井上宗雄『平安後期歌人伝の研究』(笠間書院、1978)
http://shop.kasamashoin.jp/bd/isbn/9784305101006/
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p121
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天養元年(一一四四。二月廿三日改元)四十一歳
〇六月二日顕輔、詞花集を撰進すべき崇徳院の院宣を奉ず。時に清輔は父顕輔から不快であったが、奉命後撰集に助力せしめるべく許された(袋草紙)。「忠兼・隆縁等、子息ニハ顕方・清輔等、古哥ナドヲバヲノ/\撿申侍シニ」(詞花集注)というようにい入集候補の歌などについて、一族・子息らが顕輔から検討を命ぜられたらしい。─顕方・清輔という同母兄弟は父から愛護されなかった(蔵人や中宮大進となった顕方より清輔の方がもっと冷遇されている)。
久安三年(一一四五。七月廿ニ日改元)四十二歳
〇三月十七日顕輔ら、頼長を誘い法勝寺などの花を見、詠歌(台記)。家集に「宇治左大臣花見給て帰てのち、人々に歌よませ給ひけるに あかず思ふ心は花にとめつるをとまらぬ人に見をばまかせて」(四四)とあるのは清輔も供しての詠ではなかろうか。
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p123
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久安六年(一一五〇)四十七歳
〇正月一日左大臣頼長、子の今麻呂を隆長と名づく。恐らくこれを憚って隆長を清輔と改めるか。【後略】
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p127
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保元元年(一一五六。四月廿七日改元)五十三歳
〇正月六日清輔従四位下(山槐記・兵範記「功」とあり)。歌集四二〇によると、弟どもが四位なのでという申文による、とある。生涯の内、歌による上階は三度に及んだ(袋草紙)。【中略】
△七月二日鳥羽院没。次いで保元の乱。廿三日崇徳院讃岐に流される。〇十一月廿八日清輔皇太后宮(多子)大進(山槐記除目部類)。大夫は忠能、権大夫公保、権亮実綱、権大進に顕方(顕能男)。
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p129以下
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保元三年(一一五八)五十五歳
〇二月三日多子太皇太后となる。清輔、同宮大進となる(この時の記録はないが、当然そう考えられる)。△八月十一日後白河天皇、二条天皇に譲位。〇前年八月九日からこの年八月十一日までの間、袋草紙の根幹部分成る。【中略】
平治元年(一一五九。四月廿日改元)五十六歳
【中略】〇春より重家集始まる。二条天皇内裏歌会活発化する。〇六月十九日天皇より数年来内裏に召籠めてあった清輔の注古今を返却される。顕注密勘に次の記事があるので、『図書寮典籍解題文学篇』(三五~七頁)によって記す(表記は若干改めた)。下巻に定家の識語があり、その後半の段に、
【以下二字下げ】
抑崇徳院に、貫之自筆本と申古今侍けり、教長卿、亡父〔五条三品禅門〕、清輔朝臣、各申うけて書うつしけるを、宰相は真名は真名、仮名は仮名に書写、倶此本当時所見不審甚多、頗難信用おぼえしかば、先年前金吾の説を受て書たりしかば、本の説をうしなはず、是此取要て我家の説とすと申されしを、むかしきゝ侍しに、近年ある人、清輔朝臣の注古今と申草子をみせ侍し、注の外の事はかわらざりけりと云侍しに、のちか又彼本と申物みする人侍し、かれこれ不同、いかに侍し事にか、いづれを書誤けん、おぼつかなくぞ侍し、件草子奥書
<朱字>平治比見合新院本<是二条院神筆云々不見 知之>
<墨字>此本数年召籠内裏、平治元年六月十九日返預畢、不可披露之由有其誡、於内裏被改表紙畢、以片仮名書入歌〔畢イ〕并異説等は皆以若州之所被考付也、其中有延喜聖主御本之説、号讃州入道本、朱付ハ当今御本、貫之自筆之自伝也
後人手跡
是清輔朝臣自筆所書写本也、件本二条院召取以来御自筆勘付異説、
御本返給清輔者也、其後伝得件本書写之云々(下略)
分りにくい所が多いが、次の事は定家が認めた事実である。◎清輔が教長・俊成と共に崇徳院所持の古今集を書写した事、◎清輔(著作であろう)の注古今があった事。次に「件草子奥書」が何を指すのか明確でないが、西下経一『古今集』の伝本の研究』や研究史大成『古今集』付載の研究史年表で推測するように、清輔の注古今であろうか(後に「是清輔朝臣自筆所書写本也」を見ても清輔の奥書らしい)。とすれば清輔は注古今を数年前から二条天皇(東宮時代)に進め、それを平治元年六月十九日に返して貰った事になる。「平治比」云々の奥書には「二条院」とあり、永万元年七月崩御後に加えられたものである。平治元年六月十九日返して貰って内裏で表紙を改めた(そして二条院筆本と校合した)というのであろうか。因みに、注古今は「「桑華書誌」所載「古蹟歌書目録」」に「注古今一部十巻清輔撰」とあるのと同じであろう。〇七月九日天皇、皇太子時代に進上した古今集(仁平四年本か)を清輔に返却(前田家本等保元二年本)。また同類の奥書が永治二年本にもみえる(但しこの奥書は後の某年叡山の学僧に与えた時に記したもの。署名の「三位大進」云々は後補か)。〇十月三日清輔の袋草紙、既に世評あり、天皇から召され奉る(奥書)。但し現存本には追補がある。〇十二月平治の乱。信西自殺。「うへゆるされ〔「ざり」脱か。尊経閣本等あり〕けるころ、侍従代といふことにもよほされける時、少納言入道信西がもとへ遣しける 沢水になくたづのねや聞ゆらん雲井に通ふひとにとはゞや 返し 信西 あしたづの沢辺の声は遠くともなどか雲井に聞えざるべき」(家集四〇八、九)とあり、これは昇殿を聴されなかった折と解すべきようで(清輔は平治以前に内昇殿を聴された記録はない)、年次は明らかでない。
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