投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2009年 3月15日(日)19時44分3秒
昨日、『網野善彦著作集第四巻』の「月報15」を読んでいたら、網野善彦氏に関して私がかねて疑問に思っていた点について、犬丸義一氏が言及されていました。
2002年12月、「歴史学研究会創立70周年記念シンポジウム」という行事があり、私も物見遊山気分で聴講していたのですが、質疑応答の時間になると、私のすぐ近くにいた老人が立ち上がって、発表者との間であまり噛み合わない議論をしていました。
それが犬丸義一氏だったのですが、中国密航など普通の学者とは違った経歴を持つ方なので、やはり一種独特の雰囲気がありましたね。
何の本だったか、学生時代の犬丸義一氏が仲間と山辺健太郎宅を訪問したところ、足の踏み場がないほど本がうず高く積まれたボロアパートの片隅で、山辺健太郎が本に埋もれるように暮らしていた、という一文を読んで、ちょっとうらやましいなと思ったことがあります。
ま、それはともかく、犬丸義一氏の文章を少し紹介してみます。
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網野さんと私 ─学生時代を中心に
東大入学のころ
網野善彦さんとの最初の出会いは、一九四九年四月の東京大学入学式の日のことである。網野さんと私は一九二八年生まれの同い年だが、福岡での教師生活などを経てから上京・入学した私にとって、網野さんはすでに二学年上の先輩であった。
入学式後の学友会(自治会)の歓迎会で、委員長として挨拶に立たれた佐藤※子(ようこ)さん(のちの藤原彰夫人)に、まず鮮烈な印象を受けた。挨拶の中身はほとんど覚えていないが、女性の委員長ということ自体がある種のカルチャーショックだった。そのあとは、各学科ごとに研究室に散らばっていき、われわれ国史学科の新入生は、坂本太郎・岩生成一両教授、宝月圭吾助教授の話を聞いた。坂本主任教授が話のなかで「君たちはおそらく学生運動をやるのだろうが、運動も結構だが勉強もして下さい」と言われたほどに、学生運動が昂揚している時期だった。先生方に続いて登場したのが三年生の網野さんで、東大歴研(歴史学研究会)を代表して挨拶し、各研究会の紹介などをしてくれた。
(中略)
そうした高揚の中で、私たち国史学科の四九年入学組十六人のうち実に九人までが共産党に入党する。入党に際しては推薦者が二名必要という規約上の決まりがあって、私の推薦者は東大歴研の先輩のうち特に影響を受けたお二人、藤原彰さんと網野さんであった。この一九四九年という年は、一月の総選挙で共産党の議席が一挙に三五に伸長し、『東大新聞』の意識調査でも東大生の支持政党の第一位が共産党という、今から見れば特異ともいえるほど左翼化の進展した時期で、「九月革命説」が流布していた。
(中略)
東大国史専攻の党員メンバー同士のつながりは、ある種の生活共同体ともいうべき密接なものだったのだ。そのリーダーが藤原さんと網野さんであった。
卒業前後の網野さんと私
ところで、網野さんは自らの歩みを振り返るいくつかの文章の中で、この頃の自己のあり方について厳しく批判し反省している(『歴史としての戦後史学』所収の「戦後の"戦争犯罪"」「戦後歴史学の五十年」など)。たとえば、一九四九年から五〇年にかけて、卒業論文に専念していたことを、「優遇され」「"学問"の名の下に特権的な道に身を寄せ」などとしているが、その過大、過剰ともいうべき負い目の感じ方については、同じ時代を身近に過ごした者として、私はかなり違和感を持っている。
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続きはまた。
九月革命説
山辺健太郎(1905‐77)