Mr.コンティのRising JAPAN

マスコミの書かない&書きそうもない!スポーツ界の雑学・裏話を、サッカーを中心にコメントを掲載していきます。

第26節 サンガ順位を下げる...

2006-10-08 | 京都サンガ J-League
会社を出たのは午後7時少し前。外は土砂降り。“先週末の週間天気予報は当たったなぁ”と思いながら帰途に就く。途中何度かIモードで試合の途中経過を探る。あぁ、大宮が先に点を入れたか… ピッチコンディションはどうだろう?選手達の足元は大丈夫かな?と。最寄の駅に到着するが雨足は弱らない。風もある。こんな状態なら家内に迎えになんて頼めないのでタクシースタンドに。そこには5人ほどタクシーを待つ人達が。あぁ早く来ないかなぁ?しかし10分程度待ってもまだ来ない。雨足と風はさらに強くなる。タクシー会社にとって商売繁盛の天候だ。どれだけ待たねばならないのだろう。 しかし、1台来ると、立て続けにタクシーはやってくる。ほっと胸を撫で下ろして乗車。それでも時計を見ると20分は待ったことになる。タクシーに乗った、と自宅にメールを送ってIモードで途中経過を調べると、あぁ後半に入っているのに未だ 0-1のままだ。家に入ると玄関には子供の通学用の運動靴が新聞でくるまれている。“びしょ濡れで帰ってきたのよ。”と家内が開口一番に。“明日は気温が上がるらしい。”とも。部屋に入ってテレビを点け、テレ玉ことテレビ埼玉にチャンネルを合わせる。時間は後半10分台。オ~~~ットォォォォ。 1-1になっているではないか。しかも田原豊が映っている。確かスタメンには名前が無かったぞ?途中出場か?後に知ったが前半終了前に負傷したアンドレに替わって起用されたらしい。その田原がパウリーニョからボールを受けた所に大宮の久永と交錯しファールを取られるが、ホイッスルに気が付かなかった渡辺がこぼれ球を拾いシュートを放ってしまった。このプレーに主審は“ホイッスル後の遅延行為”と言うことで何とイエローをだす。出された渡辺も京都サポも“そりゃないやろぅ?”の表情。これ以降は大宮の時間が続く。57分には小林のCKに富田がフリーで頭で合わせるが外してくれた。60分に大宮、三浦監督は吉原に替えて前節まで3試合連続スタメンだった桜井を投入。この桜井は浦和レッズからベルディに渡り大宮でプレーをしている。ここ6試合勝利が無く4連敗中の大宮、三浦監督もこの試合は目先を替えたかったか?この桜井がリズムを変えて大宮が更にチャンスを掴み続ける。62分には藤本が左サイドを上がり中に入れたクロスが戻ったサンガの中山がかぶってしまい桜井に渡りフリーでシュートを撃たれるが最後は手島がコーナーに逃げる。小林大吾が上げたそのCKに再びフリーの桜井が頭で合わせるが外してくれた。サンガDF陣、すこしマークが甘いなぁ。65分には京都の石井が前線にロビングを入れて田原に渡るが競ってきた大宮DF土屋を倒してファール。久々に前線にボールが渡った。大宮は連動性を持った動きでボールを繋いでビルドアップしてくる。対するサンガはロングボールが多い、しかし斉藤、中山と言うミドルを撃てる選手がいるので何とか遠いレンジでも撃ってくれればともう。それにこの試合は石井が守備的MFに構えているので斉藤、中山は前に出て来られるはずだ。画面の上方に武蔵野線が強風と豪雨の為に運転を見合わせとニュース速報が出て来た。武蔵野線は元々東京湾岸と東芝や工場地帯である府中とを結ぶ貨物路線で高架の区間が多いの特に強風には弱い。雪には強いのだが。さいたまスタジアムオープンの為に開通した地下鉄路線、埼玉高速鉄道(この運賃がまた高いんだぁ。)を今は使っているが、もしこの路線が無ければ今頃私も、と思う。これもワールドカップ効果か?そう言えばテレビ画面の中を見ると雨が降っている様子は全く見当たらない。アナウンサーも“涼しい京都を熱くするプレーを…”と言っていた。どうやら豪雨は関西地方には無関係の様であった。68分に大宮は小林慶行に替わって斉藤雅人を投入しボランチを入れ替える。斉藤は埼玉、武南高校出身。武南サッカー部のグラウンドが自宅近所にあるので彼とはすれ違ったことはあるかもしれない? 70分、今度は京都、美濃部新監督が動く。林を呼んで、パウリーニョを下げるつもりだ。しかし、そのパウリーニョが渡辺のパスを受けてドリブルで粘り左サイドで倒されてFKを得る。すると美濃部監督は”パウリ、パウリ“と指示を出し、FKはパウリーニョに蹴らせる事を指示する。だが、蹴ったのは渡辺。その直接FKはゴール枠内に飛んだのだがGK江角の正面だった。そしてパウリが下がり林丈統が入るが、また大宮の時間が始まる。72分には右サイドを上がった久永からのクロスに小林大吾がバイシクルシュートを披露。73分には小林大吾が今度は桜井にロングフィードを送り、桜井はサンガゴール前の左サイドでキープし、最後は走りこんで来た斉藤雅人がシュートを放つがサンガDFに当たる。74分には小林大吾が右サイドで粘りサンガDF2人を振り切り逆サイドの桜井に、そして斉藤雅人に戻し、斉藤がクロスを入れるとそこには小林大吾がフリーで待ち構えていた。しかしゴール真正面からフリーで撃たれたボレーシュートはバーの上を越えてくれた。小林大吾はワールドカップ後にオシム代表監督に抜擢され、先のアジアカップ予選の中東遠征にも帯同したが、怪我でプレー出来なかった。Jリーグでも得点が無い試合が続いたがこの日は前半に14試合振りの得点を決めたとの事。京都戦以外で決めてくれよ、と思う。大宮の選手はパス&ゴー が徹底しており、サンガDF陣は後手後手を踏みピンチの連続。なんとかシュートミスに救われている。サンガは78分に角田が自陣からのFKをゴール前にほり込み林が頭で落としたところを田原が走り込んで撃つがバーの上に。そして80分にはまたもや後方からのFKが直接前線の林に渡りそのままシュートを撃つがGK正面に、とロングボール頼りだ。82分には中山に替わって俊足加藤大志が入りこれで3トップの布陣に。美濃部新監督のピッチの選手達への”1点取るんだ“の合図だ。その直後に大宮ゴール前の右サイドで加藤の後方から富田のタックルが入り加藤が倒れるがノーホィッスル。京都ベンチから、美濃部監督らが出て来て怒りをあらわに。それでもプレーが止まらず、大宮の選手がボールを出してプレーを止め、加藤は何とか起き上がる。どうも今日の松村和彦主審はサンガに厳しい笛を吹く。残り時間も少なくなり、パスも縦に縦にと、そして大きくなるが大宮の方がよくボールが繋がる。86分には左から冨田が前線中央の桜井に入れ、落としたところを小林大吾が撃つがゴールポスト右に外れて行く。そこに詰めて来た久永は僅かに追いつかなかった。89分にはロングフィードを富田が左サイドで受け、橋本に繋ぎクロスを入れられ桜井がフリーでヘッドを撃たれるが最後は角田が何とかコーナー逃げる。そのCKからの混戦でのこぼれ球を俊足加藤大吾が拾い一気にゴール前に迫るが大宮MF片岡がイエロー覚悟のファールで止める。これで片岡は累積4枚目で次節、磐田戦は出場停止だ。そして2分のロスタイムでも両者得点が入らず、ホイッスル。美濃部監督が首を振りながらベンチに戻った。巻き返しをはかる京都にとっては痛い引分であったが、試合内容は大宮が押していた様に見えた。大宮は最後まで連動性のある動きが途絶えず、また交替選手が効果的に良いリズムを与えていた。
それに何度大宮にフリーシュートを撃たれた事か???サンガも攻撃陣を増やして2点目を取りに行ったのだが….. 京都は久々に勝点を伸ばしたが….
翌、10月7日。福岡が鹿島破り、勝点を19とし、得失点差で京都を抜いて17位に。そしてセレッソは清水に引分、勝点18でまだ19位。しかし、サンガは自動降格圏内に落ち、その上得失点差 –29 なので勝点で上回らねばならない。 まだ8試合残っているが、これで全く予断が許されない状況になってしまった。次はアウェーでの新潟戦だ。美濃部新監督はチームをどう立て直してくれるだろうか….

柱谷幸一”前”監督

2006-10-08 | 京都サンガ J-League
10月3日、あるサンガサポーターの方が開設するブログで知った、“柱谷監督解任”の報。 第25節、地元西京極で開催された浦和レッズとの試合で 1-5 と惨敗し梅本球団社長、稲盛名誉会長ら首脳陣はとうとうこういう決断を下した。伏線はあった。8月27日の横浜Fマリノス戦、岡田前監督辞任の後を受けて監督デビューとなった水沼新監督との“同期対決”を 0-4 と完敗した後にとうとう稲盛名誉会長が“重症だ、こりゃ.…”とのコメントが飛び出し、梅本社長も“長い間任すといっても、状況は変化するもの”と解任を否定しないコメントを。 翌日28日のスポーツニッポン紙には珍しくこの試合が1面を飾り“同期柱谷監督解任決定的”の見出しも躍った。第17節のガンバ大阪戦からその横浜戦まで4試合連続4失点。翌清水戦から失点は減ったが24節の千葉戦まで4試合で1得点と今度は得点が取れなくなってしまった。そして9月30日の浦和戦の5失点惨敗。よく考えればこの1ヶ月間首脳陣はよく“我慢”をしたとも言える。 同じ昇格組みの甲府が前節は優勝争いをするガンバから白星を挙げるなど活躍するなか、“J2覇者”の京都が何故出来ないのだろう?と言う思いを持つサンガサポーターも多い事だろう。
私が柱谷前監督の存在を知ったのはもう28年も前になる高校時代だった。当時京都高校サッカー界では最強だった京都商業のエースとして彼は君臨していた。柱谷氏は私の2学年上、サッカー部の友人に“京商の2つ上にものすごい選手がいる。”と教えてもらったのが彼であった。だが当時の全国高校サッカー選手権大会では京都府と滋賀県で代表枠が1校のみ割り当てられ私が高校に進学した頃は滋賀県勢の方が強く、柱谷氏が高校3年生の時は滋賀県の守山高校が全国大会へ出場を果たした。その前年度も滋賀県の水口高校が全国出場を果たし、昭和51年度に京都商業が京滋地区代表として全国出場を果たした。当時の柱谷は1年生で、自身全国出場されたかは知らない。その一方で同期の水沼貴史横浜監督は、同年度、1年生ながら浦和南高校の全国優勝メンバーに名を連ね、以降3年連続全国出場を果たしている。この水沼、柱谷の両者は昭和50年度の全国中学選手権大会で直接対決をしたらしい。準々決勝で埼玉県代表の本太中学がPK戦の末に京都府代表の双ヶ丘中学をとの事だが、本太中には水沼がおり、双ヶ丘中には柱谷の両選手がそれぞれ中心選手として活躍したらしい。そして本太中は優勝した。
私が高校2年生の時、日本でFIFA U-20 大会が開催された。当時はワールドユースサッカー大会とも言われ、大会ポスターに本宮ひろし氏の劇画が使われたりした。当時未だ2回目のこの大会は、初回はチュニジアで、そして翌第3回はオーストラリアで開催され、サッカー発展途上国のサッカー振興の目的もあり資金面のサポートをコカコーラが担っていた。従ってコカコーラ杯とも別称された。“メキシゴ輪”を知らない世代にとって初めて日本サッカーが世界の舞台に立つのを見た大会で、アルゼンチンのマラドーナ、ラモン=ディアスそしてパラグアイのロメロが話題となった。そのユース代表強化試合に柱谷、水沼の名前がよく上がっており、彼らは最終メンバーにも残り栄えあるこの大会に出場した。そして国立競技場で行われた初戦のスペイン戦には2人とも揃ってスタメン。柱谷は途中でベンチに下がったが水沼はフル出場。しかし試合はスペインに0-1と破れる。続くアルジェリア戦も0-0の引分。そして1次リーグの最後のメキシコ戦を迎えた。既に両チーム共に決勝トーナメント進出の可能性は消えていたが、国立競技場(日本の試合は全て国立で開催)には満員の観客が詰め掛けていた。クライマックスは後半16分、左からのセンタリングをゴール前に詰めていた柱谷がスルー、そこに水沼が走り込んでプッシュし日本が大会初得点を挙げた。今からこの得点が2人の間を駆け抜けたボールから生まれた事が今までのこの2人と言うよりも日本サッカーの流れを暗示していたのかもしれない。 この大会直後にユース代表の主将だった尾崎和寿夫はニューヨークコスモスとの試合に代表抜擢され、1982年のアジア大会では攻撃の中心選手となる。一方の柱谷も1981年、ポーランド戦でAマッチデビューを果たす、そして水沼貴史のAマッチデビューは1984年シンガポールで開催されたロス五輪予選まで待たねばならなかった。それは恐らく2人のプレーススタイルに違いが有ったからだろう。水沼は得点も取れるがゲームメークも出来る選手。そして柱谷は当時の典型的なストライカータイプ。永井良和、碓井博行といった70年代を風靡したストライカーが丁度世代交代の時期であった一方、木村和司、金田喜稔といった“攻撃的MF”型が既に代表に定着していたという事にも寄与するだろう。従って惨敗したロス五輪予選後に金田が代表引退を決めると、そこに水沼にお鉢が廻って来る。その効果は直ぐに現れ1984年10月ソウルで行われた日韓定期戦では決勝ゴールを水沼が決め日本が韓国で初めて韓国に勝った快挙に貢献した。そしてメキシコワールドカップ予選には水沼は木村和司と共にMFを形成し、柱谷は長身の原博美と前線を組むことになる。しかし、最後は韓国の軍門に降りワールドカップ出場はならなかった。そして柱谷も東京で行われた韓国戦には累積警告で出場できず、続くソウルでの最終戦では森監督は水沼よりもテクニックの高いジョージ与那城を起用した。 このワールドカップ予選後から柱谷は代表に呼ばれなくなる。森氏の後を受けた石井監督はDF重視の布陣を敷き、攻撃は原博美、松浦敏夫の”ツィンタワー“とブンデスリーガから戻ったベテラン奥寺の左サイドからのひらめきのみに掛かっていた。木村和司は守備に難点があるとして声がかからず、そして水沼も呼ばれなかった。しかし、1987年6月に行われたシンガポールとのソウル五輪予選の試合で召集された水沼は値千金の決勝ゴールを決め、以降攻撃の中心選手としてソウル五輪予選、そしてイタリアワールドカップ予選を戦うことになる。しかし、アジアの壁は厚く、世界の舞台は遠かった。1990年代に入るとブラジルから KAZU こと三浦知良が帰国し1993年のJリーグ発足へと流れる。降って沸いたようなJリーグブームの中にも柱谷、水沼は”ベテラン選手“としてプレーをし、特に柱谷はJ発足後は日産を離れ浦和レッズで開幕を迎え、後に柏レイソルにも在籍し、水沼と並んで”プロリーグの“得点シーンを何度か見せてくれた。
17年前ユース代表で我々に初めて世界との戦いを見せてくれたユース代表であった二人が今やチームを指揮する立場に。それだけに柱谷氏の監督解任の報は彼と同年代の人々が歩んだ道程を思い出させた。
そして今日、10月6日、西京極に大宮を迎えた。関東地方は朝から大雨だ、京都はどうだったのだろう…..