学問空間

『承久記』『五代帝王物語』『とはずがたり』『増鏡』『太平記』『梅松論』等を素材として中世史と中世文学を研究しています。

「小川綱志氏の教示を得た」(by 井原今朝男氏)

2016-12-29 | 井原今朝男「中世善光寺平の災害と開発」

投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2016年12月29日(木)12時59分5秒

>筆綾丸さん
その部分を引用しようと思っていたところでした。
ありがとうございます。
「辺土分際には過ぎたり」については、私は単に後深草院二条の高飛車で厚かましくてずうずうしい性格の反映かと思っていたのですが、井原氏は別な意味を与えています。
後で紹介します。

井原氏に変な誤字が多いのは確かで、例えばp176の、

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最近、田渕句美子は『うたたね』以外に度繁を養父とする史料がないことや度繁が「京都に基盤を置く下級貴族であって、遠江にいて上洛するような豪族ではない」との五味説に依拠して、度繁を養父とのべたのは作品上の物語的虚構であって『うたたね』の虚構性とかかわるという新説を提起している。
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に付された注(87)において、

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(87) 田渕句美子『阿仏尼とその時代─『うたたね』が語る中世』(臨川書店、2000)。小川綱志氏の教示を得た。
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としているのですが(p190)、「小川綱志」という名前は歴史研究者にも国文学研究者にも聞いたことがありません。
歴史学の論文を幅広く読んでいる国文学者は僅少ですから、たぶんこれは慶應大学教授・小川剛生(たけお)氏のことなんでしょうね。
だとすると、直接に「教示」を受ける関係でありながら「剛生」と「綱志」をどうやったら間違えることができるのか。
非常に不思議ですが、もしかしたら井原氏は未だに手書きで原稿を書いていて、しかもものすごく悪筆で、それを秘書なり家族なりが誤ってワープロで起こし、更に著者校正で井原氏がうっかり見過ごした、というような事情なのでしょうか。
「ワープロで起こす」というのも死語ですかね。

2009年12月に、筆綾丸さんが田渕句美子氏の『阿仏尼』(吉川弘文館・人物叢書、2009)に言及され、それを受けて私は、

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田渕句美子氏の『阿仏尼』、入手して少し読んでみました。
参考文献に井原今朝男氏の「中世善光寺平の災害と開発」(『国立歴史民族博物館研究報告』96号、2002年)が載っていますが、「中世」がついていなければ土木工事の報告書のような、この武骨なタイトルの論文は、意外なことに阿仏尼研究のみならず後深草院二条研究にとっても必読文献です。
このあたりもきちんと押さえているのはさすがです。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/a4fb5e805afcec3f56af4c4bc5387393

などと書いているのですが、田渕句美子氏は小川剛生氏の「教示を得た」のかもしれません。

「和田石見入道」で検索してみたら、「姨捨正宗」の蔵元、長野銘醸株式会社のサイトには、

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 鎌倉時代の信濃の国 和田郷(長野市)の領主、御家人 善光寺奉行人 和田石見入道佛阿[文永二年(1265年)没]の後裔、信濃国更科郡八幡中原(郡村)の和田山城主和田弾正正俊[天文十三年(1544年)没]の五世之孫 和田三郎右衛門正成の次男、與八郎(後に平兵衛正公と改)が分家、同村の肝煎を勤める傍ら酒造業を創業しました。【中略】
和田家は、その祖は平安時代において、信濃の国東条の庄(高井郡・水内郡)の地頭、下って鎌倉時代において和田郷(長野市和田)の御家人。当和田家の直系の祖和田石見入道佛阿は善光寺奉行人をつとめ後に当更科郡八幡中原の地に移りました。
以来、和田家はこの地において室町時代、戦国時代の乱世を地方豪族として逞しく生き抜き、江戸時代の商品経済の展開にもよく適応して、その所領知の米を用いて、武家(郷士)としての醸造業を成功させてきました。そのような歴史のなかで、地域社会の文化、経済、産業の発展に重要な役割を担ってきました。

https://www.obasute.co.jp/corp-info/index.html

などとありますが、ちょっと面白いですね。

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

辺土分際には過ぎたり 2016/12/28(水) 14:04:10
小太郎さん
『とはずがたり』(講談社学術文庫下巻)には以下のようにありますが(250頁~)、「辺土分際には過ぎたり」などと言いながら半年も長逗留したため、さすがに地元でも飽きられて、「ゆゑある住まひ」の入口には、箒が逆さに立てられていたかもしれないですね。ただ、現代のたとえば官官接待などとはまったく別の感性で生活していた人たちだろうから、腫れ物扱いで傍迷惑であったかどうか、わかりませんが。
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 二月の十日あまりのほどにや、善光寺へ思ひ立つ。
(中略)
 所のさまは眺望などはなけれども、生身の如来と聞き参らすれば、頼もしくおぼえて、百万遍の念仏など申して、明かし暮らすほどに、高岡の石見の入道といふ者あり。いと情ある者にて、歌つねによみ管弦などして遊ぶとて、かたへなる修行者・尼にさそはれてまかりたりしかば、まことにゆゑある住まひ、辺土分際には過ぎたり。かれといひこれといひて慰むたよりもあれば、秋まではとどまりぬ。
 八月の初めつ方にもなりぬれば、武蔵野の秋の景色ゆかしさにこそ、今までこれらにも侍りつれと思ひて、武蔵の国へ帰りて、浅草と申す堂あり。
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キラーカーンさん
http://www.shogi.or.jp/match/junni/2016/75a/index.html
疑惑発覚後の3戦の扱いにも問題がありますが、不思議なことは年明けの対戦結果がすでに出ていることで(相手は不戦勝なのに本人は不戦敗ではない・・・?)、つまり、何が何でも残り試合もやらせないということらしく、底意地の悪い集団ではありますね。代わりにA級に残留させてやるからいいだろう、と。スポンサー(毎日・朝日)も、他人事ではないが、好い加減な公益社団法人だ、と思っているかもしれません。
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