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「長い道中の末」─「窮極の旅」を読む(その41)

2015-09-23 | 石川健治「7月クーデター説」の論理

投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2015年 9月23日(水)06時59分5秒

清宮説の検討は後で行うことにして、「違法の後法」の「三 lex posterior」で残った部分を紹介しておきます。(『国家作用の理論』、p85以下)

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 もちろん、法秩序がその改廃についての規定を有し得ることは疑ないが、右に一言した如く、かかる規定をもたないこともあり得る。かかる場合、一度発布された法律・命令は特別の改正規定がない限りは改廃できないであろうか。法内容的問題としても、メルクルは否定するが少なくともこれらの法を創設する権限ある機関は後法の創設によって前法を改廃し得ると見るべく、或る機関に対する法創設の授権は、決して該機関に一度定立した法をもはや絶対に変更してはならない義務を負わせるものではなく、単にそれに法の創設に当って右の授権の限界を越えてはならぬという拘束を加えるに過ぎないもので、法律定立の授権は原則としては従来の法律の改廃のそれをも含み、これがために特別な改廃規定は不要のものと解すべきである。一般に改正規定なくとも、特別の制限規定がない限りは法は原則として変更可能であり、後法は前法を廃止するものと見るべきである。しかして実定法による右の制限規定には限度があって、可変性という法本質的属性と窮極において矛盾衝突し得ぬもので、立法機関の議決によって lex posterior の命題を廃止しようとする如きは、モーアのいう如く「全く無謀の企図」である。
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ここでメルクル、ピタミック(Leonidas Pitamic)、ケルゼン、モーア(Julius Moór)の引用の原典を示す注が七つ記されますが、省略します。
本来であれば清宮が各説を正確に引用しているかを検討しなければならないのですが、それは原典入手の手間と時間、そして何より私のドイツ語能力(ドイツの小学校低学年ないし幼稚園児レベル)の問題があるので、立ち入りません。
特に確認したいのはメルクル説と「法段階説」の関係ですが、「メルクルは否定するが」の後、「少なくともこれらの法を創設する権限ある機関は後法の創設によって前法を改廃し得ると見るべく」以下の内容は一応妥当だと思うので、やはりメルクル説には問題がありそうな感じはします。

さて、注を七つ記した後、更に若干の説明が続きます。
この部分は(その16)で既に紹介しているのですが、参照の便宜のため、再掲します。

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 かくして、一般には後法による前法の廃止が認められるとして、しからば、前法において自ら後法による廃止変更を禁ずる旨を明定する場合は如何。ここでわれわれは長い道中の末、わが選挙法の規定に帰って来た。廃止変更禁止の宣言にも永久不変更を宣言するものと、選挙法の例の如く一定の期間を限るものとがあり得る。前者は「永久法」、殊に「永久憲法」の問題であるが、紛糾を避けるため別の機会に譲る。選挙法の例において十年不更正を宣明する条項についていえば、憲法との問題は別として、十年くらいの不更正は法の可変性とも矛盾せず、立法政策の問題はとに角、法の内容としては可能である。さて、かかる条項あるに拘わらず、十年以内に内容の異なる別表をもつ法律を制定する時は、同一立法機関によって成規の手続を経て行われるにしても、後に制定された法律は前の法律に違反する法律、違法の後法になりはしないか。この場合、直ちに lex posterior の原理で説明しようとするのは早計である。
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これで「三 lex posterior」は終わって、「四 違法の法」に移ります。
ま、個人の趣味の問題ではありますが、「長い道中の末」云々は、先の『平家物語』的な「遂に流転必滅の運命を免れ得ぬように」と同様、妙に叙情的というか講談的というか漫談的というか、ちょっと不真面目な印象を与えますね。
これは、あるいは「苦しまぎれ」の叙述を続けていることの照れ隠しなのかもしれません。

「十年くらいの不更正は・・・」─「窮極の旅」を読む(その16)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/42800beaaa96ec8c253d631ee97c5717

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「遂に流転必滅の運命を免れ得ぬように」─「窮極の旅」を読む(その40)

2015-09-23 | 石川健治「7月クーデター説」の論理
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2015年 9月22日(火)21時15分12秒

さて、「違法の後法」の「三 lex posterior」を紹介し始めて4回目ですが、ここで初めて清宮説が展開されることになります。
そして、清宮に帰依する石川健治氏が情熱的に唱える謎の呪文、「法の本質」、「純粋法学の一つの限界点」、「ケルゼンでさえここでは怪奇な根本規範に逃避」、「純粋法学における動学以上の動学」が全て登場して来ます。(『国家作用の理論』、p84以下)

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 法規範が実定法としては、時間的に通用し、一つの社会的事実として発生、消滅、変更するものと見る以上、不変性・永久性ではなく、可変性・偶然性が法規範に内在する性質、実定法規範の本質と看做されなければならない。不変性・永久性は実は実定法の本質と相容れぬものである。法規範が人間の社会生活における行態についての規範であり、人間の意識的又は無意識的行為によって定立又は形成され、換言すれば創設され、更に変更され、廃止される以上、絶対的の硬定性(Starrheit)ではなく、柔軟性(Biegsamkeit)がその本質的属性でなければならない。単なる観念的形象として純粋に形式的意味における法ならば格別、実定法として時間的に通用する法は結局流動的のものである。朝令暮改の法も、政策的当否は別として法である。固より実定法が一面確実性の要請をもち、多面固定性の要請をもって、可及的に永続しようと求めて存立することは確かである。しかし、われわれ人類を始め、およそこの世に生あるものが可及的長生を求めつつも遂に流転必滅の運命を免れ得ぬように、永続性を要求しつつ生れた法もやがては改廃さるべき宿命をもつのである。近くは前掲選挙法の例の如く、或いはいわゆる硬性憲法における如く、実定法自らが向後の変動を抑制しようとするのも、右の先天的宿命との闘争の努力と見る外なく、否、実定法が、その制定・変更についての定めを有し、最上段階の憲法さえがその変更についての規定をその中にもつのは、総ての法規範に通ずる右の本質的属性を前提としてこそ始めて正当に理解出来るのである。なる程、実定法はその規範の可変性について何等の規定ももたないこともあり得るし、またかくなし得る。それにも拘わらずわれわれは法規範の可変性を容認せねばならないのである。われわれは一般には法規範の創設・変更、従ってその可変性、特別には後法による前法の改廃の問題は、結局は実定法の内容を離れて法の本質から導き出さねばならない。ここにおいてわれわれは純粋法学の一つの限界点に達した。ケルゼンでさえここでは怪奇な根本規範に逃避した。われわれは更に純粋法学における動学以上の動学を構成する必要に迫られる。
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理解が困難な点があるにしても、メルクル・ケルゼン説は極めて硬質な議論でしたが、「われわれ人類を始め、およそこの世に生あるものが可及的長生を求めつつも遂に流転必滅の運命を免れ得ぬように」云々となると、『平家物語』の「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり」も連想されて、ずいぶんと叙情的ですね。
清宮ポエム、とでも言うべきでしょうか。
コメント
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