投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2014年10月15日(水)23時02分56秒
Karen Brazell 氏、一度、お話を聞いてみたいと思っていたのですが、亡くなられていたとはショックです。
学者の73歳というのはまだまだ業績を残せる時期で、もったいない感じがしますね。
同氏は1938年生まれで、1973年、35歳のときに最初の著書として"The Confessions of Lady Nijō"を出版。
これが翌1974年に"National Book Award"(翻訳部門)を受賞して、学者としての地位を築く大きなきっかけとなったみたいですね。
National Book Award
>筆綾丸さん
>『蜩の記』
かなり複雑な構成の作品みたいですね。
ご紹介から受ける印象としては、一揆についての理解は近世のそれとしても若干古いような感じもしますが、小説だから仕方ないのでしょうね。
和知の場面については、また後ほど。
※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。
Putsch と Vertrag の間 2014/10/14(火) 19:43:58
小太郎さん
http://higurashinoki.jp/
『蜩の記』は、原作ではあまり感じなかったものの、映画で観ると、なんだか不自然な話のような気がしましたが、それはともかく、江戸時代の過酷な年貢取り立てに対する百姓一揆の話が出てきて、中世の領主一揆における「一揆」とは似て非なるものだなあ、とあらためて感じました。ドイツ語で言えば、前者の一揆は Putsch 、後者の一揆は Vertrag で、両者の間にはほとんど関係がないというようなことになるのでしょうね。
一揆の「法人格」性になると、 Putsch とも Vertrag とも違いますが、なるほど、こういう使い方もあるのか、と納得しました。
「Bingo province(備後の国)」はビンゴ・ゲームの bingo ようですね。
「I (disembarked at once and )set out for the home of the lady I had met earlier on board the ship to Itsukushima, following her writen directions to Wachi.」(船のうちなりし女房、書きつけて賜びたりしところをたづぬるに、程近くたづねあひたり」という文があるのに、二条の下人扱いは欧米人に理解されるものなのかどうか。一泊一飯の恩義ではないけれども、何らかの負債の感情は生まれるにしても、なぜ下人にされてしまうのか。中世のスコットランドやブルターニュなどにもよく似た風習があったな(?)とか、サンティアゴやエルサレムなどの聖地巡礼者にもときどき起きたことだ(?)・・・というような具合に受容されるのでしょうか。
この文の少し前には、
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船のうちによしある女あり。「われは備後の国、和知といふところのものにて侍る。宿願によりてこれへ参りて候ひつる。住まひも御覧ぜよかし」などさそへども、「土佐の足摺の岬と申すところがゆかしくて侍るときに、それへ参るなり。帰さにたずね申さん」と契りぬ。(講談社学術文庫『とはずがたり(下)』350頁)
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とあって、「由有る女」の誘いなので帰途寄らせてもらいましょう、となったのに、下人云々となったのでは、「由有る女」は奥ゆかしい女どころではなく、いわくつきの女つまりは女だてらの proxénéte(プロクセネート・女衒)の如きものになってしまわないか。この女は「和知のあるじ」がどのような人間なのか、充分承知の上で招いたはずで、こんな展開になるのは想定外だとすれば、ただの馬鹿女でしかあるまい・・・などと考えてゆくと、二条は何が言いたくてこんなエピソードを書き連ねたのか、どうにもわからない。この場面は、今となっては何が面白いのか不明ながら、同時代人にはニヤニヤするほどのファルス(farce)だったのだろうか。
竹簀垣の歌の英訳中 bamboo pickets は bamboo knots とでもしないと(シラブルの制約があるでしょうが)、「憂き節々」のニュアンスが消えてしまうような気がしますね。
小太郎さん
http://higurashinoki.jp/
『蜩の記』は、原作ではあまり感じなかったものの、映画で観ると、なんだか不自然な話のような気がしましたが、それはともかく、江戸時代の過酷な年貢取り立てに対する百姓一揆の話が出てきて、中世の領主一揆における「一揆」とは似て非なるものだなあ、とあらためて感じました。ドイツ語で言えば、前者の一揆は Putsch 、後者の一揆は Vertrag で、両者の間にはほとんど関係がないというようなことになるのでしょうね。
一揆の「法人格」性になると、 Putsch とも Vertrag とも違いますが、なるほど、こういう使い方もあるのか、と納得しました。
「Bingo province(備後の国)」はビンゴ・ゲームの bingo ようですね。
「I (disembarked at once and )set out for the home of the lady I had met earlier on board the ship to Itsukushima, following her writen directions to Wachi.」(船のうちなりし女房、書きつけて賜びたりしところをたづぬるに、程近くたづねあひたり」という文があるのに、二条の下人扱いは欧米人に理解されるものなのかどうか。一泊一飯の恩義ではないけれども、何らかの負債の感情は生まれるにしても、なぜ下人にされてしまうのか。中世のスコットランドやブルターニュなどにもよく似た風習があったな(?)とか、サンティアゴやエルサレムなどの聖地巡礼者にもときどき起きたことだ(?)・・・というような具合に受容されるのでしょうか。
この文の少し前には、
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船のうちによしある女あり。「われは備後の国、和知といふところのものにて侍る。宿願によりてこれへ参りて候ひつる。住まひも御覧ぜよかし」などさそへども、「土佐の足摺の岬と申すところがゆかしくて侍るときに、それへ参るなり。帰さにたずね申さん」と契りぬ。(講談社学術文庫『とはずがたり(下)』350頁)
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とあって、「由有る女」の誘いなので帰途寄らせてもらいましょう、となったのに、下人云々となったのでは、「由有る女」は奥ゆかしい女どころではなく、いわくつきの女つまりは女だてらの proxénéte(プロクセネート・女衒)の如きものになってしまわないか。この女は「和知のあるじ」がどのような人間なのか、充分承知の上で招いたはずで、こんな展開になるのは想定外だとすれば、ただの馬鹿女でしかあるまい・・・などと考えてゆくと、二条は何が言いたくてこんなエピソードを書き連ねたのか、どうにもわからない。この場面は、今となっては何が面白いのか不明ながら、同時代人にはニヤニヤするほどのファルス(farce)だったのだろうか。
竹簀垣の歌の英訳中 bamboo pickets は bamboo knots とでもしないと(シラブルの制約があるでしょうが)、「憂き節々」のニュアンスが消えてしまうような気がしますね。