投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年12月 1日(土)12時23分3秒
中村政則は「女工賃金は一家を養うだけの高さを必要とせず、家計の補充になれば足りるということから低賃金でもすむ」などと頻りに製糸工女が「低賃金」であったと強調するのですが、そもそも何と比べて低いのか。
普通の論理的思考力のある人だったら、諏訪の笠原製糸場の「女工の賃金用途」を縷々分析した後に「低賃金」について述べている以上、製糸工女が同じ製糸工場で働く男子労働者より「低賃金」であったとか、他の地域の工場で働く製糸工女より「低賃金」であったとか、あるいはもっと一般的に、同年代の他の職業に従事する女子労働者より「低賃金」であったとか、比較の対象を明示するはずですが、中村が何と比較して「低賃金」と言っているのか、私には理解できません。
中村は山田盛太郎の『日本資本主義分析』に言及して、「(山田が)女工の得る賃金が低賃金であること、たとえば紡績女工の賃金がインド以下的水準にあることは証明されたが(一六八ページ以下参照)」などと言っているので、インドの紡績女工と比較しているのかな、とも思いますが、そもそもインドと比較して何の意味があるのかが分かりません。
山田盛太郎や中村は、自分がインドの大学教授・助教授より高い賃金をもらっていることが「判明」すれば喜ぶのか。
逆にインド以下であることが「判明」したら嘆き悲しむのか。
まあ、インドへの言及とかになると、「講座派」のディープな世界に通暁している特殊な研究者以外にはさっぱり理解できないし、説得力もないですね。
さて、改めて中村の頓珍漢な主張をできるだけ分りやすく理解しようと努めてみると、中村は、「女工の得る賃金が低賃金であること、たとえば紡績女工の賃金がインド以下的水準にあること」は山田盛太郎に丸投げして「証明」したことにした上で、
(1)製糸女工の基本的出身階層はたしかに小作貧農であること
(2)その賃金の圧倒的部分は家計補充部分として一家の家計を補充していること
を自分が「証明」したと言いたいようです。
(1)については、少し前の「女工の出身地」という部分で、『生糸職工事情』から「女工の多くは貧しい農家の娘たち」(p91)だったとか、岡谷製糸業における「女工は、いずれも小作ないし自小作に属する貧農の出であった」(同)などと言っているのですが、『生糸職工事情』にはそんなことは書かれておらず、また、中村は「明治四三年の山梨県の一製糸工場における女工の出身階層をしらべたことがある」(同)だけで、日本全国はもちろん、諏訪の製糸工場に限っても、「製糸女工の基本的出身階層はたしかに小作貧農であること」は全然証明されていないですね。
また、(2)については、たかだか笠原製糸場という諏訪の一工場の「女工の賃金用途」を調べただけでずいぶん壮大なことを言っているのですが、阿呆としか思えません。
中村が笠原製糸場の「女工の賃金用途」を分析して分かったことは、せいぜい女工が得た賃金が家計内でどのように配分されたか、だけであって、笠原製糸場の女工が「低賃金」だったどうかの問題とすら全く関係ありません。
まあ、普通に考えれば、少なくとも1919年の賃金はどう見ても「高賃金」だと思いますが、中村は「大正八年は生糸ブームで糸価が高騰し、平均賃金が一〇〇円をこえ、「百円工女、百円工女」といって農家をおどろかせた年でもあった」などと言いながら、素通りしていますね。
以上、私は現在の研究水準に照らして、中村政則が古臭いことを言っているから駄目だ、と批判しているのではなく、1976年に中村が書いた文章だけを見て、何の論理性もなく、支離滅裂だなと思っている訳です。
中村政則は「女工賃金は一家を養うだけの高さを必要とせず、家計の補充になれば足りるということから低賃金でもすむ」などと頻りに製糸工女が「低賃金」であったと強調するのですが、そもそも何と比べて低いのか。
普通の論理的思考力のある人だったら、諏訪の笠原製糸場の「女工の賃金用途」を縷々分析した後に「低賃金」について述べている以上、製糸工女が同じ製糸工場で働く男子労働者より「低賃金」であったとか、他の地域の工場で働く製糸工女より「低賃金」であったとか、あるいはもっと一般的に、同年代の他の職業に従事する女子労働者より「低賃金」であったとか、比較の対象を明示するはずですが、中村が何と比較して「低賃金」と言っているのか、私には理解できません。
中村は山田盛太郎の『日本資本主義分析』に言及して、「(山田が)女工の得る賃金が低賃金であること、たとえば紡績女工の賃金がインド以下的水準にあることは証明されたが(一六八ページ以下参照)」などと言っているので、インドの紡績女工と比較しているのかな、とも思いますが、そもそもインドと比較して何の意味があるのかが分かりません。
山田盛太郎や中村は、自分がインドの大学教授・助教授より高い賃金をもらっていることが「判明」すれば喜ぶのか。
逆にインド以下であることが「判明」したら嘆き悲しむのか。
まあ、インドへの言及とかになると、「講座派」のディープな世界に通暁している特殊な研究者以外にはさっぱり理解できないし、説得力もないですね。
さて、改めて中村の頓珍漢な主張をできるだけ分りやすく理解しようと努めてみると、中村は、「女工の得る賃金が低賃金であること、たとえば紡績女工の賃金がインド以下的水準にあること」は山田盛太郎に丸投げして「証明」したことにした上で、
(1)製糸女工の基本的出身階層はたしかに小作貧農であること
(2)その賃金の圧倒的部分は家計補充部分として一家の家計を補充していること
を自分が「証明」したと言いたいようです。
(1)については、少し前の「女工の出身地」という部分で、『生糸職工事情』から「女工の多くは貧しい農家の娘たち」(p91)だったとか、岡谷製糸業における「女工は、いずれも小作ないし自小作に属する貧農の出であった」(同)などと言っているのですが、『生糸職工事情』にはそんなことは書かれておらず、また、中村は「明治四三年の山梨県の一製糸工場における女工の出身階層をしらべたことがある」(同)だけで、日本全国はもちろん、諏訪の製糸工場に限っても、「製糸女工の基本的出身階層はたしかに小作貧農であること」は全然証明されていないですね。
また、(2)については、たかだか笠原製糸場という諏訪の一工場の「女工の賃金用途」を調べただけでずいぶん壮大なことを言っているのですが、阿呆としか思えません。
中村が笠原製糸場の「女工の賃金用途」を分析して分かったことは、せいぜい女工が得た賃金が家計内でどのように配分されたか、だけであって、笠原製糸場の女工が「低賃金」だったどうかの問題とすら全く関係ありません。
まあ、普通に考えれば、少なくとも1919年の賃金はどう見ても「高賃金」だと思いますが、中村は「大正八年は生糸ブームで糸価が高騰し、平均賃金が一〇〇円をこえ、「百円工女、百円工女」といって農家をおどろかせた年でもあった」などと言いながら、素通りしていますね。
以上、私は現在の研究水準に照らして、中村政則が古臭いことを言っているから駄目だ、と批判しているのではなく、1976年に中村が書いた文章だけを見て、何の論理性もなく、支離滅裂だなと思っている訳です。
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