が対象ということなので、『戦争の日本中世史』はその文体からも学芸賞にふさわしいのでしょうね。
『日本中世の領主一揆』は源義賞を受賞してもおかしくないレベルの著作だと思いますが、さすがに源義賞と学芸賞を両方もらっている人はいないようですね。

角川財団学芸賞

『戦争の日本中世史』の感想(2014年2月13日)

>筆綾丸さん
「時祷書」もつい最近になってその正確な意味を知った言葉なのですが、『風俗習慣と神ながらの実習』は「筧克彦翁のいとも質素なる時祷書」かもしれないなあなどと、まんざら冗談でもなく思ってしまいます。

>福田千鶴氏
10月31日に三省堂書店神保町本店で「『豊臣秀頼』 刊行記念出張講義」を予定されているそうですね。


※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

四百年忌ーダメよダメダメ 2014/09/30(火) 12:31:25
小太郎さん
装飾写本はユネスコ記憶遺産の対象外でしょうか。「クルアーン」などはイスラム諸国が恐ろしくて記憶遺産には認定できず、語弊がありますが、東寺百合文書や御堂関白記くらいが Memory of the World に丁度良いのでしょうね。むかし、フランスのラジオ放送で enlumineur(写本彩飾師)へのインタビューを聞いたことがありますが、地味で根気の要る仕事だなあ、と思いました。

http://www.chateaudechantilly.com/
「ベリー公のいとも豪華なる時祷書( Les Très Riches Heures du Duc de Berry)」を見にシャンティイ城のコンデ美術館を訪ねたことがありますが、残念ながら非公開でした。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%83%A3%E3%83%B3%E3%83%86%E3%82%A3%E3%82%A4%E7%AB%B6%E9%A6%AC%E5%A0%B4
別の機会に、シャンティイ競馬場でディアヌ賞を見ましたが、優勝馬の馬主は貴族風のマダムで、住む世界が違うものだ、と実感しました。ウィキの写真では、馬場の向こう側に見えるのがシャンティイ城で、ここの何処かにベリー公の時祷書があるはずです。蛇足ながら、スポンサー(エルメス)の看板は、役立たずの馬は我が社で引き取りますよ、という意味でしょうか。
http://en.wikipedia.org/wiki/Banca_Monte_dei_Paschi_di_Siena
イタリアの名門モンテパスキ銀行もスポンサーになっていましたが、経営危機に公的資金を仰いでいるくせに、随分ふてぶてしい銀行だな、と思ったものです。この銀行は Monte dei Paschi という名からわかるように、たしか放牧羊を質草にしたことに由来し(室町時代の土倉のようなもの)、羊で起業して馬に投資、というようなわけですね。

http://www.yoshikawa-k.co.jp/book/b182062.html
福田千鶴氏『豊臣秀頼』のプロローグやあとがきを立ち読みしてみましたが、四百年忌にあたり秀頼の怨念を晴らすんだというわりには、『とっぴんぱらりの風太郎』を読んだ風もなく、巻末には普通の参考文献があるばかりで、評伝執筆にあたり、福田さん、万城目氏の秀逸な秀頼像はおそらく空前だから、読まなきゃ、(流行りのギャグを借りれば)ダメよダメダメ、と思いました。

ショーン・コネリー悲願のスコットランド独立はダメでしたね。今頃、ショックで寝込んでいるかもしれません。
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