投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年10月21日(日)10時05分29秒
もう少し『岡谷蚕糸博物館紀要』の「聞き取り調査の記録 岡谷の製糸業」の事例を紹介してから山本茂実『あゝ野麦峠』の信頼性に直接関係する会田進氏(元市立岡谷蚕糸博物館学芸員)の「製糸聞き取り調査の総括 山本茂実著『あゝ野麦峠 ある製糸女工哀史』をたどる(1)」(『岡谷蚕糸博物館紀要』13号、2008)を引用しようかなと思っていたのですが、まあ、少なくとも食事に関しては、松沢裕作氏の「提供される食事は貧しく」という指摘は誤解ですね。
もちろん、2018年現在の松沢家の食卓に比べれば貧しいと評価せざるを得ないでしょうが、戦前の日本の生活事情を考えれば製糸工女に提供された食事は平均を相当上回るレベルであり、ご飯を自由に何杯でも食べられるだけで夢のようだと思った人も多いと思います。
『岡谷蚕糸博物館紀要』全14巻の「聞き取り調査の記録 岡谷の製糸業」を見ると、1927年(昭和2)8月に起きたストライキで有名な山一林組については、食事の内容に多少の不満があったという証言があるものの、それもオカズが少ない程度の話ですね。
『あゝ野麦峠』には、工女の集会で「私たちはブタではない、人間の食べ物を与えてください」との発言があったと記されていますが(新版、p267)、これが仮に事実だとしても、一時的な争議の興奮にかられた大袈裟な表現かと思います。
ということで、会田進氏の論文に移ります。
まず、聞き取り調査の趣旨ですが、
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1.岡谷蚕糸博物館の聞き取り調査のあらまし
映画『あゝ野麦峠』によって、信州、諏訪、そして岡谷の製糸業は著しく暗いイメージになり、日本労働史の中でも、苛酷な、残酷な産業の歴史というイメージを負うことになってしまった。いまだ労働問題が起きるとまず言われることは、「岡谷の製糸業においては」という表現である。こう語られることがすべてを物語っていよう。
本当に製糸業は工女虐待の経営を行い、いわゆる労働搾取を行なっていたのか、工女哀史ということがあったのか、その実態はどうなのかと様々な疑問が起きる中で、これまでなかなか岡谷の製糸業界から、疑問・反論が出てこなかった。自伝的小説やエッセイなどがないわけではないが、正面から反論することはなかった。
近代製糸業の歴史は、世界経済の波に翻弄され、艱難辛苦の茨の道であった。栄光の陰に、工女も経営者も栄枯盛衰さまざまな過去を負っている。しかし、日本の産業の近代化に貢献し、外貨の50パーセント以上を獲得、明治政府の殖産興業を担い、維新以後の近代化に大きな役割を果たしたのは製糸業であり、それは製糸家の誇りであった。市立岡谷蚕糸博物館は、そうした製糸業の先人の顕彰を大きな目的の一つにしているのである(紀要創刊号)。当然ながら、なぜ哀史といわれねばならないのかという疑問は蚕糸博物館の初代館長古村敏章をはじめ、常に抱いていた問題である。特に二代館長伊藤正和は、山本氏に分け隔てなく資料を提供し、岡谷の製糸業の歴史を伝えている一人である。
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ということで(p95)、映画『あゝ野麦峠』が岡谷に与えた影響は甚大でした。
永池航太郎氏の「『あゝ野麦峠』に関する研究─「女工哀史」像の解釈をめぐって─」(『信濃』66巻10号(2014)によれば、
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岡谷の街は、映画「あゝ野麦峠」が上映されて以降、「女工いじめの街」というレッテルが張られ、負のイメージが植えつけられることになる。映画が上映された昭和五四年には岡谷市内の企業への就職希望者数は激減した。
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とのことで(p795)、山本茂実の原作はまだしも、映画『あゝ野麦峠』は本当にシャレにならない事態を惹き起こした訳ですね。
なお、会田論文の上記引用部分だけ見ると岡谷蚕糸博物館の設立自体、映画『あゝ野麦峠』への対抗策のように見えるかもしれませんが、同館設立は1964年(昭和39)だそうで、山本茂実の原作が出た1968年の四年前、映画『あゝ野麦峠』の十五年前ですね。
「岡谷蚕糸博物館 シルクファクト」公式サイト
http://silkfact.jp/
市立岡谷蚕糸博物館
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B8%82%E7%AB%8B%E5%B2%A1%E8%B0%B7%E8%9A%95%E7%B3%B8%E5%8D%9A%E7%89%A9%E9%A4%A8
もう少し『岡谷蚕糸博物館紀要』の「聞き取り調査の記録 岡谷の製糸業」の事例を紹介してから山本茂実『あゝ野麦峠』の信頼性に直接関係する会田進氏(元市立岡谷蚕糸博物館学芸員)の「製糸聞き取り調査の総括 山本茂実著『あゝ野麦峠 ある製糸女工哀史』をたどる(1)」(『岡谷蚕糸博物館紀要』13号、2008)を引用しようかなと思っていたのですが、まあ、少なくとも食事に関しては、松沢裕作氏の「提供される食事は貧しく」という指摘は誤解ですね。
もちろん、2018年現在の松沢家の食卓に比べれば貧しいと評価せざるを得ないでしょうが、戦前の日本の生活事情を考えれば製糸工女に提供された食事は平均を相当上回るレベルであり、ご飯を自由に何杯でも食べられるだけで夢のようだと思った人も多いと思います。
『岡谷蚕糸博物館紀要』全14巻の「聞き取り調査の記録 岡谷の製糸業」を見ると、1927年(昭和2)8月に起きたストライキで有名な山一林組については、食事の内容に多少の不満があったという証言があるものの、それもオカズが少ない程度の話ですね。
『あゝ野麦峠』には、工女の集会で「私たちはブタではない、人間の食べ物を与えてください」との発言があったと記されていますが(新版、p267)、これが仮に事実だとしても、一時的な争議の興奮にかられた大袈裟な表現かと思います。
ということで、会田進氏の論文に移ります。
まず、聞き取り調査の趣旨ですが、
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1.岡谷蚕糸博物館の聞き取り調査のあらまし
映画『あゝ野麦峠』によって、信州、諏訪、そして岡谷の製糸業は著しく暗いイメージになり、日本労働史の中でも、苛酷な、残酷な産業の歴史というイメージを負うことになってしまった。いまだ労働問題が起きるとまず言われることは、「岡谷の製糸業においては」という表現である。こう語られることがすべてを物語っていよう。
本当に製糸業は工女虐待の経営を行い、いわゆる労働搾取を行なっていたのか、工女哀史ということがあったのか、その実態はどうなのかと様々な疑問が起きる中で、これまでなかなか岡谷の製糸業界から、疑問・反論が出てこなかった。自伝的小説やエッセイなどがないわけではないが、正面から反論することはなかった。
近代製糸業の歴史は、世界経済の波に翻弄され、艱難辛苦の茨の道であった。栄光の陰に、工女も経営者も栄枯盛衰さまざまな過去を負っている。しかし、日本の産業の近代化に貢献し、外貨の50パーセント以上を獲得、明治政府の殖産興業を担い、維新以後の近代化に大きな役割を果たしたのは製糸業であり、それは製糸家の誇りであった。市立岡谷蚕糸博物館は、そうした製糸業の先人の顕彰を大きな目的の一つにしているのである(紀要創刊号)。当然ながら、なぜ哀史といわれねばならないのかという疑問は蚕糸博物館の初代館長古村敏章をはじめ、常に抱いていた問題である。特に二代館長伊藤正和は、山本氏に分け隔てなく資料を提供し、岡谷の製糸業の歴史を伝えている一人である。
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ということで(p95)、映画『あゝ野麦峠』が岡谷に与えた影響は甚大でした。
永池航太郎氏の「『あゝ野麦峠』に関する研究─「女工哀史」像の解釈をめぐって─」(『信濃』66巻10号(2014)によれば、
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岡谷の街は、映画「あゝ野麦峠」が上映されて以降、「女工いじめの街」というレッテルが張られ、負のイメージが植えつけられることになる。映画が上映された昭和五四年には岡谷市内の企業への就職希望者数は激減した。
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とのことで(p795)、山本茂実の原作はまだしも、映画『あゝ野麦峠』は本当にシャレにならない事態を惹き起こした訳ですね。
なお、会田論文の上記引用部分だけ見ると岡谷蚕糸博物館の設立自体、映画『あゝ野麦峠』への対抗策のように見えるかもしれませんが、同館設立は1964年(昭和39)だそうで、山本茂実の原作が出た1968年の四年前、映画『あゝ野麦峠』の十五年前ですね。
「岡谷蚕糸博物館 シルクファクト」公式サイト
http://silkfact.jp/
市立岡谷蚕糸博物館
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B8%82%E7%AB%8B%E5%B2%A1%E8%B0%B7%E8%9A%95%E7%B3%B8%E5%8D%9A%E7%89%A9%E9%A4%A8
山本茂美著で続野麦峠が角川書店から昭和55年から出版されております。内容に疑問を持ち調べました。
その第一話の題名が「おみね地蔵由来記」です。
映画直後の出版なので注目の第一話だったと思います。
内容は兄政井辰次郎が会社の無慈悲な対応に怒って
その執念で建てた「おみね地蔵」というストーリーです。P28に写真が掲載されおみね地蔵を完成した辰次郎とあります。その建てられたお寺に問い合わせた所
あれは親鸞聖人像と言うのです。
山本さんの勘違いだそうです。
しかし兄から経緯を聞き寺に直接取材し親鸞聖人の像を見て「おみね地蔵」と勘違いすることあり得ないと思うのです。浄土真宗のお寺では地蔵を建てることは普通許可されませんし。となると注目の第一話「おみね地蔵由来記」のストーリーそのものが?となってしまいます。
しかしもし知っていておみね地蔵由来記を書いたとする
と山本茂美氏の人間性とは何なんだろうとビックリいたします。
コメントありがとうございます。
「おみね地蔵由来記」の内容を改めて確認してからレスしますので、少々お待ちください。
御指摘の写真、下半分しか写していませんが、少し検索してみたところ、リンク先ブログに全体像が出ています。
https://blog.hange.jp/R587461705/article/41024905/
確かに浄土真宗の寺で、この像を見て地蔵だと勘違いする人はいませんね。
山本が故意であることは明らかだと思いますが、写真の構図を見ると、山本だけでなく編集者、出版社ぐるみで歴史の偽造を行っているように感じます。
続野麦峠の写真はあえて上部がカットされ顔が分からない様にされているとも見えます。
いずれにしましても兄辰次郎さんはおみねさんの50回忌で親鸞聖人像を寄進した。それを実在していない「おみね地蔵」とし第一話のおみね地蔵由来記としたとすると第一話全体が虚偽の内容となってしまいます。
編集者もかんでいるとすると、ここまでやるか?と言うくらいの大胆な虚偽となり事実だとすると恐ろしいことです。
そこで、何が何でも売れる本を出さねば、という切迫した事情のもと、虚実入り乱れた『あゝ野麦峠』を出したところ250万部のベストセラーとなり、大儲けした訳ですが、『あゝ野麦峠 続』を出した十二年後には、少なくとも経済的にはさほど無理をする理由もなかったはずですね。
とすると、「おみね地蔵由来記」の方はいったん確立した名声を維持するための名誉欲が動機なのかもしれません。
山本は文才には恵まれても非常に屈折した人で、こういう人につけ込まれて黒く描かれてしまった信州の製糸業の歴史は気の毒です。
映画やテレビドラマにもなり社会的地位も再構築した山本茂美氏が伝聞ならともかく現在進行形で明らかに存在しない「おみね地蔵由来記」を書かせたものはなにか?
推測ですが基本的に「人間の行動というのは変わらない」と言うことでしょうか。変わるとしたら本当に自分と向き合い「生まれ変わる」以外ないと思います。
盗作事件後の山本氏は山本和加子氏によるとp226「這い上がれると思った途端、その片手を上にいた奴が足で突き落とした。」と被害者ポジションです。
蒲幾美さんの元祖「野麦峠」を読めば山本氏再生は反省以外ないと私は思いました。
あと映画やテレビになって「売れる」と言う欲もあったのかも知れません。しかし野麦峠のストーリーが存在不明?な58年前の「電報」や医学的には常識はずれの重態な腹膜炎の座位でしょわれて50キロ歩行でその後を書くとなると整合性が難しい。苦肉の策で兄の「底知れない怒りと執念」
が山本氏の内側からわいてきた無関係な潜在意識の可能性。
しかし信仰の場であるお寺に「底知れない怒りと執念」で「地蔵菩薩」を建てる人はいないと思うのです。
そういう意味で兄の50回忌で親鸞聖人の像を建てたと言う純粋な信仰心さえも結果として踏みにじられたと思っております。