Mr.コンティのRising JAPAN

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哀愁のブカレスト対決 UEFA CUP 準々決勝から

2006-04-03 | EURO Football
Champions League は今週ベスト4が決定する。その一方で欧州のもう1つのカップ戦、UEFA CUP も歩準々決勝 First Leg が30日行われた。私の注目は何と言っても Rapid vs Steaua のブカレスト対決だ。私の最も好きな欧州のクラブチームこそ Steaua Bucuresti だ。ルーマニアの首都ブカレストは今から12年前に商用で駐在した事のある街だけに今、街の様相がどう替わって、人々の生活ぶりがどれだけ向上しているかを知りたいと思う。当時はワールドカップアメリカ大会が行われていた。決勝トーナメント1回戦でマラドーナが大会から締め出されたアルゼンチンを 3-2 で破った夜は街中大騒ぎで、準々決勝でスウェーデンにPK負けした時の市民の落胆振りは痛いくらいだった。当時の中心選手は欧州でも屈指のMFゲオルゲ=ハジ、ACミランにも所属したストライカーのラドチョイ、アルゼンチン戦2ゴールのドミトレスク、中盤にはゲオルゲ=ポペスク、ルペスク、DFのベロデディッチ、ダン=ペトレスクと非常にタレント揃いであった。 そして当時は今ほど拡大されていなかった Champions League には Steaua Buchuresiti が参戦。ベンフィカ=リスボン、アンデルレヒト戦を観戦した。残念ながらエースのマリウス=ラカトシュがクロアチアのハイデュゥク=スピリット戦で退場になり3試合出場停止処分になったのが原因で次のラウンドには進めなかった。 国内リーグもよく観にいった。ステアウア、ディナモ=ブカレスト、ウニベルシュタテア=クライオヴァ、そしてラピッドの直接対決を堪能したものだった。最近のルーマニアは欧州カップ戦どころか、代表チームは2000年の欧州選手権のベスト8以来、ワールドカップ、欧州選手権の本大会出場がない。伝説のMFハジの引退以降、低下線を辿る一方だ。1985-86年のChampions Cup のタイトルを勝ち取った事を憶えている人はおられるだろうか?セビージャで行われたバルセロナとの決勝戦。試合は延長戦でも勝負がつかず、PK戦でステアウアが栄冠を手に入れた。戦前の予想では圧倒的にバルセロナが有利。というよりもルーマニア自身がワールドカップでは1970年大会、欧州選手権では1984年大会くらいしか予選を突破出来ず、その存在自体が欧州の列強から忘れられていた。しかしバルセロナの監督テリー=ベナブルズは試合途中で西ドイツの中心選手ベルント=シュスターを下げ、彼はそのまま競技場を後にしてしまう。ベナブルズこそ前年、ヘイゼルの悲劇の際にリバプールの指揮を担っており、イングランドのクラブチームは欧州カップ戦に謹慎中であった。 この時のステアウアのメンバーを去る3月15日、今のオーナーである Gigi Becali 氏が思い出の地セビージャに集めた。この企画は “ Gesture of Gratitude: 感謝の意思表示”と、命名され当時エースで現在会長職( Exective President )に就いているマリウス=ラカトシュを始め、英雄達を招待しは。そして翌日のUEFA CUP の Betis の試合に臨むという運びであった。招待を受けたのは当時のコーチだったEmeric Ienei, 主将のStefan Iovan 、累積警告で出場できなかったTudorel Stoica 、そしてAdrian Bumbescu, Ilie Barbulescu, Mihail Majearu, Lucian Balan, Marin Radu、Constantin Pistol らが当地に集った。そして極めつけはこの試合の殊勲選手、GKのHelmut Ducadam。 彼こそバルセロナ4選手の繰り出すPKを全てストップした立役者だ。そして私はここで1つの確信を得た。このドゥカダムに就いては逸話がある。この年の末に東京で行われたTOYOTA CUP には英雄ドゥカダムは右腕の“血行障害”と言うことでやってこなかった。第二キーパーのスティンガチョがゴールを守った。そして実はこの血行障害は当時独裁政権下であったチャウセスクの長男ニクが狩猟にドゥカダムを招待しニクの銃弾が誤ってドゥカダムの腕を撃ち抜いたと聞かされた。だが1995年,更に驚くべき報道が。憎きバルセロナをChampions Cup 決勝戦で破ってくれた立役者ドゥカダムにレアルマドリードがベンツをプレゼントし、そのベンツをチャウセスクが差出を求め、拒否をしたドゥカダムを秘密警察が拷問を加え、彼は死んでしまったと伝えられた。事実 Champions Cup 決勝戦以降かれの勇姿をルーマニア人でさえ見たものはいなかったらしい。そして2003年更に驚かされることが。商用でオーストラリアに滞在中、たまたまルーマニアからの移民と話すきっかけがあった。そして彼から“ドゥカダムは実は元気に生きている。彼は当時死んだことにしてもらい姿を隠し、時代が変わるのを待っていたとコメントしている”と教えてもらった。しかし、その事を確かめる術も無くいつか自分の記憶の片隅に埋没して行った。このドゥカダムの一連の出来事は私にとってはビッグサプライズであった。彼は“この決勝戦以来一度UEFAにこの地に招待をしてもらった。明日(3月16日)の Betis との試合には当時自分が付けていた手袋を Steaua の(現役)GKCarlos Alberto Fernandesに貸し、この試合の勝利を祈る”とコメントした。試合は実際にグローブを借りたかどうかは不明だがホームの Besits の猛攻を Fernandes が防ぎ、後半 Iacob とNicolita の2ゴール、合わせて3ゴールでものにし、準々決勝でのブカレスト対決が実現した。この試合はセビージャのBetis のホーム Manuel Ruizde Lopera 競技場で行われ、20年前、同じセビージャで披露された快挙を再現した。 Becali オーナーは試合の結果に大喜びその反面、ここにこられなかった英雄達も気遣った。現在ルーマニア代表監督のVictor Piturca は多忙で、ワールドカップアメリカ大会で代表監督として指揮をとったAnghel Iordanescu はスイスでの会議で。TOYOTA CUP で幻のオフサイドゴールを決めたMiodrag Belodedici はSlovakia でルーマニア協会の技術委員長としの任務にあり、PK戦でラカトシュと共にゴールを決めたFW選手Gabi Balint は国内クラブチームFCU Politehnica Timisoara のコーチとしてこれまた時間が取れず, 第二キーパーでドゥカダムの代わりにTOYOTA CUPに出場したDumitru Stangaciu はポーランドの Wisla Kraków のコーチ業で,そしてStoica はブカレストでの事業が忙しくてそれぞれ当地にこられなかった。  
注目のラピッドとのブカレスト対決の初戦を引分けたステアウア。第二戦は4月6日に ホームの Ghencea 競技場(昔は Steaua Sutadium と呼ばれた)は改修工事で使えないのでLia Manoliu 競技場で行われる。 Ghencea はルーマニアで随一のピッチコンディションを誇り、幾多の国際試合がここで行われ、私もワールドカップ予選( 1993年10月対ベルギー戦)欧州選手権予選 ( 1995年3月対ポーランド戦)を観戦した事もある。2004年に日本代表がルーマニア代表と試合をしたときは何故か National Stadium が使われたが。 このピッチの違いがどう影響するか? ただこの時点で既にルーマニアのクラブがベスト4に進出することは決っており勝者は FC Basel vs Middlesbrough 戦の勝者と当たる。 帰国したらビデオラックを紐解いて?1986年のリーベルプレートと行われた TOYOTA CUP の試合を観てみよう。 ブカレスト時代のアルバムと共に。


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