Mr.コンティのRising JAPAN

マスコミの書かない&書きそうもない!スポーツ界の雑学・裏話を、サッカーを中心にコメントを掲載していきます。

ダスビダーニヤ パルスキー ( さよなら ロシア人 )

2005-10-31 | EURO Football
先週から商用でモスクワに滞在しており、赤の広場近くの旧国営ホテルに投宿している。毎晩赤の広場を横切って マクドナルド や イタリアレストラン に通っているので本当に隔世の思いだ。隔世といえば モスクワ 経済の バブル 振りも異常だ。街は Mercedes, BMW, Audi, Alfa TOYOTA と言った 外車が溢れ運転も携帯を片手に二十歳そこそこの女の子がと言うのも少なくない。レストラン の客単価は US$100 は下らない所が多く、客は二十歳代の若いカップルが大半だ。シャラポワの様な女の子が美味しそうに寿司を頬張っている。その要因は何と言っても原油の輸出。しかもここ数ヶ月の原油価格高騰もあり国益はますます潤っている。かつてG7がこの国が崩壊すれば2億人以上の難民が欧州に流出するので何とか援助せねばという懸念を憶えている人はどれだけいるか? こうなると外交も違ってくる。今は日本の経済援助をカードに北方領土問題を返還させると言う手は使い。その上、エネルギー確保に必死な中国政府がロシアに擦り寄り始めている。70年代は“日本も軍事力を強化して一緒にソ連の侵攻に備えましょう。”と言っていたあの中国政府がだよ?詳しくは知らないがサハリン沖には油田が有り、ここの原油を日本に安く仕入れる為に共同で油田開発を行っていたが、中国がここを狙っている“日本より高く買うから売ってくれ”と。ロシア側もそれを受け入れようとしており、日本政府は自国の国益をどう思っているのか?  だが、ワールドカップでは中露揃っての予選落ちが決まった。ロシアは前回日本に負けており、もう“直接戦えば負かせる日本が弱いアジア地域から出ている”とは言わせない。欧州地区予選第3組はポルトガルがトップで通過し、2位争いはブラチスラバでの スロヴァキア 対 ロシア の直接対決に委ねられた。この対決は アイスホッケー ならメダル争いだが、サッカーではロシアに分があると思われた。予選開幕時はアウェーでポルトガルに 1-7 と歴史的な大敗を喫し エストニア と引分けると前年欧州選手権を指揮した ヤルツェフ 監督は辞任。替わって ロコモティフモスクワ の監督を歴任した ショーミン 氏を監督に迎えた。イグナシェビッチ、双子のヴェレズスキー兄弟,アルドニン,グーセフ,ジルコフ らUEFA CUP を制した CSKA Moscow 所属の選手達や エフセーフ,ロスコフ,ホフロフ,センニコフ,イズマイロフ と言ったLocomotiv Moscow の選手達を中心にチームを再構築。驚いたことに ロシアリーグ 以外で プレー するのは チェルシー の スメルティン 1人だけであった。これも今の経済状態に寄与している。自国の代表クラスは外国に行かずとも国内で十二分に稼げる。それどころか ウクライナ や ウズベキスタン といった他の旧ソ連邦はもとよりブラジルやアフリカ からも選手が集まっている。ここに ショーミン 監督はかつての様な規律と団結を求めたのかも知れない。しかし、スロヴァキアの壁を敗れなかった。彼らも個々の能力は低くなく、FW ミンタル、ビテック(ニュールンベルグ)らブンデスリーガ所属が5名 グレシュコはプレミアシップ ブラックバーンのDF の中心で FW ネメト は ミドルスブラ で サッカールー の エース、ビドゥーカ と共に攻撃の中心だ。また主将のバルガは中村俊輔と同僚の Celtic DF選手。その上共産圏時代の圧制から“MOSCOW には負けたくない”の強い思いが有ったに違いない。“選手達は稼ぎすぎだ。だから勝負弱い。”とは今の ロシアサッカーファン の嘆きだ。だが旧ソ連邦時代からサッカーに関しては欧州でも列強の部類では無かった。個人能力のみに頼れる競技とは異なり、戦術や相手、時間との駆け引きも重要な要素である サッカー では欧州でもトップグループから抜きん出る事は稀であった。五輪でも実績ではハンガリー(64年東京、68年メキシコ)ポーランド(72年ミュンヘン)、東ドイツ(76年モントリオール)チェコスロヴァキア(80年モスクワ)の後塵を拝し続けた。66年イングランドワールドカップベスト4以来、80年代に入ってからワールドカップ(82年、86年連続決勝トーナメント進出)や五輪(ソウル五輪金メダル)欧州選手権(88年準優勝)で実績を残すようになったがそれはディナモキエフを中心としたウクライナや チバーゼ、シェンゲリア らコーカサス地方出身のディナモ=トビリシの選手達が中心であり歴史的に見ても ロシア 共和国の世界的な選手と言えばレフ=ヤシン リナト=ダサエフ と言ったGKくらいか? 戦後間もないころから日ソ間ではスポーツの興隆が盛んで1978年秋には今のウクライナ代表監督のオレグ=ブルゥーヒンのいたソ連代表が来日した。他にも50年代から80年代にスパルタクモスクワ CSKA モスクワ、ディナモらが来日し、日本代表も何度かソ連に遠征をしていた。それは日ソ間で相手チームの滞在費用を持ち、お互いのチームの派遣をしましょうと言うスポーツ文化交流の一環でもあった。バレーボールでも日ソ交流バレーと名を卯って男女の代表チームがよく来日していた。 1978年3月に全ソビエト3部リーグに所属する アムールブラゴベシチェンスク と言うチームが来日した。このチームにさえ日本代表は勝てなかった。またこういった交流をまた復活させられないか?少なくともサッカーでは互角以上の勝負はすると思う。発展した姿を見せ付けてやりたいが、それはもう3年前に稲本のゴールで果たしたか??

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1 コメント

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とても勉強になりました (Lio)
2005-11-17 15:46:14
Mr.コンティさん今日は。



先日は私のブログにコメント頂き、有難うございました。



私はまだまだ不勉強で、現代サッカーの知識も不十分ですが、歴史については尚更知らない事ばかりです。ですからとても勉強になりました。有難うございます。



これからも勉強させて頂きます!
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