Mr.コンティのRising JAPAN

マスコミの書かない&書きそうもない!スポーツ界の雑学・裏話を、サッカーを中心にコメントを掲載していきます。

14年振りのブルガリア  

2009-05-25 | EURO Football

フランクフルト空港からルフトハンザ機で約2時間。 機体は予定通りにブルガリアの首都ソフィア・ヴラジデヴナ国際空港に到着した。
当地を訪れるのは14年ぶり。当時は仕事で隣国ルーマニアの首都ブカレストに駐在しており、ブルガリア市場参入の可能性を探るべく約1週間の日程で同地を訪れたのだった。

“ソフィアは危険だ。充分に注意をしなさい….”

ブカレスト駐在事務所の現地人スタッフらみんなにアドヴァイスを受けた。 
当時のブカレストは独裁者チャウセスク政権が倒されて約4年後、しかし独裁政権の負の遺産はあまりにも大きくルーマニアの復興はあと何年かかるのだろう….とてもこう言う市場に売り込みをかけて成果が上がるのだろうか…. と思いながら駐在員生活を続けていた。 ブルガリアは更に”その上を行く“と想像していた。
しかしそれが杞憂にであった事は街に入ってからすぐに解かった。 当時ルーマニアに無かったマクドナルドこそソフィアにもまだなかったがピザハットやルーマニアに無い“西側の店”がいくつもあり街の様相はブカレストよりもはるかに進んでいた。 
さらに当時の現地通貨事情もルーマニアレイよりはずっと安定しておりドイツ等の西欧諸国はルーマニアをすっと飛ばしてブルガリアに既にかなりの投資を始めていたのだった。当時宿泊したホテルは故黒川紀章がデザインしたビトウシャホテルと言う立派なホテル。中には和食レストランが入っておりほぼ1年ぶりの寿司に涙が出そうになりながら舌鼓を打ったことを覚えている。 そしてホテルにはボーリング場も設置されており、またテレビチャンネルも衛星チャンネルが充実。 トヨタカップの Velez Sarsfield 対 AC Milan の生中継を観たのを覚えている。(ただし衛星チャンネルは当時のブカレストでも視る事は可能で住んでいたアパートでも契約をすれば視聴でき、これが無ければブカレスト生活は1か月も持たなかったと思っている。)

ソフィアを発つ前に今度はブルガリアで知り合った現地の人達が

“ブカレストは危険でしょう。充分に気を付けて。そしてすぐにソフィアに帰って来なさい。” 

と言ってくれた。 そしてブカレストに帰って

“ おかえりなさい!ブカレストにもう安心だ。ソフィアは危険では無かったか…..”

と案じてくれた地元の人達に率直にソフィアの様相を話したが当時は誰も信じてくれなかった………..

ソフィア空港から街中まではタクシーで20分程度。 料金も 15 Lv. ( 約975円) 最近でもまだ観光客に法外な料金を吹っ掛ける運転手もいるらしいが国の面子の為にも何とか統制をはかっているらしい。街に近づく前に既に私が知るソフィアとは大きく変わっている事を幾つも発見した。 
まず乗用車の数が激増している。しかも Audi , OPEL, BMW そして Mercedes Peugeot 更に TOYOYTA と言ったブランドが並ぶ。 14年前でも数少ない乗用車でも見られたのは LADA, Skoda, DACIA 更に旧東ドイツのトラバントでさえも。
“今そんな車種は博物館行きだ。”今回知り合った人がそう言っていた。 
街に入れば更に違いが。 当り前だが MaCdonald のみならず STARBUCKS や Pizza Hut それからまだ完成していなかったが DUNKIN DONUTS と言った店舗が立ち並び人々は当たり前の様にそこに出入りしている。
当時の面影を残すのは街中を走るトラムやトロリーバスそして地下鉄への通用口階段で花や洋服を売っている老婆達……

    


ブルガリア Football は柏レイソルでもプレーしたかつての英雄 Hristo Stoichkov が有名だ。その前のアメリカ大会予選、ご存知の方も多いと思う。 
パリの Parc de Princes 競技場で行われたフランスとの地区予選最後の試合、終了直前に Emil Kostadinov のゴールで勝利を収めたブルガリアは翌年のワールドカップ出場を決め5年後ホスト国に決まっていた地元フランスがまさかの予選敗退となった。 それからしばらくしてフランス人の友人からは “我々は日本と同じ運命を辿った。”と言われた。
ワールドカップでは初戦のナイジェリア戦に 0-3 で完敗した後、Stoichkov の2つのPKを含む 4-0 でギリシャに快勝する。これはブルガリア史上初めてワールドカップで勝った試合であった。 
続く相手はアルゼンチン。誰もが苦戦を予想したがマラドーナが薬物使用に陽性反応が出て大会から追放され、そのアルゼンチンにStoichkov そして Nasko Sirakov のゴールで 2-0で快勝。マラドーナを失ったアルゼンチンは続く決勝トーナメント1回戦ではルーマニアに敗れ3大会連続決勝進出の夢は潰えた。アルゼンチンはブルガリアそしてルーマニアに連敗を喫し帰国した事ととなった。ブルガリア戦の前半で Caludio Canniggia が負傷退場しルーマニア戦も出られなかったのも痛かった。 ブルガリア戦、ルーマニア戦と当時横浜マリノスでプレーする Medina Bello が途中出場した時はうれしかったなぁ……

一方のブルガリアは決勝トーナメントに入って更に調子があがる。1回戦ではメキシコをPK戦の末に破り史上初めてワールドカッフベスト8に進出。 PK戦で殊勲のファインセーブを見せたGK Borislav Mihailov に地元局アナが “ ブラボー!ボブ !”を連発。地元ではしばらくそれが流行語となったらしい。 しかし更なる快進撃は準々決勝。前回王者のドイツを Lothar Mattaeus のPKで先制されるも Stoichkov そして Letchkov のゴールで逆転勝で葬ってしまった。 準決勝ではイタリアに敗れ、続く3位決定戦でもスウェーデンにいい処なく 0-4 で完敗したが、凱旋帰国した彼らを何万人もの地元の人々が出迎えたとの事だった。
大会得点王となった Stoichkov の存在は世界に示される事に。 しかし彼は 1990年から FC Barcelona に所属。1992年5月にUEFA Champions Cup の優勝メンバーでもありこのワールドカップのシーズンもロマーリオ、クーマンらと共にバルセロナに所属。 決してワールドカップでの“出現”が予想されない選手ではなかった。
この3位決定戦を私は当時の赴任先のブカレストで数人の地元の人達とテレビ観戦していた。 隣国ブルガリアを応援するかと思っていたが、ブルガリアが失点する度にテレビを指差して嘲笑をしていた。 自国はその前にスウェーデンにPK戦で敗れていた。 そのスウェーデンに勝たれては……と思ったのかな?
その時口に出しては言わなかったがもしルーマニアが準々決勝でスウェーデンを破っていれば準決勝では恐らくブラジルに敗れていたであろうからこの3位決定戦はブルガリア対ルーマニアの隣国対決となりもっとエキサイトしたものとなったのではなかっただろうか……….

その後のブルガリアは翌年の欧州選手権予選でドイツを破るなど好調を持続、イングランドで開催された本戦に進出するがフランス、スペインに続いて3位となり最下位のルーマニアと共に1次リーグで敗退した。 ワールドカップは続くフランス大会にもロシアを抑えて地区予選を突破し本大会に進出。ストイチコフらを擁したがナイジェリアに敗れ1次リーグを突破できなかった。最後のスペイン戦は 1-6の大敗であった。そしてストイチコフが代表を引退して以降、1998 年ワールドカップフランス大会以来2大会ワールドカップそして欧州選手権には2004年のポルトガル大会に地区予選を突破したが Group League ではスウェーデン、デンマークに連続して 0-5 で大敗するなど見せ場なく帰国した。   

多くの人達はこのアメリカ大会のブルガリアの活躍を記憶しているだろうが、私は中学の時に来日したブルガリア代表の事も忘れられない。 
当時欧州の代表チームが来日する事は非常に珍しかった。 1976年1月モントリオール五輪予選への強化試合としてブルガリア代表を招待し日本代表と当時としては珍しく3試合代表Aマッチが組まれた。 メンバーも2年前のワールドカップ西ドイツ大会の本戦出場した時の中心選手 Hristo Bonev そしてGKRumen Goranov , DF Dimitar Penev, MF Bojil Kolev ら4人のワールドカップメンバーを擁していた。 
試合は1月25日の初戦は釜本のゴールで先制するもその後3連続得点を許しブルガリアが底力を見せる。第二戦は1月28日舞台を大阪に移し Bonev , Kolev らワールドカップメンバーを残すもメンバーを若手に切り替えた。そのせいか日本代表も 1-1 と健闘し引き分けとした。しかし2月1日の国立競技場の最終戦では貫録を見せ日本代表を 0-3 で一蹴した。私は初戦に試合をテレビ観戦していたが例え敗れても欧州代表を相手にしてもゴールを決める釜本は流石だと思った。

宿泊したホテルから走って15分程度のところに National Stadium がある。 共産圏時代に建造された事を象徴する大きな競技場で周囲にはアスリートの銅像がいくつも建てられていた。 照明塔は競技場の外から建てられている。競技場の迎えには “スポーツ省”の建物があった。競技場内にはスポーツ博物館があるのだろうか…….もしあればどういう選手が讃えられているのだろう……
共産圏時代は国威掲揚でスポーツ振興もすごかっただろうなぁ……..

     

トルコの英雄、重量挙げのスレイマノグルがソウル五輪前にブルガリアからトルコに亡命した時にトルコ政府はかなりの金を払い亡命を認めさせ、ソウル五輪でトルコ史上初の金メダルを買ったと言われている。 
この国が1398年から約500年もの間オスマントルコの支配下におかれ現在でもトルコ系住民が多くイスラム寺院と教会が並ぶ独特雰囲気がそれを思い出させる。 1878年南下政策を続けるロシアの手助けを得てサンステファノ条約で自治権をブルガリアは得るが当時のロシアの南下、影響の拡大を恐れた欧州列強は干渉をはじめ、1911年にはマケドニアの獲得の為にセルビア・モンテネグロ、ギリシア、とバルカン同盟を組みオスマン朝とバルカン戦争を戦い勝利を収めるが今度は戦勝国同士で領土割譲がこじれ第二次バルカン戦争が勃発した。これに敗れたブルガリアは領土奪還の野心から第一次世界大戦では同盟国側に第二次世界大戦では枢軸国側に着くも共に敗れ戦後はソ連主導の社会主義国建設が推し進められたのだった。街にあふれるキリル文字、そして人々も話す言葉、それはブカレストのそれとはまったく異なるものであった….

今、日本代表がブルガリアとワールドカップで同じ組になったらどういう勝負をするだろう…..今の日本代表が中学時代に来日したあのチームと戦えば…..そしてブカレスト駐在時のワールドカップアメリカ大会のメンバーと戦えばどういう試合をするのだろう…..ソフィアの人が知っている日本人選手はいるかな? 中村俊輔くらいは知っていて欲しいな…..

滞在中は大相撲名古屋場所が行われていた。 琴欧州の報道はあまり見なかったけど…… 5月27日、ローマで行われる UEFA Champions League の決勝戦。 Manchester United の攻撃陣には Ronald , Rooney と並んでブルガリア人FWの Berbatov がいる。 タクシーのラジオから流れて来るニュースでは何やら彼の事を報道していたが日本で見られるような過激な報道は見られなかった。 まだ早かったかも知れないが…..

過激で無く、過熱もなく、 旧共産圏でスポーツ振興に歴史のあるこの国のそれがスポーツ選手に対する最良のマナーなのかもしれない。 

       


英国紙が報道した FIFA Club World Cup Vol. 5

2009-01-13 | EURO Football

12月22日 Wayne Rooney Strikes gives Manchester United world domination

日曜日の朝の様に穏やかに昨日 ( 12月21日 ) 横浜で世界王者の戴冠を受けた。ほぼ後半突入後すぐから CB の Nemanja Vidic が退場となり10人でのプレーを強いられたが初めてエクアドルのチームとして Copa Libertadores で優勝を果たした Liga de Quito にリードを許す事無く Wayne Rooney の一撃で勝利を得た。
この大会はそれは彼がたとえ自分のスピード狂には似合わない車を副賞とした大会のベストプレーヤーに与えられる Gold Ball を受け取った時に Rooney の為の大会となった事が確認された。とにかく Rooney が必要なのはもっとモダンな輸送車であるが彼のベストワークは相変わらずでいかなるリムジンよりも素早く走り抜けた 
それはまたもゴールを挙げ今大会108分の出場時間で3得点を決めた事になった事や相変わらず傲慢なるまいではなく、彼のプレーが United を2008年に世界征服を達成させたと言う事だった。

   

一度だけUnited は左サイドバックの Patrice Evra が置いて行かれた事があったがそれをカバーしたのは誰だったのか? Rooney であった。Vidic が退場になった後にCBの Jonny Evans を投入するためにベンチに下げられたCarlos Tevez は気の毒であったが現実的には Manchester United の監督である Sir Alex Ferguson はFWを外してこのフォーメーションにする他はなかった。決して Englishman にはなろうとしなかった。 Cristiano Ronaldo はまだトリックを使って日本の観衆に嘆息をつかせていたあたかも花火を見せているように。しかし73分にまさにワールドクラスの技術でゴールを決め今季の Manchester United のスターの座を射止めたのは Rooney であった。

Michael Carrick が Ronaldo にボールを回しそこから Rooney に送られたパスを彼は完璧な低い弾道のショットがGK Jose Cevallos を破りゴールに隅に突き刺さった。

  

メンタル的に Ferguson はそれまでPKの準備をしていた。なぜならもし United が11人の Liga de Quito を破れないなら10人では充分に対抗しきれないと思ったからだ。 Rooney がその状況を変えた、素晴らしい選手がそうした様に。 “我々は耐えなければならなかった。そして Wayne か Christiano が何か特別な事をする事を願った。” Ferguson はそう語った。時にはもっともシンプルな事が最善だ。

エクアドル側に就いては失望をしたと言わねばならないだろう。 Boxing Day にはもっと野心を兼ね備えた Stoke City と対戦すると多くの傍観者に思わせた。これは少し不公平だ。 Liga de Quito は自分達が不利であると言う事を受け入れゲームプランを練った。彼らは守備に専念し Alejandro Manso と Claudio Bieler こそたまに United に危機を与えたが中盤はそれにリンクせず専守を貫いた。
“かれらは本当にプレーをしたくなかったんだ。攻撃に転じても4人しかそれにからまず、ついに殻に閉じこもり続けた。” Manchester United の GK Edwin van der Sar はこう漏らした。

“我々はもっとすぐれた南米のチームと対戦した事がある。彼らは Gamba Osaka のゲームメーカー Yasuhito Endo 程の選手がいなかった。” Ferguson は語った。
そうだ、いなかった。 Endo こそここで United が相対したベストプレーヤーだった。

しかし Liga de Quito が攻撃にイマジネーションを欠いたが 89分の Manso のロングシュートは試合を決める為には Van der Sar の素晴らしいセーブを必要とした。 “我々はここのはるばる勝つ為にやって来たそしてそれは我々に踏み切り台になるだろう。 チームのスピリットが今日の試合を勝たせた。敗戦を喫した選手達と帰国の途に就くのは厳しい、しかし勝利を手にした。勝つべくしてかったのだ。そしてクラブも我々もそこに行きつく。はじめから言っていた通り人々はこのトロフィーに刻まれた名前をみてもらいたい。そして今後30年間にも。 私はまだそこを見てないが明日ゆっくりと誇りを持ってみる事だろう。” 

主導権を握っていたのは United であったが彼らを窮地に立たせたのは自身であった。48分に Vidic が Bieler と交錯して倒れた時にアルゼンチン人の顔を押さえつけて立ち上がったのが Vidic であった。それは残忍と言うよりもむしろ不機嫌であったがいったん Bieler が自分の任務を終えるとウクライナ人の Ravshan Irmatov 主審は予想通りにレッドカードを取り出した。そして United に狂乱じみた調整を残した。 それは後半の間ずっと静寂をもたらした。 United はそのときありふれたチャンスをものに出来ないという呪いが United や Rooney, Tevez そして朴智星を普段以上に打ちのめすと思われた。 思い通りにならないことに、決定機は先に Liga de Quito に訪れた、そしてフルバックの Jairo Campos は恐らくまだなぜあのようなフリーで至近距離からの絶好機をミスしてしまったのだろうと後悔しているだろう。 しかし彼のしたことは United にとっては幸運であった。 エクアドルのチームは一旦リードを奪うと最後までそれを守る術を知っていそうであったからだ。

    

しかし彼らに無かったのは Rooney の様な選手だった。個人で1分で試合を決めるそして次に最も規律を重んじる選手を。 2004年の欧州選手権以来彼が活躍したのは2度目だ。そして代表監督の Fabio Cappello にとって Rooney は欠かすことの出来ない選手である。 Rooney は大舞台の選手であり Ronaldo は大会の2番目に良かった選手に与えられる Silver Ball を手にカメラの前で満喫していた。彼は自分がこの大会では輝いていないことを解っていた。

    

“シャワー室から出て来たときに携帯電話を見ると友人達の ” Congratulation !! 君は世界王者だ“ と打ってきたメールがあった。それらは私を感激させた。” Rooney は言った。 “ 我々は勝つためにここに来た。そしてそれが出来た。 彼はそれを簡単にやって遂げたように見えた、恐らくそうであったとおりに。 

Liga de Quito (4-4-1-1): J Cevallos 6 J Campos 6 R Calle 6 N Araujo 6
D Calderón 6 N Reasco 5 W Araujo 5 P Urrutia 5 L Bolaños 5 A Manso 6
C Bieler 7

Substitutes: P Ambrosi (for Calle, 76min), P Larrea (for Reasco, 82), R Navia (for Bolaños, 87).
Not used: A DomÍnguez, D Viteri, A Obregón, A Delgado, E Vaca, D Vaca, I Chango.

Manchester United (4-2-4): E van der Sar 8 Rafael Da Silva 6 R Ferdinand 6
N Vidic 5 P Evra 7 Anderson 6 M Carrick 7 Park Ji Sung 6 W Rooney 8 C Tévez 6 C Ronaldo 7 Substitutes: J Evans 6 (for Tévez, 51min), G Neville (for Rafael, 84),
D Fletcher (for Anderson, 87).

Not used: T Kuszczak, D Berbatov, R Giggs, Nani, P Scholes, D Welbeck, J O’Shea, D Gibson, B Amos. Next: Stoke City (a).

DF のNemanja Vidic が Claudio Bieler を肘打ちして退場になったのは 1968年 Club World Cup の全身の Estudiantes との Intercontinental Cup を思い出させた。 アルゼンチンでの第1戦は Nobby Stiles が退場となりEstdiantes が 1-0 で勝利を収めた、 Old Trafford で行われた第2戦は George Best と Jose Hugo Medina が終了間際に退場となり試合は 1-1 で引き分け Estdiantes がトロフィーを勝ち取った。


“We have played against better South American teams,” Ferguson said. “They had nobody even as good as Yasuhito Endo, the playmaker from Gamba Osaka.” And, no, they did not. Endo was the best footballer United faced here…….

上記の文が遠藤を称賛していた文章の原文だ。
1995年、日本代表がウェンブリーで England 代表と試合を行った。結果は 1-2 で惜敗したが、取引際にイギリス人に日本代表の健闘を称える電話をもらった。多くの日本人が聖地ウェンブリーで声援を送っていたことも教えてくれた。自分の父親くらいの年齢の人で一度 World Cup England 大会の話をして貰った事もあった。 この時は海外に駐在をしていてだいぶ後になってビデオで試合を観たが、試合翌日には Guarian を買ってこの試合の報道記事をしっかりと読んだ。そして試合前には KAZU のアップ写真入りで” 日出国のストライカー”と紹介された記事があった。 その時、70年代からの日本サッカー界の長足の進歩を確認できたが、この記事を読んでさらに大きく前進したように思えた。

決勝戦の Manchester United は選手を何人か入れ替えてきた。4日間で2試合というスケジュールを考えれば、アジアと南米のチームを相手することを考えれば妥当なスタメンの割り振りかもしれない。
かつて愛する京都サンガに所属した朴智星がスタメン出場したことはうれしかった。でも日本人選手が欧州のビッグクラブでレギュラーでプレーする日はいつ来るのだろうか??
前年の KAKA そして今大会の Rooney と一人で何かをできる選手がいることは本当に大きい。
世界各地で繰り広げられているワールドカップ予選。 England はこれまで4戦全勝。その原動力はすべての試合にスタメン出場を果たし5ゴールを挙げている Rooney だ。
対戦した相手はアンドラ、クロアチア、カザフスタン、ベラルーシ。あとウクライナとはまだ対戦をしていない。4月1日、ホームでのウクライナ戦で勝利をあげられれば本戦出場に大きく前進できる。
ただ参加国拡大に伴い、かつての様にポーランドやイタリアと一騎打ちの地区予選というようなことはないのでまず本戦出場は堅いと思う。  それでも昨年のEURO2008は予選でおちたいてなぁ.....

釜本邦茂選手以来日本にはそういうストライカーが..... と言われてもうどれだけの月日が経つのであろうか....... いっそ鹿児島城西高校の大迫君に期待する方が早いかもしれない。

今年はこの大会はテレビで見られるのだろうか? そのためにはJ-League のチームにアジアを勝ち抜いて貰いたい。  



 



 


英国紙が報じた FIFA Club World Cup  Vol. 4

2009-01-12 | EURO Football

12月20日 Wayne Rooney relishes chance of world crown

Wayney Rooney はManchester United のストライカーとして、2列目として幅広く活躍し続けてきたが今や Stretford End のサポーター達の為に新曲を作ろうとしている。
“今週横浜に我々をサポートしに来くれた人達は “ Champions of England, Champions of Europe “ と歌うだろうが日曜日 ( 12月21日)の試合後には3行目に “ Champions of the World “ と付け加える事が出来るだろう。それは素晴らしい事だ。” Rooney は語った。 OK それは Leonard Cohen でなく Wayne Rooney であると言う事がポイントだ。

世界王者と言う言葉は Manchester United をReal Madrid が選手の供給源と見た時にいかに Unitedが自信を Football の先駆者であると測ったり、自覚させたりするものである。 Club World Cup は真冬のさなかに開催されるなにかであると見られる – 少しリーグは突発的な第39節をほのめかすが – United の選手達がその感覚に気付けば気付くほどこのタイトルは勝ち取るものと言う事が明らかになる。
結局は “ 世界王者の 称号と書かれたメダルに価値を感じないスポーツマンはいるのかという事だ。

“私が United に入団した時、このような大会が私の心を横切る事はなかった。もちろんその時の明確な目的は Premier Leagueでのタイトルであり、Champions League でのタイトルであった。そしてそれから Club World Cup への挑戦権が得られるのでその時は考えられなかった。 勝利のメダルをそろえる野望はある。私は既に Champions League, 2つの Premier League タイトルそして Carling Cupと Community Shield のタイトルをそれぞれ勝ち取った。今シーズンの初めには European Super Cup のタイトルを逃し大変失望した。そして、これまで 2回 FA Cup のタイトルを逃している。だから Club World Cup のタイトルは是が非でも欲しいタイトルだ。何故なら次はいつ挑戦できるかわからないからだ。”

  

United の選手達が初日の時差ボケから惰性的な雰囲気が抜けてそして世界王者のステータスを見据える事に真に熱中するさまを見る様になった移り変わりを興味深く見て来た。 
その部分的な事は常に大陸間での試合を重要視すし、準備不足の Liverpol が1981年東京で Flamengo に敗れた様に United が国際舞台の大会で当惑る事を許さない Sir Alex Ferguson によって回避されている。しかし Football が世界的になるにつれて控室の外国人選手達の声やその選出達の大陸の知識が重要となり、そしてトーナメントが英国ではこの試合が行われる最も価値のある名誉が低く見積もられている。 Liverpool が2001年に Bayen Munchen との European Super Cup 戦に臨む前に Gerard Houllier は England の選手達に League Cup の決勝戦は大変重要だと選手達は監督に教えたのでこのタイトルを真剣に取りに行った。なのでフランスでは Super Cup のトロフィーは大変重要な事を教えこの試合に臨み Liverppol は 3-2 で勝利を収めた。
“オランダではオランダのチームが出まいがこの大会はテレビ中継される。 Ajax のメンバーとして1995年に TOYOTA CUP に勝った時は大変うれしかった。私は代表のメンバーとして世界王者になった事がなかった。しかし私は自分の任務を果たした。” GK の Edwin van der Sar は言った。

明日の対戦相手は初めて Copa Libertadores に優勝したエクアドルからやって来た Liga de Quito だ。監督に Edgardo Bauza はアルゼンチンでは有名だったDF選手で310試合で80ゴールを決めた選手だ。それはストライカーとしてでも胸を張れる。そしてドラマを演じようとしれいる。大会が終わればチームを去ると言う。 “我々は World Kings になる事が出来る。我々は既に世界のベスト2に入っている。それは大変満足のいくものではあるが更に上を求めている。” 準決勝での敗者同士で行われるガンバ大阪とメキシコの Pacchucaの  間で行われる3位決定戦、信じられない準々決勝での敗者間で行われたプレーオフに勝って5位となった Adelaide United らの順位を決めた Bauza の議論を別にすれば、彼らが Copa Libertadores の決勝戦でブラジルの Fluminense を破った事は詳細に値する。
“私はかつてフランス代表としてエクアドルと戦った事があるので Quita がどれだけいい選手達かがわかる。もし世界王者になりたければ周到な準備が必要だ。”United のDF選手である Patrice Evra は語った。
DF のGary Neville はいつもの様に最も現実的だ。 ”我々はこの大会を自国やクラブレベルでさえ重要とはみなしていない。しかし同じ様な考えではいけない。イタリア人やスペイン人がこの大会で勝った時の様子を見てみればどれだけ大きな大会であるかがわかる。“ Champions of England, Champions of Europe Champions of the World. それともどうやって The Club Wolrd Cup を案じる事を止めて愛する事を学ぶのだろう。

  

12月21日 Ecuador’s shock troops determined to spring another surprise

灰色のものを恐れるのは Manchester United のほうである。
12年前 Southampton に 1-3 で敗れた試合のハーフタイムでグレーのシャツを変えた時以来かれらはグレーのストライプのユニフォームを使うのをやめた。 Liga de Quito にはそのようなジンクスは無い。 彼らの新しいユニフォームはグレーのストライプがある。快進撃を続けた Copa Libertadores では他の鮮やかな黒のユニフォームを使っていた。 LDU ( Liga Deportiva Universiaria de Quito : 彼らはフルネームで称される事を望む )は番狂わせを狙う。 Liga de Quito が Fluminense を倒すまでエクアドルのクラブが Copa Libertadores に勝ったことはなかった。 United は恐らく Club World Cup の優勝候補であるだろう、しかし Sir Alex Ferguson は対戦相手が驚愕をもたらすチームである事を知るだろう。 
Copa Libertadores の決勝戦の初戦で Fluminense は高地のQuito で 2-4 で敗れた結果に満足していた。対戦相手の高地でのホームアドヴァンテージが奪われた Fluminense のホームでLDU はリードを守れないと思われたからだった。第二戦に臨むブラジル人達は37歳のGK Jose Cevallos を老いぼれた最終ラインと称したのだった。しかし Fluminense は 3-1 でしか勝てなかった。 Copa Libertadores の決勝戦ではアウェーゴールルールは無かった。従って最後の一戦は Cevallos に勝る PK 戦にまでもつれ込んだ。その決定的瞬間は Thiago Neves が時間をかけ過ぎてボールをセットしたショットに相対した彼がまもるそのゴールに訪れた。 Neves がボルをゴールにけり込んだが主審はやり直しを命じた。そしてふたたび Neves は集中をし GK Cevallos がどちらかに飛ぶことを予測し真正面に蹴り込んだが Cevallos は動かず屈辱的に難なくそのショットは止められて Liga de Quito は PK 戦を 3-1 でものにした。 

  

Liga de Quito のよりどころはすぐに監督の Edgardo Bauzo と要約出来る。 
”我々は Copa Libertadores では優勝候補ではなかった、しかし対戦相手が次に進むためには我々を倒さねばならないと選手達に言い続けた。 Bauza は選手時代にそうした様に対戦相手に対抗する。彼は現役時代 El Paton – Big Foot – と呼ばれておりセンターバックながら技術的な要素も兼ね備え108の生涯ゴールを決めている。そして1990年のワールドカップイタリア大会には代表メンバーにも選ばれた。
Bauza は試合後チームを去る事になる。もし彼が万が一勝者としてそうなるならがハンケチが必要とされるだろう。彼のハードなイメージと異なり彼は Copa Libertadores のトロフィーを勝ち得た後に泣き出してしまった。

     

Bauza だけが Quito を辞めるのではない。何人かの選手達は海外でプレーする野心をもっており、 Club Word Cup は欧州に行くチャンスを勝ち取るものと見ている。 Copa Libertadores の英雄 Jofee Guerron は既に Getafe に移っている。
スペインは Bauza のアルゼンチン人ストライカー Al ejandro Manso と Claudio Bieler にとって最も希望する目的地である。 

 

 

Luis Antonio Valcencia のWigan Athletic での成功は Liga de Quito のエクアドル人選手にとって Premier League でのプレーを考えさせているだろう。 23歳の幅広いプレーヤー Luis Bolanos は選ばれると思われる。 Balanos は 印象的な水曜日の準決勝戦、2-0 で降したメキシコのPacchuca 戦では2点目を決めている。そのゴールはLiga De Quito のチームワークと組織力が集約されていると言われている丁寧なフリーキックから生まれている。 Pacchuca の支配率は64%であった、しかし彼らがビルドアップする際にはプレスを感じそしてカウンターアタックを食らった。 

 

“ Liga de Quito の守備は強固で相手ゴール前では非常に危険だ。典型的な南米のチームだ。" Ferguson は語った。これは半分正しい。 Manchester United と世界王者の間に立ちはだかる彼らは他の南米のクラブよりもずっと難しい相手だ、しかし彼らも他のチーム同様 Manchester United を恐れている。

1995年の TOYOTA CUP の試合がオランダで報道されたとき、日本のサポーター達はハーフタイム中に弁当を広げ Rice Ball をほうばり始めた、と付け加えられており、地元サポーターのゲームに対する”興味の低さ”ぶりが紹介された。しかも数人の子供達がお弁当を食べている写真付きで。 
欧州ではハーフタイム中に”食事”をする習慣は少ない。しかし私が鮨を食べ始めた時は周りに人が集まってきた...... 観客は概ね男性か家族連れがほとんどだけどどんなに寒くてもハーフタイム中には売店に殺到しビールを求める。列を作る”習慣”もないのでそこは修羅場だ。殺到する場所はあとトイレだけど........

中学の時に海外放送を聴くことがはやり私もそれにはまった。今でも時間さえあれば...とは思うのだけど。南米大陸からはエクアドルの HCJB が日本語放送を行っておりよく聴いたものだった。その時はエクアドルがワールドカップに出場するなんてまず考えられなかったが、それは日本も同じだった。

LDU の Edgardo Bauza 監督は19歳の時にアルゼンチンの名門 Rosario Central のトップチームにあがり1982年のシーズンまで6シーズンで310試合に出場し80ゴールを挙げた。そして1990年メキシコのCD Veracruz に所属している時にワールドカップメンバーに選ばれた。背番号は5番だったが出場機会はなかった。 しかし指導者としてもここまで能力を発揮するとはさすがだ。
Pacchuca 戦ではボール支配率は低くても 2-0 できちんと結果を出すところは南米の強豪の証明。試合後の Pacchuca の監督、選手達の落胆ぶりをみるとよほど自信と相手の Name Value を量って試合に臨んだことだろう。

大ベテランのGK Jose Cevallos は1998年ワールドカップフランス大会予選からエクアドル代表歴があり、今でもワールドカップ予選ではエクアドルゴールを守る。残念ながら2002年大会は出場機会がなかったが、来年の南アフリカ大会への出場を目指す。
欧州行きがうわさされる Luis Bolanos もエクアドル代表として目下南米地区予選を戦っている。 

欧州勢に”クラブ世界一決定戦”の舞台に興味を持って引っ張り出させるためには欧州大陸以外のクラブがこのタイトルを取り続けることがこの好ましい。
その一番手として毎年南米勢には期待しているのだが。
今年はどうなるのだろう
........                                           
      次回に続く 


英国紙が報じた FIFA Club World Cup Vol.3

2009-01-10 | EURO Football

12月18日 Sir Alex Ferguson turns to old guard for Machester United in  Club World Cup

Sir Alex Ferguson は自分の崇高なベテラン選手達を近い将来徐々に削減していくこと述べていたその一方で東京の多くのSFお宅の期待を損ねないその冷徹な言葉でロボット的なその人間のついた嘘は結局人々の心を打つことを発見したことはいい事だ。  England のクラブチームとしては初めて Club World Cup のタイトルを Manchester United に狙わせる Ferguson は本日(12月18日)の準決勝、ガンバ大阪戦では Gary Neville, Paul Scholes そして Ryan Giggs に出場を与える機会を見つけた。  そこには現実的な理由も選出の背後にあった。 United は4日間で2試合をこなした後は長旅の後に地元に帰って Boxing Day に Stoke City との試合が控えており、 Ferguson は疑いも無くアジア王者のガンバ大阪には若い最強のメンバーで臨む必要は無いと見積もっている。そこには生齧りの感傷があるのだろうが、現在の Manchester United の成功を築いた選手達が Ferguson の望みを確実にするために Nissan Stadium ( 大会のメインスポンサーは TOYOTA であるが、競技場はネーミングライツの関係で Nissan Stadium と呼ばれる ) のピッチに送られる。
Scholes, Neville そして Giggs らはもしガンバ大阪を破ればおそらく日曜日の決勝戦には出てこないだろう。しかしそれは Old Trafford を変えるチャンスのサインだ。
世界のメディアが伝える Scholes に替わって Ferguson の隣に座る人物は創造的なインテリジェンスを持った United のCentral Midfielder のMichael Carrick だった。United に21シーズン在籍した Giggs は朴智星にとって替わられ、 Nani が左ウィングのポジションを占める。
今も United の主将であるNevile は最も頭を悩ますところだ。例えもし Rio Ferdinand が Premier League トロフィーを掲げる姿がみられて、England 代表でのポジション確保が Ferguson を安心させ、もし仮に右サイドバックのポジションを若い18歳 Rafael Da Silva が有能でなければ。
この3人の選手は United の中では“黄昏”の選手達であることは疑いない。  Ferguson の心は決まっているがそれにもかかわらず、彼ら歴史を作った男達は長年勤めた副官のごとくこの任務を遂行しようとする姿には敬意を払える。

“彼らを再び今回の様に見られる事は難しいだろう。 Ryan は21年ここにいて Paul と Gary は19シーズン目になるそしてWes Brown は我々と13年ここにいる。これは完全に例外的なことで我々は大変ラッキーだ。全てのクラブが選手達とこうなることを臨んでいるだろうが今日の自由契約ではこれ以上見られるとは思えない。 Rafael が国際試合で抜けた時を除けば私のベストメンバーだ。 この大会のように12人もベンチに選手を置いておけることは安心させてくれる。 Premier League でも同じようにしたいのだが。国際的な選手をスタンドに置くことは恥ずかしいことで、それを告げることさえ私は恥ずかしい。彼らとて試合には出たい。しかし若い選手達が台頭してきても彼らは素晴らしいプロフェッショナリズムを発揮してくれる。彼らの行為が勇気付けられる。 Gary Neiville と West Brown を観てみれば彼らは England でも最高の右サイドバックの選手だとわかる。しかし、今は少し問題があるのでブラジルからやってきた Rafael を今は起用している。かれは言葉がわからないが Football は解る。全ての選手達が彼をサポートする。  Gary Neville が右サイドバックでインパクトを見せた時、多くの彼と同じ年齢の選手達がチームにいた。それは兄弟だった。私は Gary を England 代表でも使い続けるだろうがゲームに出ない彼を Fabio Capello が起用することは難しいことだ。私は Gary を知っているが Fabio はそうではない。彼の問題は理解できる。
Paul Scholes に就いては彼の能力を測るのは容易ではない。なぜなら彼は全てにおいて常に良いからだ。先週の Aalborg 戦で彼の幅広いプレーは我々の試合に秩序をもたらす。彼はファンタスティックな選手で、私にシーズン当り 12~15ゴールをもたらしてくれた。今はそれが出来ないが他に彼のインテリジェンスとポゼッションコントロールはといった強さをもたらしてくれる。
Giggs は同様に国際舞台ではベテランの選手でここ東京で1999年に Palmeiras を破った試合では Man of the Match に選ばれた。 
Ferguson の大会への尊敬のコメントは続けられる。 Ryan Giggs は Club World Cup のトロフィーは最も入手し難いもとと語る。なぜなら UEFA Champions League で勝たないとこの大会に出られないからだ。 

   

“それらを全て成し遂げても更に南米王者を破らねばならない。彼らもまた我々が成し遂げたことをやってきたのだ。我々が Palmeiras を破った時、監督はこのクラブはまだ世界王者になった事がないと念を押してくれたので集中することが出来た。そして今は更に大会は大きくなった。世界王者になると言うことは Manchester United を違ったクラブにするという事だ。歴史、数々の成功、 Busby Babe, ミュンヘンの悲劇、偉大な選手達、クラブ、 Sir Alex のもとでの勝利。それら全てを合わせると膨大なものになる。他のどこにも魅惑されたことは無いそれらは地元の選手達に還元されるものだ。 私や Gary Neville の様な選手はどうすれば United の選手となれるかをわかっている。そして若い選手達のよき模範となる。 United でプレーすることは異なったことだ。それを伝えていくのは次の世代の選手達による。” 

    

12月19日 Wayne Rooney’s two-goal salvo takes Manchester United into World  
              Club Cup Final

不思議な民族、それは日本人。彼らは我々の最も野性的な想像を超えた創案を引き出す事が出来る – MP3 トイレに醤油のでる箸 – しかし彼らはシンプルなコーナーキックと中盤からのスルーパスは止められなかった。もしそれで出来ていたなら、 Manchester United は決勝戦に進めなかっただろう。

カーボンコピーの様な Ryan Giggs からのCK からの2得点で試合は前半で決まったと思われた。しかし後半息を吹き返したアジア王者のガンバ大阪に対しては72分に交代出場した Wayne Rooney riposte ( フェンシング用語で防御から攻撃に移ること) が必要となった。 欧州の征服者のエゴにとって幸運だったことに、ガンバ大阪は Giggs のCKへの抵抗の試みと同様に Rooney の動きを取り扱う事が出来なかった様に見えた。スコアーを見ると恐らくその通りであっただろう。

United の監督Sir Alex Ferguson は試合前は日本の Football の大きな前進に就いて話し、単にホスト国に優しいだけではなかった。 ガンバは United に追いつけなかったのだろうか – 後半彼らが 2-1 としたその直後に Rooney がすぐ2点差に突き離し、ガンバの最後の2ゴールは 5-1とされてからのものであった – 彼らのプレーの中には。特に彼らのゲームメーカー Yasuhito Endo の素晴らしいパスワークなどまとまった印象付けるものがあった。
3失点を喫したものの Ferguson は GK のEdwin van der Sar を自分の Man of the Match とされた。 それ以外は18分間ピッチに入った Rooney であった。火曜日夕方の練習中の負傷に為に Ferguson はスタメンで彼を起用するリスクを回避した。 Rooney に替わってベンチに下がった Carlos Tevez は自分の存在が Rooney の登場によって弱められた様に見られる。
Rooney がピッチに入るや否や全ての United の攻撃がゴールに結び付いた。自分達の持っている全ての方法では無かったが最後の17分間で両チーム3ゴールずつ合計6ゴールが生まれた。 Ferguson は束の間ナーバスになった事を認めたが3点目の Rooney のゴールで勝利を確信した。 もう一人の交替選手 Darren Fletcher のパスが送られたがやはり最後に決めたのは England の FW の攻撃の動きが Fergason を満足そうに話させた。
“見てみたかい? 彼は2回動きを見せた。横に動いて下がり、横に動いて下がった。そして選手としての選手としての決定的な仕事をこなした。我々は彼を本格的な No.9 に育てようとしている。シーズンの多くをそのポジションで使おうとしている。なぜなら彼の動きや強さそして突出したもとは大変重要だからだ。”
確かにこのカメオは, Rooney は引き気味のポジションでターゲットマンをサポートする方が向いていると信じた人々は機知に富んだ答えであった。

“ Wayne は投入されて我々に機動力を与えた。数年前で彼は穴に落ちた選手,( スペースを必要とする選手 ) と言われたが、今や今や中盤を疾走するセンターフォワードだ。彼はより Alan Shearer に近くなるだろう。しかし Shearer はゴールを狙うマインドをもっているが Rooney はチーム道徳の考えをより持っている。しかし今や彼はチームの No.9 だ。そしてもし私が Centre Back として彼と相対したならば他の選手と相対するよりもずっと深い位置を取り彼のペースやポジションチェンジと同じスピードで位置を変えるだろう。彼の様な強さとパワーをもった選手に密着するのは難しい。“  ティームメイトの Gary Neville は言った。

Tevez はハードワークをこなした。いつものように。
しかし前半の United のリードは殆ど彼によるものでなく右コーナーフラッグからの Giggs の正確な CK からだ。28分 Cristiano Ronaldo のショットが阻まれえたCKから Giggs は完璧な弾道でマークから外れた Nemanja Vidic の頭に合わせた。このときガンバのDF陣は Ronald に気を取られていた。
   
前半終了間際には全く同じCKの弾道が今度は Vidic にマークが集中していてマークが甘くなっていた Ronald のヘッドに合わされた。
   
後半が始まる前には United はゲームを収束させる為には Rooney の助けなど必要とするはずではなかったが最終章になり両監督は喜んだり悔しそうにしたりするふりをする。ガンバは対戦相手に煙に巻かれる間に最後は大胆になってきた。 Masato Yamazaki が Endo からのパスを受け、Rio Ferdinand を振り切りゴールを破り J-League のチームをすぐ手の届くところに押し上げた。
殆どその後のキックオフの直後に Rooney は抜群のボールコントロールで二人のセンターバックをかわしてゴールを決めた。その二分後には Nani の左からのクロスに Flecture が頭で合わせて4点目、そして Giggs のスルーパスを受けた Rooney が5点目を決めた。 スコアーは日本人を酷く打ちのめしたが United が本当に攻撃全開を始めたことを疑うものはいなかった。 Rooney の投入をより引き立てたのは Michiro Yasuda が Neville からPKを勝ち取り、Endo が印象的にクールなPKを決め、Hideo Hashimoto の素晴らしいシュートが敗北の尊厳を演出した事だった。

  

“ Wayne は世界で最高の No.9 だ。 彼はこのポジションを担うどの選手よりもより多くの道具を備えている。彼にはただゴールを決める時間が必要なだけだ。決勝戦のある土曜日(12月21日)はガンバが許したほど Liga de Quito の選手達は “時間”を与えないだろう。故に彼は United が完全に任務を果たす為に5ゴールも必要にならない事を望んでいるだろう。“ Ferdinand は語った。  

  
Gamba Osaka (4-3-1-2): Y Fujigaya — A Kaji, S Nakazawa, S Yamaguchi, M Yasuda — H Hashimoto, Y Endo, T Myojin — Lucas — R Bando (sub: S Terada, 84min), M Yamakazi. Substitutes not used: N Matsuyo, T Futagawa, Roni, T Shimohira, S Kurata, T Takei. Booked: Yamaguchi.

Manchester United (4-4-2): E van der Sar — G Neville, R Ferdinand, N Vidic (sub: J Evans, 68), P Evra — C Ronaldo, Anderson, P Scholes (sub: D Fletcher, 67), Nani — R Giggs, C Tévez (sub: W Rooney, 72). Substitutes not used: Park Ji Sung, M Carrick, D Welbeck, Rafael Da Silva, J O’Shea, D Gibson, T Kuszczak, B Amos. Booked: Rooney.

Manchester United はこれまで何度来日したのだろう?そして日本のチームと何回”親善試合”を行った事があったのだろう? 
1989年8月初旬、既にワールドカップイタリア大会のアジア予選で敗退の決まっていた日本代表は Everton と Manchester United を招待し”対抗戦”を行った。日本代表は約1か月前にイタリアワールドカップのアジア地区1次予選で早々と敗退していた。なのに7月にはブラジル代表との”記念すべき”Aマッチを含む南米遠征。そしてこの試合。さらにアルゼンチンのボカ・ジュニアーズとの”親善試合”が組まれるなどその当時でも”何で今更...." と思ったものだった。8月4日に行われた Everton との試合は水沼貴史のゴールで先制するも後半に3失点を喫し敗れ、3日後神宮球場で行われた Manchester United の試合も 0-1 で敗れた。その後日本代表の試合は1年後、北京で開催された第1回 ダイナスティカップ までなく,このUnited 戦
が水沼の日本代表の最後の試合となってしまった。
Manchester United には当時 Barcelona から戻ってきた Mark Hughes, Neil Webb そして Bryan Robson らがいた。そして指揮をとっていたのは Alex Ferguson 。 私は当時まだ独身で会社が神宮球場からそう遠いところにはなかったので仕事帰りに試合観戦に立ち寄らなかった事を今でも後悔している。
Neiville は開幕戦はベンチ入り出来なかったが Villareal との CL戦、そして Chelsea 戦はフル出場を果たした。しかしその後はベンチから外れる試合が続き12月10日の Champions League の AaB 戦では久しぶりにスタメン出場を果たし77分間プレーした。この試合には Gyggs はスタメンで45分間、そして Scholes は後半からそれぞれ出場を果たしたがこの試合は消化試合でもあった。 大会直前の Tottenham 戦では Gyggs, Scholes は揃って69分から投入され Neiville はベンチ入りするも出番は無かった。 Scholes は開幕戦の Newcastle 戦こそフル出場を果たしその後も9月17日の C.L.  Villareal 戦を除いてスタメン出場や途中出場を続けたが10月4日の Blackburn Rovers 戦でベンチで外れてからは故障のせいかベンチ入りも出来ず AaB 戦でようやくピッチに立てた。
Gyggs は3人の中では最も出場機会に恵まれ開幕戦ではスタメン出場を果たし10月18日の WBA 戦、10月25日の Everton 戦そして11月22日の Astonvilla 戦でフル出場を果たした。しかし他の試合では交替出場が多く今季はかつてほど長い時間ピッチに立てていなかった。
ガンバ戦では”3人揃い踏み”が観られると言う幸運に恵まれたが、それが Ferguson 監督の指摘する”決勝戦に向けての主力温存”といわれるとちょっと.......と思ってしまう。

多くの日本国民あ楽しみにしていた Club World Cup での Manchester United 戦は
”壮絶な”ゴールの応酬のであったが、恐らく前半に United が2点を入れたので後半ガンバが1点を還すことが出来て、 1-5 まで点差が開いたのでガンバの2点目、3点目が決まったと言えると思う。 惜しむらくは前半の先制ゴールのチャンスであった播戸のシュート、そして 1-3 とされた後の遠藤の直接 FK を GK van der Sar にストップされた事。 Ferguson 監督が彼を " Man of the Match " に挙げ様とした事もよく理解できる。私が最もうれしかった瞬間は橋本のゴールが決まった直後に van der Sar がゴールポストを蹴り上げて悔しがったシーンだった。
しかし試合内容を”善戦”と感じるガンバの選手は皆無だった。 Rooney が登場してからの10分程度しか彼らは本気を出さなかったと思っただろう。
だがUnited も幸運があったと言えるはずだ。3人目の交代選手Rooney がピッチに入る準備をしてた時に山崎のゴールが決まって 2-1 となった。山崎のゴールが決まる前から交替の準備をしていた選手が Rooney 以外の選手であったなら行方はどうなっていだか.....?

  
United の選手達の目には J-League はどの様に映ったんだろう?事前にリネカーに何か訊いたのかな?? 
しかし、試合終了後 Rooney を初め殆どの United の選手達はユニフォームの交換に応じた。それは United の選手達がガンバの選手達を対戦相手と”認めた”からだろう。遠藤は青のユニフォームのまま試合後のインタビューに応じそのままロッカールームに消えていった様だったが後で誰かと交換したのかな...... 2002年ワールドカップではブラジルの選手達は誰も中国の選手達とユニフォームを交換しなかった。 それにしても MP3 トイレとはなぁ.....

ガンバの選手達は試合のスコアーに浮かれる事はなく続く Pachuca 戦をものにし、勝利で日程を終えた。そして1月1日には天皇杯決勝戦に勝利しACL出場権を手に入れた。これはもう一度世界への挑戦をと思わせた彼らの野望であると信じたい。
    続く                             


英国紙が報じた FIFA Club World Cup Vol 2

2009-01-08 | EURO Football

12月17日 World Champions tag attractive to Sir Alex Ferguson and Manchester United

もし Mancheste United が Premier League のタイトルを守りたいならば、何人かが言う様に、極東から西に向かうべきだ。 チームの監督であるSir Alex Fergason まだその事を聞いていない。日本で開催される Club World Cup に欧州代表として参加する事を要望された運命よりもむしろ、今回、彼の指揮するチームでは最も強固な守備陣に与えた自分の望みが大会が翌年 UAE に移る翌年には魅力の無くなるものになる事を危惧したり嘆いたりしている。
他の多くの傍観者と異なり Fergason は常に大陸間の大会の渦中にありそれが Football または Manchester United の歴史の一部である事を認めている。彼は1999年 Felipe Scolari が率いる Palmeiras を今は無き TOYOTA CUP で破り、England のクラブチームの中ではは一人彼が国際大会のトロフィーを勝ち取った事がある現役監督として留まっている。
そして1968年 England のクラブチームとしては初めてこのタイトルに臨みアルゼンチンの Estudiantesde la Plata に敗れた事を思い出させた。 それ以来England の Football が軽蔑と敗北を同じ物差しで混同した。失礼な Liverpool は 1977年と1978 年に、そして Nottingham Forest は 1979年にこの大会に現れず更に3大会に渡って敗北が続いた。 Nottingham Forest は1980 年にウルグアイの Nacional に、 Liverpool は 1981年にブラジルの Flamengo に1981年には Aston Villa がウルグアイの Penarol に敗れた。Fergason の野望が United をEnglish 王者から欧州王者そして世界王者に進行させた。彼は馴染みのない7チームのエントリーと摩訶不思議な予選システムを取り入れ、忙しい週末にManchester United のゲームを組み込むと言った飢餓的に再びこの大会を組織したFIFA の支援を受けているわけでは無い。この環境下では Fergason には大会の美徳を強調する事により Club World Cup に実直さを貸し与えさせる事となる。

“大会参加の核心は30年に渡って人々がレコードブックを見た時に Mancehster United World Champion と振り返ってくれることを望んでいることだ。これはクラブが求めている事で勝つことが重要だと言う事だ。トロフィーというものはクラブに名声を加える。”と彼は述べた。 “異なった相手とプレーする事は我々に害を及ぼさない、これはエキサイティングな事だ。しかし我々のここに来た最大の刺激はこれが世界選手権と言う事だ。12月に Premier League のタイトルは勝ち取れないが世界王者にはなれる。だから終始一貫してこのタイトルを狙う。確かに Premier League が進行しているのにここに来たと言うハンディは負わねばならない。しかしそれは成功には付きものである。我々は European Cup に勝ったからここに来たのだ。だから翌年も Abu Dhabi にやって来たい。何故なら我々はまた欧州王者を目指しているからだ。私に言わせてみれば、言うまでもなくここに来た事が今 Premier League で起こっている事よりも重要性にまさる。” 

Fergason はこの大会の重要性が高まる事のみを見ている、彼が全ての世界規模のクラブゲームを拡大させる過激な提案に眉をひそめる事には興味を持って留意していた。懸案となっている国際大会のゲームにより Premier League のクラブチームが“第39節”を受け入れる事に就いては苦行を表した。
“もし国内プログラムを見ればそれは不可能だと思う。 第39節目を行うことなど考えておらずそれを施行すべきでないと信じている。”と Fergason は述べた。

  

Manchester United は 横浜で初戦のアジア王者ガンバ大阪戦に向けて最終調整を行った。 Fergason は23人の選手団とここにやって来た。従ってガンバ戦は次の南米王者、エクアドルの Liga de Quito と メキシコの Pacucha 戦の勝者との試合に向けてやや駒落ちのメンバーで臨むと思われる。

12月17日 Why the Club World Cup is one big mess 

FIFA はそれを Club World Cup と呼ぶ。しかし Manchester United が東京に到着した現地時間12月15日月曜日の午後4時には既に帰国しているチームがあった。
ほぼ大会から締め出されそうで, ここしばらくワールドカップには御無沙汰でかつてはこの地域では最強であったがアジア連盟への飛び入りが認められたオーストラリアが抜けたオセアニア連盟のチームと、そしてより驚くべき事にアフリカ連盟所属のチームはほぼ1週間前にもう姿を消していた。
そしてこの混乱した大会には特にかつての England のストライカーで今は新聞のコラムニストである Stan Collymore にとっては二次的な大惨事の被害もあった。Manchester United が日本で失望に直面している時に彼は大会前のリサーチ不足粗末な支持と変則的な日程に罪を感じている。

“ エジプトの Al Ahly の様なチ-ムが勝ち上がってくるだろう。彼らの国内でのゲームはタフで今大会でもベストクラブとなり得るだろう。” と書いていた。
これらの貴重な解説は Collymore の考えが紙上に載る2日前に Al Ahly がメキシコの Pachuca に敗れた為に Bookmaker を大いに失望させる事となった。
ここは他人の不幸を喜ぶところでは無いしかし、そこは神の好意なく半数以上のスポーツライターがFIFA の大会開催の論理が話されようとした時に行ったところだ。

例えば 日曜日(12月14日)にガンバ大阪に敗れたAdelaide United の登場を例にとってみよう。彼らはオーストラリアからやって来た。彼らはオセアニア連盟の代表であった。しかし違う。ソロモン諸島等を破って大陸王者となったわびしい New Zealand の Waitakere United がそうであったが、 Manchester United 一行が Heathrow 空港でチェックインする3日も前に Adelaide United に敗れたためそう思われるのだ。
オーストラリアがアジア連盟に所属する事を2006年1月1日より許されたという事実を除けば、 Adelaide United がオセアニアでは最強のクラブチームだ。故に彼らは Asia Champions League を戦った。ならば彼らはアジア王者として日本に来たのか?それも違う。ガンバ大阪がアジア王者で週末に今シーズンのACLの決勝戦同様 Adelaide を破って勝ち上がってきた。ならばなぜ Adelaide は登場したのだろう?
なぜなら FIFA が開催国、今回は日本だがーのチームは Club World Cup に出場できると主張をしたからだ。そういう意味ではJ-League 王者の鹿島アントラーズが登場してもいいのだがガンバ大阪がアジア王者になった時に7チームの出場枠に日本から2つのチームは多過ぎると考えられたので鹿島アントラーズの替りに Adelaide のエントリーがオーストラリアのチームなのに許された。面白く素敵なジョークではないか? まず最初にFIFAが開催を試みた開放されたクラブの大会は滑稽であった。2000年にブラジルで開催された Club World Championship は2つのブラジルチーム間で決勝が行われ南米王者を決める Copa Libertadores に勝ったことがない Corinthians の優勝で終わった。彼らはただ開催国の王者として参加が許されたにすぎず Vasco da Gama が1998年の Copa Libertadores 覇者として出場を果たした。 1999年6月28日に Copa Libertadores で優勝した Palmeiras は FIFA を大いに悩ませる事は無かった。 Palmeiras は Corinthians と同様 Sao Paulo のチームで FIFA は Rio de Janeiro をベースとした地元の興味を惹きたかったので同市の北部にある Vasco da Gama をノミネートした。徐々に明らかになった事は Manchester United の参加は、たとえ他に何か方法がありそうだったが、その年の FA Cup を棄権する必要があったことだった。しかしこの9年間で最も明らかになった事は FIFA はその経験から何も学んでいない事だった。少なくとも 2000年の大会は出場数正しかった。偶数の参加チーム数はシンプルな進行をもたらした。企業イメージを変えた Club World Cup は特殊な数の7チームで構成されている。 FIFA の役員達は誰も算数の授業に注意を払わなかったのだろうか?  

Club World Cup は喜びを与えるもので Football Season 最大のハイライトで名声がありエキゾチックで決まった期間に開催の名誉を各大陸に回すために持ち回りで開催すべきものだ。必要な6つの出場クラブ数、各大陸王者の6チームとで開催都市の2つの競技場だ。 England だけなら少なくとも6個所開催できる。
まず開催地の問題から考えよう。もし FIFA が地元の無関心を恐れるなら大会は参加資格のある各大陸王者の地元を持ち回りで開催すればよい。従って今年の場合なら、持ち回りの順番にもよるが、大会はマンチェスターかキト(エクアドル)カイロ(エジプト)大阪(日本)パチューカ(メキシコ)またはオークランド(ニュージーランド)のいずれかになる。遂行できないだろうか?5つか6つのケースなら可能だ。 Manchester は問題無い。 Old Trafford と City of Manchester Stadium がある。
一方大阪にはワールドカップでも使われた50,000 人収容の長居競技場があり更にガンバの本拠地 Expo’70 ( 万博競技場 ) は21,000 人の収容が可能だ。それがだめなら36,000人収容の室内野球ドームもある。オークランドにはクリケットやラグビーで使われる47,000人収容の Eden Park があり、ラグビーリーグで使われる 30,000 人収容の Mount Stadium もある。 エクアドル王者の Liga de Quito は55,000 人収容のスタジアムを持ち、別個に近所の Olympic Stadium があるがこれはライバルの El Nachional の本拠地でエクアドル代表がここで試合をする時はコンスタントに 40,000 人は観衆が集まる。Cairo International Stadium には 71,000 人の収容能力があり近くの Cairo Military Academy Stadium は30,000 人をやや下回る。(すぐに増設され2倍の集客がある。) 残った Pachuca だがここは同じ Hidalgo 州には地元 30,000 人収容のEl Stadio Hidalgo 以外は競技場がない。しかし60マイル離れたメキシコシティーには巨大な50,000人収容の Azteca Stadium がある。我々はそこまで行ける。

開催地問題は片付いた。 大会フォーマットは早急に改善せねばならない。我々のルールでは参加出来るには大陸王者のみだ。6つのチームを3つずつ2つのグループに分けて総当たりでグループリーグを行い、各組1位チームのみ決勝戦に進める。そうすれば各チーム最低2試合多くても3試合を12試合日に渡ってこなす事となる。最初の試合は火曜日と水曜日に、第二節は土曜日と日曜日に最終節は火曜日か水曜日に。そして決勝戦は土曜日に。何とシンプルなのだろう?
シードは三つに分かれ(オセアニア/アフリカ、アジア/北中米、欧州/南米 )それぞれ最上位にシードされたチームが消化試合を生まぬように常に最後に試合を行う……
FIFA の最善策が殆ど彼らからすれば気ままな手配に過ぎないのではManchester United の 監督 Sir Alex Fergason と選手達らがClub Word Cup は勝利に値するものと断固として心に秘める事は容易でないだろう。現実的にはクラブ世界一になる事は素晴らしい挑戦だが実際にはこの大会でタイトルをとってもその通りとは考えにくい。 Fergason は1999年東京で Palmeiras を Intercontinental Cup で破った時でも自分のチームには充分な名声が与えられたとは考えていない。そして彼は正しい。しかし誰の責任だろう? FIFA は普遍的にクラブトーナメントの実直さを与える機会を策略によって価値を下げる事によって取扱いを間違っている。

翌年の大会は Dubai で開催され、現在 UAE League で首位を行く Al-Jazira が大会に組み入れられる事を楽しみにしている。 しかし 偉大な大会の権威が無礼に取り扱われたFIFA の失敗がある一方、大会に興味のない欧州クラブの横柄さはしばしば Intercontinental Cup の価値を蝕んできた。
前の Liverpool の主将であった Graham Souness は1981年東京でブラジルの Flamengo と対戦する時にこの試合は功労賞であることと怪我をしない様にと言われたと嘲笑う。 Liverpool 対 Flamengoと言う2つの世界でも屈指の偉大なチーム同士の戦いは、大会により敬意を払っていた南米王者の Flamengo が当然の結果を示した。おそらくそれは Liverpool が全くいい処なく Man of the Match に選ばれた ZICO や Junior を擁した Flamengo に 0-3 で敗れた試合後の Souness の自己弁護に過ぎぬかも知れないが。欧州王者が南米王者に敗れた時の言い訳としては大変便利な言い訳がある。それはただ効果の欠乏と言う事だ。そんな馬鹿な話はない、世界でも最高峰のプレーを披露するチームならもう少し出来るだろう。

United の今後五日間の日本に勝つ為にやって来たと言う振る舞いはここに来るまでの長旅の価値があり、称賛されるであろう。 United の選手達は手強いエジプトの Al Ahly との対決を逃れる事が出来たがもっとも奇怪な対戦はもはや Club World Cup のピッチにはいない。チューリッヒの事務所に座りシンプルでスタイリッシュであるべく素晴らしい世界レベルのフットボールのイベントをより困難に、より当惑させそして破壊させようとする。それでは最初から始めよう。まず7チームでどうやってやるんだい? Sepp 君、何もないよ。

  

第一回 TOYOTA CUP を楽しみにわくわくしながらテレビ観戦したことを良く憶えている。月に2回発行される雑誌でしか見れなかった選手達がテレビで見れる。特に2年連続で欧州王者に輝いた Nottingham Forest のプレーに期待していた。
結果はウルグアイの Nacional Montevideo がビクトリーののゴールで 1-0 で勝利を飾った。当時趣味でよく聴いていた BBC の日本語放送を通じてこの試合が地元でどの様に報道されるかも楽しみだったが、地元ではこの試合があった12月は現在の Premier League と異なり”冬休みフ中”であるということがかなり強調されていたらしい。TOYOTA CUP 自信があまり興味をひきつける大会ではないと考えられたのだろう。最初の5大会、南米勢がタイトルを勝ち取り続けたばかりか、欧州のチームが大会初ゴールを挙げるのに4年掛かった。
かつて”名誉ある孤高”を守り続けた英国であるが、この Club World Cup に対しても Ferguson 監督の”孤軍奮闘”ぶりが解る気がする。ガンバや REDS がいくら健闘してもその事を三日と憶えてくれる欧州人は皆無かもしれない。

こんな話をかつて欧州の人と話したことがあったが彼は私を慰めるようにこう言った。”私の国では自分がサポートするクラブチーム以外は全く興味を示さないサポーターばかりだ。自分のチームのことなら何十年分のデータが頭に入っているが、人によっては World Cup の事も憶えていないものだ....."

この話をしてもらった時に私は少し安心した。
そして言われた”来年 World Cup が開催されるのはどこだったっけ?日本は出られのか? ” 
そして答えた”日本と韓国の共同開催ですよ。” 

でも我々も人のことは言えない。今年と来年、どれだけの人が Club World Cup のことを語るだろう? 日本のチームが出なくてもテレビ中継どこかでしてくれるかなぁ....           続く 


英国紙が報じた FIFA Club World Cup VOL.1

2009-01-08 | EURO Football

12月14日 Manchester United :It's Red Planet 

企業イメージを変える事は究極の無意味をもたらし事も。郵便局が Consignia と名前を変えた事によりGood Service の良識は道に迷ってしまい、 Coca-Cola は New Coke という旗のもとに殆ど崩壊してしまった。両社は共に名前を元に戻した。その一方で Magic Trick となり得る事もある。UKTV G2 は単に社名を Dave と替えただけで英国視聴率ランクを29位から10位に上げた。
FIFA は World Club Championships からClub World Cup に名前を変えた事で大会が Consignia よりもDave になる事を望んでいる。 Manchester United は World Club Championships に出場するのはブラジルで開催された2000年以来。
この時は欧州からは Real Madrid と Manchester united の出場が強いられた。
Rio de Janeiro で開催された当時の大会には世界から8つのクラブが出場。その中で大陸王者の称号を持って出場したのは4チーム。優勝した Corinthians は国際大会で優勝した事の無かったチームだった。
Manchester United と Real Madrid という大会を彩るチュームはこの大会にいやいややって来た。 Manchester United は F.A. の要請により 2006年ワールドカップの開催権を勝ち取る為にブラジルにやって来た。そして日程変更を繁雑にさせない為にそのシーズンの F.A. Cup からの辞退を余儀なくされた。 Fergason 監督は当時のブレア首相に他の国会議員を黙らせる様に電話で依頼した。 
主力選手達もこの大会参加に不快を感じていた。
“我々は理解出来なかった。 League Cup も始まっており3回戦まで進んだのに何故F.A. Cup を辞退せねばならないのか?”  Ryan Giggs は語った。
Roy Keane は “ F.A. Cup , それにまつわるもの全てを失った。  Wembley で民俗音楽に乗ってトンネルをくぐり、 Royal Box にまで登ってメダルを受け取る。 それらすべてが…… “  後に自書に記している。
議論は彼らが Ipamena Beach のホテルにチェックインした時から始まっていた。
チームはぞっとさせられる一連の起こりに悩まされ続けた。
Real Madrid には大会が始まるまで毎日記者会見が催されたが Manchester United には選手達を激高させる様にそれが1回だけしかなかった。そして Community Project の一環であった リオのスラムの見学は参加8チームの中で一番最後に充てられ地元報道陣の間で彼らは “ お高くとまった“とか ”むっつりとした“ と報じられたので初戦の Necaxa 戦では地元サポーター達からブーイングで迎えられた。
その Necaxa 戦は殆ど惨事と言えるもので David Beckham のハイタックルにレッドカードが出されて以降の47分間を10人で戦い、試合終盤に Dwight York のゴールで何とかあまり知られていないメキシコの Nexcaxa と引き分ける事が出来た。
続く Vasco da Gama 戦も惨事であった。 Gary Neville の二つの失策で 3-1 で敗れた。尚も悪い事に United の Martin Edward 会長がその敗戦前夜に娼婦を部屋に連れ込んだとの騒動に巻き込まれた。リザーブメンバーで臨み South Melbournen を 2-0 で破ったUnited の最終戦は意味のないものであった。
この大会は大変低調なものでFIFAは以降5年間開催をする事はなく歴史的な国際大会トヨタカップに併合され日本に移された。
Necaxa 戦は巨大なマラカナスタディアムで灼熱の中8,000人の観衆の前でキックオフとなった。この大会を Real Madrid のメンバーとして出場した Steve McManaman は “ Manchester United や Real Madrid の様なクラブは参加した全ての大会でトロフィーを勝ち取る事を目指し旅行気分で出かける訳では無いが、この大会の運営が良かったとは思えない。私が覚えているのは暑さと FIFA が派遣した人々がいたるところにおり全てのホテルで躍起になっていることだった。地元ブラジルのチームが登場する時はファンは真剣になるがブラジルのチームが相手でない試合は10人程度の観客の前でプレーをしていた。”

   Corinthians 2000

McManaman は今シーズンの Manchester United の状況を良く理解しており日本側がブラジルよりも緩和した状況を提示したとし、 United が2試合しかプレーしないトーナメントにしても、好ましくない影響が Premier League に出て来ると分析している。 1999-2000 のシーズン United はリオデジャネイロに乗込むまで Premier League のタイトル 争いの好位置につけていたがシーズンが終わると Chelsea と Liverpool の後塵を拝した。 United がブラジルから帰国した時 Liverpool が差をつけていた。そして試合日程に上手く乗じた。 Fergason のチームが1月14日から3月4日の間に12試合こなせねばならなかったのに対し Liverpool と Chelsea は8試合しか日程が無かった。
“ Real Madrid は2000年のシーズンには多くの試合で敗れた。ブラジルからスペインに戻った時は殆ど最下位の順位で以降順位を上げる事はなかなか出来ず最終的には5位でシーズンを終えた。“  McManaman は言った。 “今回 United は遅れを取り戻すべくプレーをしようとするだろう。彼らはただ試合を先送りさせるだけで無く長旅を終えるとすぐに最も難しい時期クリスマスと年末年始の期間に遭遇する。トウキョーでは常に Premier League で何が起こっているかが気になるだろう。” 
Fergason は UEFA CUP 以外にまだ勝ち取っていないトロフィーを掴むチャンスだと言う事を強いられるであろう。 彼は 2000年のシーズンに選手達に動機付けをした“自分達が世界一だと証明したくはないかい?”という同じ質問を用いねばならないだろう。木曜日(12月18日)の Manchester United の相手は Adelaide United を破るであろうガンバ大阪になりそうだ。攻撃の観点からみるとガンバ大阪は守備的に来るだろう。 Copa Libertadores の王者 Liga De Quito が日曜日( 12月21日) の決勝戦の相手となりそうだがその前にエクアドルのチームは北中米王者のメキシコの Pachuca の挑戦を受けねばならない。
Cristiano Ronaldo マニア達は地元にも増えている。彼は David Beckham, Ronaldinho, Roberto Carlos と言ったセットボールのスペシャリスト同様、そのセットプレーが多くの日本人の間で人気を博している。日本のあるFootball writer は 2002年の Beckham 程では無いが Ronaldo は今や Ronaldinho や Kaka と同じくらいの人気がある、 と述べている。

12月16日 Sir Alex Ferguson sees no future for 39th game
Sir Alex Ferguson は今シーズンの“第39節”についてはありえないとし Manchester United はそういう日取りも取れないと主張した。 United の監督は今 明日から2試合せねばならないClub World Cup 出場の為に日本に滞在中で Wigan との試合は延期されている。細かくて読みづらい日程には他にも Champions League や国内の2つのカップ戦が含まれているが第39節目の施行については考えられないとの事。
“第39節目を行うことなど考えておらずそれを施行すべきでないと信じている。私はそれを好まない。我々の国内のリーグ戦の日程を見てみればそれはカップ戦と調整されているので不可能である。”と述べた。
Fergason のチームは木曜日 ( 12月18日)にガンバ大阪と相対し恐らく日曜日(12月21日)にはエクアドルの LDU Quito とのゲームとなるだろう。 “ 異なった相手とのゲームはなんら害を及ぼさない。“ 指揮官は言った。 “まず、ここに最初に来た1989年と比較すると日本の Football は進歩を遂げたのは明らかだ。技術的にも組織的にも長足の進歩を遂げている。Football について、日本は若い国だが進歩を続けている国は素晴らしい選手を輩出する。”
Fergason は United が Club World Cup を軽んじ無関係なものと思われている事を否定した。
“これは真剣な挑戦と捉えている。England では我々と同じ考えを持っていないようだが。1960年に欧州王者が南米王者と対戦し世界一をきそうようになり4年前までそれが続いた。しかし世界は進み、日本や韓国、中国の様な新興国が力をつけてきた。したがってこういった大会には各大陸からバランス良く参加するべきだ。 ここでは困難があることは確かだが設備等は素晴らしく今や12時間のフライトも快適に過ごせる。30年間の間 Manchester United は世界王者だったんだと振り返ってもらえる。これが我々の求めていることでありそれ故にこの大会に勝利し、勝利が重要に値する。”
Fergason は選手達のフィットネスの仕上がり具合を見て Asia Champions League で Adelaide United を降し勝ち上がってきたガンバ大阪との試合のメンバーを決める。 GK のBen Forster は 練習中の指の怪我でチームから離脱することになった。

12月17 Dimitar Berbatov out of Club World Cup Semi-final against Gamba Osaka 

Dimitar Berbatov は明日( 12月18日)ニッサンスタジアムで行われるガンバ大阪戦は欠場するであろう。そのブルガリア人ストライカーは日本へ向かうフライトの機中でウィールスにかかり、到着ご一度も練習に参加できていない状態である。 Wayne Rooney もまたトレーニング中の打撲で今日のトレーニングに合流できるかは不明。 “ Berbatov は良くない。 Rooney は火曜日の練習中に打撲をしたが試合には間に合うと期待している。“ Fergason 監督は語った。Cristiano Ronaldo, Paul Scholes, Gary Neville そしてRyan Giggs らは大丈夫だろう。予想されるスタメンは下記の通り。

Van der Sar, Kuszczak, Amos, Neville, Evra, Ferdinand, Vidic, O'Shea, Evans, Rafael, Ronaldo, Anderson, Giggs, Park, Carrick, Nani, Scholes, Fletcher, Gibson, Rooney, Tevez, Welbeck

2000年リオデジャネイロで開催された FIFA World Club Championship は翌年にはスペインで12チームが集って行われることとなっていた。大会前に出場する事が決まっていたジュビロ磐田はグループリーグで Real Madrid と対戦することになっていたが、 FIFA のマーケティング会社 International Spot and Leisure 社が破綻したことで大会自体が霧散してしまった事を覚えている方は多いだろう。
1887 年8月13日、Scottish Cup 王者の Hibernian F.C. が FA Cup 王者の Preston North End に "挑戦”した事が最初と言われている。そして翌年は同様に Scotland の Renton F.C. が West Bromwich Albion との間で覇が競われたがこれが”クラブ世界一決定戦”の始まりとされている。しかし当時は英国でも国際大会は home International が最重要視されクラブチームで最も大切だったのはF.A. Cup の様なカップ戦であった。
FIFA 主催のクラブ世界一決定戦は 1951年 ブラジルのリオデジャネイロで行われたが、当然ながら欧州と南米の間のみで行われた。この試合にはFIFA 会長 Jules Rimet 氏が Vice President を現地に送り2試合が行われ大会名は"Taça Rio" と名付けられ、サンパウロの Sociedade Esportiva Palmeiras が Juventus Torino FC を破り世界王者に輝いた。2000年に再びリオでクラブ世界選手権が開催された背景はこの試合があったのかもしれない。
1960年から南米と欧州のがホームアンドアウェーで一騎打ちでクラブ世界一のタイトルを争うようになった。1962,1963年には神様ペレを擁した Santos が大会連破を果たしたが欧州勢のモチベーションが上っていたとは言い難かった。特に England  勢は 1977年から3大会連続 ( 1977, 1978 Liverpool , 1979 Nottingham Forest ) Europe Champions Cup を制しながら Intercontinental Cup は棄権を続け、1980年 TOYOTA CUP がスタートしてようやく European Champions Cup 1979-80 を制した Nottingham Forest が出てきた。
1968年 Macnester United が欧州王者として Intercontinental Cup に出場しアルゼンチンの Estudiantes La Plata と対戦した。 Old Trafford で行われた第二戦では終了間際に George Best と Jose hugo Medina が退場になる激しい試合であった。 Estudiandes にはチーム史上屈指の名選手と言われた Juan Ramon Veron がいて MF には後にアルゼンチン代表を World Cup Champion に導いた Carlos Bilardo らがいた。そして Sir Matt Busby に率いられた United は Best の他に Bobby Charton, Denis Law 、 GK Alex Stepney  ミュンヘンの悲劇を経験した Bill Foulkes, 後に United のコーチを務めた Brian Kidd らを擁していたが 1分1敗で "世界王者”の称号は入手できなかった。
しかしながら England 勢のみならずクラブレベルの世界大会に興味を示すチームは皆無に等しいのは今も変わりなく、 Club World Cup 2007 で浦和REDSが AC Milan 相手に”善戦”したことを憶えている人は欧州にどれだけ居るだろうか?また AC Milan が2007年世界王者の”戴冠”を受けたことそしてこの大会に参加した事を憶えているミラニスタはどれだけ居るだろうか.......

  

12月14日付けの新聞ではその時点でまだ対戦相手が決まっていなかったのでガンバ大阪のことが少し紹介されていた。そこには Yasuhiro Endo の名前があった。そして Adelaide United の事も。しかしかつてブラジル代表のロマーリオがゲストプレーヤーとして”存在”していたことは述べられていたが今もブラジル人選手が居ること意外は何も詳しく述べられていなかった。

Football はまだまだ欧州だけのものなのかもしれない 
  続く

 


 


14年振りの Camp Nou Champions League  第4節 後半

2008-11-11 | EURO Football

後半に入っても序盤から主導権を握るのはバルサ。51分には Hleb がボレーシュートを撃つが GK Costanzo がストップ。55分にはIenista からボールを受けた Henry がドリブル突破を図る。しかし Basel DF, 特に CB の Marque, Ferati そして Huggel の守備は堅くシュートは撃てない。55分にはPique がドリブルで中央を突破そして左サイドに寄った Henry にクロスを上げるがHenry がこの日放った2回目のフリーのヘッドはまたもゴール枠を外れてしまった。 
こうなるとバルササポーター達はピッチサイドでアップを続けてきた Messi と Xavi に期待がかかる。スタンドからも2人に声援が飛ぶ。おそらく早く出て来いってな内容だろうか…. 

  

しかし先にメンバーを替えたのは Basel 。 MF Perovic を下げて FW Eduard を投入した。これで前線を2枚に増やし先制点を狙うのか…と思うと大歓声が沸き起こる。 Messi と Xavi がピッチサイドにユニフォーム姿で現れたのだった。アップをしていた2人が呼ばれてベンチに戻った時から歓声が上がっていたがその何倍もの大歓声だった。60分に Krkic, Sanchez が下がって大歓声を背にEURO 2008で観た Xavi そして昨年オーストラリアで観た高速ドリブルの Messi がピッチに入った。 

  

2人のポジションは… と思う間もなく Camp Nou に大歓声が沸き上がる事に。 中盤でボールを得たMessi が高速ドリブルで前線に出て来て前にボールを送るとそこに走り込んだ Henry が体を反転させてワンタッチでボールを後ろに戻すとそのまま走り込んできた Messi が更に加速してドリブルで真ん中から左に切れ込み相手DFを簡単に振り切って放ったシュートは GK Costanzo を破って Basel ゴールネットを揺らした。後でスクリーンに映し出されたリプレーを見ると Messi が Henry にボールを出してから戻してもらったボールを受けてシュートを放つまでわずか2秒だった。そして彼が投入されてから2分も経っていなかった。これがワールドクラスの技術なのだろう….. Henry のワンタッチプレーもそうなのだろう…….そして私もバルササポーター達もこれから何点入るのだろうか?と胸算用を始めたと思う。

  

それにしてもこのレベルで1人で何とか出来る選手と言うのは本当にすごいレベルなんだろうなぁ…と思った。
67分、中盤で倒れたバルサの選手が立ち上がれない。どうやら Iniesta の様だ。担架が運び込まれたが結局 Iniesta は立ち上がって歩いてベンチに向かった。

  


そして替って Samuel Eto’o が投入された。
   
   

ここでも大歓声が沸く。観客は更なるゴールシーンを期待していたに違いない。何しろ前節は同じ Basel をアウェーで 5-0 と粉砕しているからだ。
しかしこの時間帯から Basel がバルサゴール前に迫るシーンが見られる様になる。68分には Carlitos が 右サイドをドリブルで上がりSylvinho と Pique の間に割って入ってクロスをあげると中には Stocker が飛び込むがシュートはゴールポストの右に外れて行った。 70分には Streller に替って EURO2008 スイス代表のEren Derdiyok が投入され Eduardo と2トップを組む事に。そして時折 Stocker が前線に出て来て効果的にプレスをかける事に。バルサは攻撃時に Messi がドリブルで持ってもDF4人に囲まれる。ポジションも Eto’o がトップで Henry がトップ下に入り右に Messi, 左に Hleb が入ったり Messi がトップに上がり Henry が左に開いたりするのだが….
それでも69分には Xavi のFKに Pique がフリーでヘッドを放つがポストを直撃してしまった。

そして72分、Carlitos が右サイドをドリブルで上がり入れたクロスを Derdiyok が放った叩きつける様なボレーシュートが大きく弾んでバルサゴールネットに突き刺さりあれほど劣勢だった Basel が同点に追いついた。最上層部席に陣取る Basel の大サポーター達は大喜び。そして1階席にも Basel サポーター達がいた…. 

 Barcelona は失点直後の74分に Henry がゴール前でボールをキープ。DFを引き付けて左にいたフリーの Eto’o にボールを送るが Eto‘o はボールを持ち過ぎて Basel DF にすぐ囲まれてシュートが撃てず、サポーター達から落胆の声が…..バルサは引き分けても次のステージに進めるが3連敗の Basel は勝たねばならない。その差が出たのか残り10分を過ぎると Basel の攻撃が目立つ。83分には Stocker が下がってアルゼンチン人の Marcos Gelabert が投入される。 Messi に一泡吹かせられるか? それとも Maradona にアピール出来るか ???
長身の CB Marque も上がって来る。Basel とて勝つチャンスは残っているのだ。 

  

しかし44分には GK Constanzo が遅延行為で警告を受けてしまう。引き分け狙いなのか…… ロスタイムは4分。その表示に歓声が沸いたのはバルササポーター達だった。しかしスコアーは動かないままタイムアップ。そして歓声は Basel サポーター達から沸き上がった。ピッチ上でも喜びを表しているのは Basel イレブン達。 観客に向かって何度も手を挙げ、そしてサポーター達の音戸の乗って万歳をする。 淡々と引き揚げるバルサイレブンとは対照的。 Henry はインタビューを断ってロッカールームに消えて行った。Messi も見せ場はあの得点シーンのみだった。

   

対照的なのは Basel GK のConstanzo 。5失点した前節と異なりこの試合は失点を1に抑え、満面の笑みでインタビューに応え、最後は Basel サポーター席に向かって何度も手を振っていた。でもこの引き分けで Barcelona は次のステージ進出が決まり、 Basel の敗退が決まったのだけど…….. 

   

あぁ14年前に聴いたバルサのあの歌が今回は一度も聴けなかったなぁ………

この日の Basel の戦いは格上のチームを相手にした時の手本になるかもしれない……. 帰りはマクドナルドに寄って地下鉄でホテルに戻った。地下鉄では Basel サポーター達と遭遇した。彼らも満足げな表情。ドイツ語は何とか出来るので色々話をした。“ NAKATA はどうしている?日本でプレーをしているのか?“と彼を気遣う言葉が、それとも日本人の私を気遣ったのか? ” NAKATA は前にいた KASHIMA Antlers に戻って良くやっている。もうすぐ代表に復帰するかもしれない。ワールドカップ予選があるから。Scot Chipperfiled も私は気になる。オーストラリアは日本と同じグループだから…..”

彼らが降車した後は地元の人が私のマフラーを見て結果を訊いてきた。両手の人差し指を立てて 1-1 と示すと少しがっかりした様子。

14年前に来たときはホテルの近くで地元の御夫人に結果を聞かれてスペイン語を話す家内が 5-0 でレアルを破った事を教えた時はすごく喜んでいたなぁ……… そしてカタルーニャ広場では Fiesta が始まってしまっていたけど今夜の街は静まり返っている……..

   


翌朝、 Barcelona 空港で搭乗した機内から小型機を見つけた、そして尾翼には Basel のマークが。球団機?なのか?Jリーグのチームも球団機でACL を転戦….と言う日は来るのだろうか…….. 

  

帰ったらスペイン語かイタリア語を勉強しようかな……いやいやもっと英語とドイツ語を….. でも何もしなやろなぁ…….あぁ疲れたぁぁぁ………



14年振りの Camp Nou Champions League  第4節 前半

2008-11-11 | EURO Football
前にスペインに来たのは14年前。その2年前に家内が突然スペイン語の勉強を始めたのにかこつけて計画したのがCamp Nou でバルサ対レアルの試合観戦を含んだスペイン旅行。インターネットの無い時代、チケットは当日の昼間でも入手できたが残っていたのは一番高かった9,500 スペインリラの席。ATMもほとんどない時代、慌てて金を取りにホテルに戻ったのを覚えている。 
試合は当時全盛期だったロマーリオのハットトリックそしてクーマンの強烈なFKが決まるなど 5-0 でバルサが歴史的な勝利だったがそこで観戦した試合はまるで映画を観ている様な感じで本場欧州のサッカー観戦を満喫できた思い出のスペイン旅行であった…….

再び訪れたカタルーニャの地、そこは14年ぶりと言う事もあり初めて訪れた様な感覚であった。前日までいたのはドイツ北部の港町ハンブルグ、その前は降雪の北欧ノルウェーの首都オスロ。従って最高気温が18度にもなるバルセロナは本当に温かく感じた。しかし現地の人から言わせれば“先週はもっと気温が高かった。数日前に雨が降って本当に寒くなった….” との事らしい。

  

仕事を片付け Camp Nou に地下鉄で向かう。昔と異なり Web Site でチケットが購入できる。ただ購入の優先件はバルサを支えているソシオ達にあり彼らに先行販売され余ったのが一般販売となるらしい。12月14日にここで開催される Real Madrid とのクラシコのチケット情報を見ると価格は Champions League よりも高くなっており、特に Grand Stand は一般向けが€110 に対してクラシコは€170となっていた。そして全てのチケットは既に売り切れていた。

窓口でクレジットカードとパスポートを見せてチケットを受け取り競技場内の MEGA STORE に向かった。前に来たときはこんなのあったかなぁ…… 店内にはありとあらゆるバルサのオフィシャルグッズが販売されている。先週のレプリカもその場で名前と背番号を入れてくれる。でも 14 Cryff や 13 Neeskens そして 10 Maradona ってのは入れてくれるのかな???目移りをして何を買って良いのかわからなくなってくる。同僚に後輩に子供に….そして自分に…時間はあっという間に過ぎて競技場入り口に向かったのはキックオフの5分前、そしてマンモススタジアムの泣き所の一つそこから入口までが長い、そして入場して席を探すにも時間がかかり着席した時は既に試合が始まって5分程度経っていた。14年前に聴いたあの試合開始前の“バルサ!バルサ!バ~ルサッッ!!”の歌が聴けなかったのが残念でならなかった…….

この日の対戦相手はスイスの FC Basel 1893。2週間前はバーゼルで同カードが行われアウェーの Barcelona が5-0 で圧勝した。そして両チームには深い関係があるらしい。109年前の 1899 年スイス北部の Winterthur 生まれの後にカタルーニャ姓の Joan Gamper と名を変えた元 FC Basel の主将だった Hans-Max Gamper 氏がバルセロナに渡り地元スポーツ新聞に選手募集の広告を出したのが FC Barcelona の始まりと言われている。両チームともユニフォームのデザインが青と赤の縦じまで2週間前の Basel の試合では FC Basel がこの模様のユニフォームを着て、このバルセロナでの試合は FC Barcelona がそのデザインのユニフォームを着る事となった。この両者が欧州の公式戦で対戦するのはこれがこの Champions League が初めてだったらしい。
この日は両チームとも多くの選手を入れ替えて来たがその理由は大きく異なるだろう。5失点で惨敗を喫した 5人の選手を替えて来た Basel の布陣は GK Franco Constanzo かつては River Plate, Real Alaves でもプレーし 1999年FIFA U-20 に出場、ワールドカップドイツ大会の南米地区予選のウルグアイ戦で代表のゴールを守った事もある。 DF は4バックで 右サイドバックが Reto Zanni 彼がまだスイス代表入りしないのが不思議らしい。 CB は 186cm のBeg Farati と 187cm の Francois Marque, 左サイドバックがスウェ-デン代表の Behrang Safari。DF ラインは二人入れ替えて Zanni, Ferati が起用された。EURO2008スイス代表のBenjamin Huggel が1ボランチに起用され、2列目は左からセルビアの Marko Perovic, 真中二人は スイス代表歴1試合のValentin Stocker と かつて A-League 発足前のPerth Glory でプレーしたセルビア代表歴9試合そしてワールドカップドイツ大会にも出場したIvan Ergic 右がポルトガルの Carlitos . Ergic以外は全て入れ替えられた。ワントップは EURO2008 そしてワールドカップドイツ大会代表の 195cm 長身選手のMarco Streller 。2005年11月のトルコとのワールドカップ予選プレーオフでは最後トルコの息の根を止めるゴールを決めた選手だ。私が注目しいていたオーストラリア代表の Scott Chipperfield はベンチからも外れていた。後で聞いたが膝の故障で入院らしい。2000年オーストラリアのNSLの Grand Final でプレーした Chipperfield ( Wollongong Wolves ) と Ergic ( Perth Glory ) が同じチームにいるのだ。う~ん感慨が深い……

そして地元の Barcelona 、メンバーとポジションの確認をしようと目を凝らしてピッチ上を眺めるのだけど選手達のポジションチェンジが速くてなかなかそれが掴めない。やはり現場とテレビ観戦との違いか……
立ち上がりから Carle Puyol と Aleksandr Hleb の2人が右サイドを抉のだが Puyol が上がった時はそれに連動して Hleb が引いてくる。

  

トップの Thierry Henry と Bojan Krkic の2人も目まぐるしく位置を変えて来る。それで Basel は2列目がさっぱり上がれずトップの Streller が孤立してしまっている。

  

あぁこれが世界のトップレベルのサッカーか…スタンドでこれだけ選手の動きが追えないのならピッチ上の対峙する選手達にはどう映るのだろう…..と感心していると後ろのレポーターと思しき男性がこの日のメンバーリストをくれた。それも UEFA CHAMPIONS LEAGUE の公式の用紙に印刷されたものだった。これは有難い。
丁寧にお礼を言うと、スペイン語で何か話しかけてくる、残念ながらスペイン語は“専門外”なのでさっぱり答えられないでいると隣の女性レポーターが英語で“ You はどこから来た?どこのジャーナリストか?” と通訳してくれたので “日本から来た、先週はずっとドイツにいた、明日は Celtic が Manchester United  との試合があるのでそれも楽しみにしている。” と答えると “何故 Celtic の試合を楽しみにするのか?”と訊かれたので“ NAKAMURA がいるからだ。”と言うと大きく頷いてくれた。
私はサラリーマンで別にジャーナリストでもなく翌日は日本に帰るのだけどそれ以上は言わなかった……… 彼女は時折 “ Liverpool 対 Athletico は Athletico が先制した….” とか途中経過も親切に教えてくれた。
メンバー表を見ながらピッチ上のフォーメーションを見ると GK Victor Valdez, DF は左サイドバックが Daniel Alvesではなく同じブラジル人の Sylvinho, CB が 192cm のGeravd Pique とメキシコ代表の Rafel Marquez, 左サイドバックが Carles Puyol, ボランチというか中盤の底と言うかDFラインの前に Sergi Basquets 、中盤は左に Andrea Iniesta, 右に Victor Sanchez, 前線がメンバー表では Bojam Krikic が真中ですこし下がって左に Henry , 右に Hleb 。しかしこの3人はポジションを頻繁に替え、私が観た時はしばらく Henry がトップで左にKrkic, 右に Hleb がいた。おそらく日本のバルサファンならスタメンさえわかればポジションくらいはすぐに分かったかもしれないなぁ……..
前節の試合から4人のスタメン選手が入れ替わり、3日前のアウェーでの Malaga CF 戦( 4-1で勝利 )のスタメンだった選手が前述の3人を含めて5人入れ替わった。
Samuel Eto’o と Lionel Messe そして Xavi Hernandez はベンチの“温存”されている。 この辺りグアルディオラ監督のローテンション制による選手起用だろうが Iniesta の前節の怪我による長期離脱は痛いだろう.......

序盤から攻勢を続ける Barcelona はHenry が各の違いを見せる。20分には Hleb にナイスパスを出しシュートを演出するがボールはGK Costanzo の正面に。21分には左サイドからのクロスに走り込んで放ったショットは Ergic が何とかブロック、 Henry にボールが渡ると何かが起こりそうだった。 それでもBasel は 中盤のアンカー役の Huggel がバルサ攻撃陣の侵入を防ぐ防波堤になりDF陣の負担を少しでも減らそうとしている。時折 MF の Stockner が上がってそこにボールが出るがバルサDF陣の前に最前線の Streller へのラストパスは遮断され続けた。27分にはHuggel が Puyol を振り切り前の Stockner に、Stockner は左サイドを上がり Busquets を振り切ってクロスを上げるが GK Valdes がキャッチ。このシーンが前半、 Basel から遠征して来たサポーター達が唯一沸いたシーンで以降はバルサの攻撃が続いた。27分には Henry がアクロバティックなシュートを放ちゴール裏のバルササポーター達の歓声が沸き上がる 。30分には Krkic が Huggel をかわしてミドルを放つがGK正面に。34分には Sylvinho の直接FKがゴールポストをかすめ、36分には Hleb が倒されて得たFKを再び Sylvinho が Basel ゴール前に蹴り込み Henry がフリーでヘッドを放つが惜しくもゴール枠から外れる。あぁ Sylvinho を起用した理由はここにあったのか….と感心させられるFKであった。 
しかし前半は両チームとも得点は入らずスコアーレスで終えた。ボール支配率は Basle 34に対して Barcelona は66 と圧倒していたが……

ハーフタイム中に後ろのレポーターの女性とすこし話をした。昔ここでクラシコ esposa と観戦したことや EURO 2008の決勝戦を観たこと(彼女も観戦したらしい)等など、そして昨シーズンの Champions League で中村俊輔のいる Celtic との試合もこの Camp Nou で彼女達は観戦したとのこと.......でもあまり日本の事は知らないと言っていたなぁ….一度行ってみたいと言っていたけど…寿司は好きらしい… あぁ俺もスペイン語を話せればメンバーリストをくれた男性と色々話せるのになぁ…..                    後半に続く 

     

EURO 2008 7.1 セブンイレブン Stockholm

2008-08-02 | EURO Football

朝4時半に携帯のアラームをセットし、ホテルをチェックアウトし Wien Westbanhof 駅前のバス停留所に徒歩で向かう。夏至から1週間程度が過ぎたばかりなので当たり前と言えば当たり前なのだが午前5時を少し過ぎたばかりと言うのにもう完全に夜が明けていた。それでも夏時間だから普通は午前4時。やはり欧州だ。
Westbanhof から空港までバスで予定では約35分。早朝だから渋滞は無いと思っていたし、渋滞に巻き込まれればフライトが午前7時過ぎなので少しピンチだった。ハイウェィから空港方面の出口に分かれるところで多少の渋滞はあったが空港の到着ロビーに辿り着いたのが出発の1時間半前だった。しかし安心は出来なかった。ここはいつも膨大な搭乗客で溢れかえっていて、この日も全く状況は同じ。何年か前は1時間も搭乗窓口の順番待ちで待たされた揚句“チェックイン時間が過ぎましたのでこの便には登場出来ません。”と言われ、腹が立って思いきりカウンターを蹴り上げた事があった。その時は結局荷物を機内預けにせずそのまま搭乗口まで行きすべて機内持ち込みにして何とか離陸に間に合ったのだった…….
この日も大変な数の搭乗客達が。ここも他の国際空港の様に Self Check In の機械が何台も設置されている。そして係員が何人かいてその扱い方法を搭乗客に説明しているのだが、機械も全てが正常に稼働している訳でもなく、発券時の条件などからどうしても搭乗カウンターに行く必要のチケットだったりして思うように列が短くならない。更に “どうしても並びで3席取りたい。”と係員にゴネる家族づれがいる始末。一人旅の私は “スムースに“ 数分とかからず自分で手続きを終え、横に立っていた係員にピースサインを出すと、彼女もにっこり笑って“ Danke Schön !! ”と返してきた。 しかしまだ機内預けの荷物をカウンターに持っていかねばならず搭乗口に就いた時は出発定刻の20分前を切っていた。 しかし、私がそこに着くや否や出発が20分遅れとの表示が映し出された………..

機内では水平飛行に入りベルト着用のサインが消えるとすぐにコーヒー類と軽食が出て、それを食べると機体が着陸態勢に入った時にベルト着用とテーブルを元に戻すことを促しに来たフライトアテンダントに起こされるまで眠ってしまった。そしてテーブルの上は綺麗に片づけられていた…..( 当り前か…….)
スウェーデンでは通貨が EURO でないので両替をせねばならなかった。EURO はまだ一般に流通していなかったと記憶する2000年頃EURO は一時100円を切りそうな時があった。その時は北欧の通貨を含めた欧州の通貨はが軒並み日本円に弱かった。2000年の8月は 1SEK = 11円台だったのが今は18円近くする。その上北欧圏の物価の高さ……….

空港から顧客に電話を入れると迎えに行くから30分ほど待っていてほしい、市内のホテルまで送るから…..と言われたのでここで待つことに。スウェーデンにはセブンイレブンが広く普及しているのが特徴で空港内にもある。と言っても大きくはないし、日本の様にほぼ何でもそろっていると言う訳でもないが…….. サンドイッチとコーラを買ったけどやっぱり 1,000 円近くした。日本ならこの半額も行かないのだが。  

       

顧客は初めて会う顧客、身長が190cm近くある長身の紳士。さすが北欧と思っていると何と彼はオーストラリア人で御夫人がスウェーデンの女性。もともとスウェーデンと貿易のビジネスをしていたので現地の女性と知り合い結婚に至ったそうだ。ビジネスは好調でほぼ2カ月おきにオーストラリアとここを往復しているとの事。6月初旬にはオーストラリアの Gold Coast, Brisbane に行っており、私もその時期にそこに行っていたことを告げ、その時記録的な雨にあった事など“オーストラリアネタ”で車中盛り上がった。彼の出身である Gold Coast はほぼ年中太陽が輝いているが北欧の夏は快適だが、夏季は短く、冬の寒さと日照時間の短さは堪えるのでその時期はオーストラリアに行く様にしていると話していた。 彼の好きなスポーツはラグビーだが、ここでは誰もラグビーの事を知らないので話し相手がいないとも言っていた。昨年のラグビーのワールドカップはフランスまで観に行ったそうだが日本戦は観なかったとの事。まぁ結果はわかりきっているからなぁ……. サッカーはワールドカップ前後に興味を持ち始め一昨年のワールドカップ、そして昨年のアジアカップの事もよく知っていた。やはり故国を離れるとアイデンティティティ精神が芽生えるのかな……… 

    

市内に着いてランチを一緒に摂りながら商談を済ませ、ホテルに入ったのは午後2時。さすがにオーストリアと比較しても気温の低さはすぐに感じ取れて北欧の短い夏の快適さを堪能…… と行きたかったが、次にアポイントまであと数時間あったこともあり、睡眠不足も手伝い一旦寝ることに……
夕方、次の顧客に会いに出かけたが太陽はまだ高い位置にある。それでいて暑さは感じない。街ゆく人々の中には長袖の人も。 
次に会った顧客はここに20年以上在留されているKさんと言う日本人男性の方でいろいろ北欧事情に詳しい方だ。スウェーデンの人気のスポーツはやはりサッカーらしい。最近はハンドボールやアイスホッケーが五輪や世界選手権で優勝を競う様になったがやはりサッカー人気は根強いらしい。
私が初めてワールドカップに触れた1978年アルゼンチン大会では予選でノルウェー、スウェーデンを寄せ付けず本大会に進出して来た。ブラジル ( 1-1 ) オーストリア ( 0-1 ) スペイン ( 0-1 ) と同組になり2次リーグには進めなかったがテレビで観たブラジル戦でファインセーブを何度か見せた 当時1FC Kaiserslautern 所属のGK ローニー=ヘルストレームのプレーが忘れられない。ブラジル戦では 1-1 のロスタイム、最後のブラジルのCK のチャンスからジーコのヘディングシュートが決まったがウェールズ人の John=Thomas 主審は CK のボールが空中にある時に試合終了のホイッスルを吹きノーゴール。リベリーノを始めブラジルの選手達が主審に詰め寄ったがThomas 氏は腕時計を指すだけでもちろん判定は変わらず。対照的にヘルストレームの元に駆け寄り喜びを露わにするスウェーデンイレブンが印象的だった。
スウェーデンは1970年大会にはフランス、ノルウェーを抑えて準優勝を収めた地元開催以来12年ぶりに本大会出場を決めたが1次リーグで敗退となった。
その翌1974年大会ではオーストリアをプレーオフで降し欧州予選を突破。1次リーグをオランダと共に勝ち抜き2次リーグに進出。豪雨で試合開始時間が延期された西ドイツ戦では死闘を演じ 2-4 で敗れたが、この試合の先制ゴールとなった当時の中心選手エドストレームのロングシュートは“大会で最も美しかったゴール”との評価を得たらしい。西ドイツ大会では4得点を挙げたエドストレームは次のアルゼンチン大会にも出場したが大会前の負傷の為に充分な活躍が出来なかった。
1978年のワールドカップ後のシーズンに始まった Europe Champion Cup ではスウェーデンの Malmö が AS Monaco, Dynamo Kiev, Wisla Krakow, Austria Wien を降して決勝戦にまで進出、Nottingham Forest との決勝戦ではトレーバー=フランシス のヘッドに沈んだがその健闘ぶりは大いに湛えられた。 この数年前に日本でも“サッカー小僧”のタイトルで上映されたスウェーデンのサッカーを題材にした映画 ”FIMPEN" が作成され、試合のシーンでは当時の現役選手エドストレーム等が実名でアナウンスされたシーンがあったがその当時まだワールドカップに16カ国しか出場資格がなかった次回3大会連続で欧州予選を勝ち抜いたスウェーデンサッカーの興隆の時期であったと思う。 

その後しばらく低迷に時期に入ったが1992年の地元開催の EURO では準決勝に進出しドイツと死闘の据え2-3 で敗れたが1次リーグで強豪のEngland, France を抑えて準決勝に進出した事は欧州でも評価された。特に1次リーグ最終戦の England 戦はPlatt のゴールで先制されながらブローリンのゴールで逆転勝利を収めた試合。Gary Lineker の最後の代表での試合であった。
そして前回に続いて連続して本戦出場を果たした1994年ワールドカップアメリカ大会では準々決勝でルーマニアをPK 戦で降し(私はその試合をブカレストでテレビ観戦していた)地元開催の1958年大会以来のベスト4に進出。準決勝ではブラジルに敗れたが3位決定戦ではブルガリアを 4-0 で破り(といってもブルガリアのモチベーションはかなり低かった。)久々のワールドカップでの好成績に大いに国が沸いたらしい。
GK Raveli, FW Brolin らが名を挙げた大会であった。

 今回の EURO では最低でも準々決勝進出が期待されていたらしい。ギリシア ( 2-0 ) 、スペイン戦 ( 1-2 ) を終えロシア戦を迎える前でもベスト8は……と思われていたらしい。日本の専門誌もロシアよりもスウェーデンの有利を伝えるものばかりが目立っていた。 しかしスウェーデンの前には復活したアルシャビンを擁したロシアが立ちはだかり前回の様にベスト8進出はならなかった。2004年大会はイタリアを抑えてデンマーク、スウェーデンが揃って1次リーグを突破し、観客が試合後 Scandinavia 2-0 Italy と言うプラカードを掲げていたが……. 

 

Kさんによると地元の人々は “1次リーグ敗退は仕方ないが最後にロシアに敗れたのは……” と思っているらしい。ロシア対スウェーデンと言うと一時期のアイスホッケーの決勝戦で両国がよく激突していたが歴史的に見ても因縁が深いらしいが、第二次大戦中は武装中立政策をとるものの反ナチ、レジスタンスを匿い、ユダヤ人保護の態度を貫いた。

Kさんと色々話し込んで時計を見るともう10時を回っていた。それでも外はまだ薄明るい。ホテルに送ってもらったら時計は10時半を回っている。それでも丁度日没直後も様だ。Kさんと飲んだビールのおかげで睡魔が襲ってきてそのままベッドに倒れこんでしまい、翌朝は5時に目が醒めた。まだもう一寝入り出来る時刻だったけどそのまま起きていることに。あとは日本に帰るだけ、帰りの機内か日本に就いてからゆっくり眠れると思っていた。 しかしまとまった睡眠時間を確保できたのは帰国して何日も経ったからだった……….

やっぱり欧州は良いなぁ……ここに来る度に思う事はいつか移住したいという思い。

でも何年か経てば日本が恋しくなるだろう……しかしその前に家内が付いてきてくれるかな?? 

その心配は移住しなくても消えないか??? 

   


EURO2008 6.30 余韻を残してモーツァルトの街 Salzburg に……

2008-07-20 | EURO Football

EURO2008 の Final の翌日。興奮が体内に残っていたのか朝6時に目が醒めてしまった。床に就いたのは午前1時少し前だったのに….. しかし窓の外は曇り。そしてとうとう雨が降って来た。
テレビを見ながら、スイスで買った“高い”ビスケットの残りをかじりながら、前夜 Stadium からの帰り道に買ったコーラを飲みながらメールの整理をする。ここのホテルでは ARD や RTL と言ったドイツのテレビ局が受信できる。ある局のニュース番組では前日数千人が集ったという Berlin の Fan Zone からの中継でそこで一夜明かしたと言う人達のインタビューなどが映されていた。そして試合のハイライトが流れる。面白かったのはミックスゾーンでインタビューを受けていた Schweinsteiger の脇をスペインの選手達が “ Campeones ! Campeones !! “ と叫びながら子供が電車ごっこをする様に列をなして走り回りインタビューを遮ってしまったシーンが映された時だった。その時の Shcweinsteiger の呆れた表情は面白かった。しかしそれは決して憎悪や批難の眼差しでも無かった。試合翌日にこう言うシーンをテレビを通してでも見られるのは“地元”にいる特権か?? 
しかしゆっくりもしてられない。この日は列車で Salzburg まで日帰りで行かねばならなかった。荷物をまとめてホテルを出てU-Bahn に乗り当初宿泊しようとした Westbahnhof の近くのホテルに行った。まだ部屋の準備は出来ていなかったので手続きだけを済ませて荷物を預けて徒歩5分足らずのWestbanhof に向かった。最初はここのホテルに2泊するつもりだったがさすがに決勝戦の夜は満室で取れなかった。このホテルは国際列車の発着が多く、また空港行きのバスも出ている Westbahnhof の近くにあり、また近くに安いスーパーもあり非常に便利でいつも泊まることにしていたが、前日泊まったホテルも悪くはなかった………

Westbahnhof には寿司の Take Away 店があった。何度かここを使っているがこの Take Away 店舗を見たのは初めてだ。さっそく Sushi Bento を買った。聞けばここの御主人は中国人との事。 “どこそこの国で寿司を食ったけどひどいものだった…..” と言う日本人旅行者がいるが、はっきりいって私はすべてがそうだとは思わない。 Take Away Sushi などは日本の Take Away 店よりレベルの高いところが多い。 Australia や New Zealand では海苔巻が握り鮨よりも人気があるが、そこの海苔巻は結構レベルが高い…….。

プラットホームにはドイツ人とスペイン人が何人かいた。さすが Westbahnhof ここから国境を越える列車で帰国するのだろう…..さすがにスペイン人達は誇らしげ。中には国旗を纏っている人達も。ドイツサポーター達とニアミスをしても決して紛争など起る雰囲気ではなかった。 私の待つプラットホームではドイツ語のアナウンスしか流れない。その為かスペインサポーターの一人が乗車券を見せながら英語で私に何か話しかけてきた。私が乗る列車と同じだったが、掲示板のところの “15分遅れ” と言う案内がわからなかったらしかったので自分と同じ列車であることと到着が遅れることを教えた。そして彼らの “ Espana ! Campeones !! “ と言うとよほど嬉しかったのか持っていた缶ビールを飲んでくれとばかりに一本差し出された。しかしこれから Salzburg で仕事があるからと丁寧に断った。
Salzburg まで所要時間は約3時間。しかし社内には電源を取る単相の差し込みが付いていて到着までさっき買った寿司を食べながらパソコンを使う事が出来る非常にありがたい列車だった。日本の新幹線ももっとこのあたり改善をしてくれると有難いのだけど……

Salzburg に到着したが時間が無いので今回は顧客のところを訪問してすぐに Vienna に戻るためにすぐにこの中央駅に引き返さねばならない。だから試合が行われた競技場を観に行く時間は無かった。駅前の広場に Souvenir Shop らしきテントがあったが閉じられていた。中央駅の壁にはオーストリアの選手達の写真がまだ残っていたが…….. 

  

Stadio Salzburg Wals-Siezenheim では1次リーグの Greece 戦3試合が行われた。即ち Greece はここを移動せずに1次リーグを戦えたのだ。しかし結果は3連敗。Rehhagel 監督をはじめ、4年前の決勝戦に出場した交替出場を含めた13人にうち GK Nikopolidis, FW Charisteas ら7人経験者がいたが、大会2連覇とまではいかなくてもせめてベスト8は…と願って来たであろう多くのギリシア人サポター達を喜ばせることは出来なかった。良く考えれば前回大会以降に繰り広げられたワールドカップ予選では勝ち抜く事が出来なかった。EURO2004 の快挙が偉大すぎて監督以下選手、戦術すべて変えられなかったのかもしれない……… 

   

顧客との話のなかでも前日の Final の話などが出た。そして地元の Österreich Nationalmanschaft の1次リーグ敗退については“ Konsequenz (当然の結果)”と言い放った。1978年ワールドカップアルゼンチン大会は Krankle の2発で 47年ぶりにドイツを破る快挙を成し遂げたりしたがその後は目立った戦績を残せず、ワールドカップは2大会連続予選落ち。そしていまや“日本に負けるチーム”になってしまった。それでも Korkmaz, Prodl そしてHarnik ら若手が出て来た。9月から始まるワールドカップ予選は Romania, France, Serbia, Lithuania, Faroe Islands と同組だ。France, Romania, Serbia 相手では厳しいかもしれないが全くチャンスが無いとは言えないだろう。9月6日の予選開幕戦で Vienna に France を迎える。もしこの試合で勝つような事があれば次には Lithuania, Faroe Islands が相手。開戦劈頭勝ち点を稼ぐチャンスとなる。そして Salzburg と言えば宮本の所属する Red Bull Salzburg がある。三都主は帰ってしまったが宮本の地元での評判は悪くはなかった。入団時はドイツの専門誌 Kicker にも紹介記事が掲載されていたくらいだった。またいつか観戦の機会でも……..と思いながら今回は古城を眺める時間もなく Vienna 行きの列車に飛び乗った。 

  

ホテルに入ってテレビを点けるとスペインのチャンネルで凱旋するスペイン代表の様子が映し出されていた。これはおそらく生中継の映像ではないか? 時計の針は午後8時だというのに(夏時間だからは実際は午後7時)この明るさ。スペインワールドカップを思い出した。 Aragones 監督を初め雛壇に上がった選手達は当然誇らしげだがステージ上での選手達のはしゃぎぶりはそのお国柄か…….しかし44年ぶりの栄冠を勝ち取っただ、誰も文句は言わないだろう…….. 監督をはじめ次々に選手達が壇上でスピーチをするがスペイン語はさっぱり判らないので何を言っているのか……. 観客が Campeones Campeones !! と発する度に壇上で踊り上がる選手達とは対照的にAragones 監督は非常に落ち着いていて1度スピーチをすると司会者にマイクを向けられてもほとんど何も話さなかったみたいだ。 後で知ったがEURO2008 の栄冠と共に代表監督を退き、トルコの Fenerbahce への就任が決まっていたらしい……… 

  


テレビを見ながらメールや仕事を片づけて U-Bahn に乗って昨日行かなかった知り合いの和食レストランに向かう。もう初めてここに来てからもう9年になる。御主人は韓国人のKさん。店を開く前から Vienna に渡って来て和食レストランで働き技術を身に付け自分のレストランを開いて10年以上になる。今は店舗を3軒持っている。店は閉店前で従業員の人達が店じまいに入っていたがウェイトレスはみな中国人との事。板前さんもフィリピン人が二人で。自分も毎日店に立つとの事。昔は韓国人を容易に雇えたが今は数が減り、中国人やタイ、フィリピン人の板前やキッチンハンドが増えたらしい。商売の方は?というと EURO のおかげで今年はさっぱりだとか。訪れる人は多いがみなビールを飲み、レストランの中に入ってこない。じゃぁ大会が終わってこれからでは….と訊くと、これからバカンスシーズンに入り Vienna からは人が激減するから9月ごろまで暇になる……と言っていた。 Vienna はParis の様に物価が高くないから観光には最高なんだけど……てな話を。それから K さんはサッカーも好きなのでワールドカップ予選アジア地区の話もした。 韓国は今度ばかりは非常に厳しい、日本は行けても韓国はどうか…..と珍しく弱気な事を言っていた。閉店後ビールを飲みながらこんな話をしていたら午前1時近くになってしまった。K さんにホテルまで送ってもらい“また今年中に来て下さい。”と言われて握手をして別れた。 

忘れていたが翌朝のフライトは朝の7時。4時半起きを忘れていた……

あぁ起きれるだろうか………… 

    


EURO2008 決勝戦は夢の世界…….

2008-07-16 | EURO Football

無敵艦隊…….1998年ワールドカップフランス大会からスペイン代表チームの通称として用いられてきているらしい。私が初めてこの言葉を耳にしたのは高校生の世界史の授業だった。1588年大英帝国艦隊はアルマダの海戦で当時“無敵艦隊”と呼ばれていたスペイン艦隊を撃破し制海権は大英帝国に奪われそれがスペイン衰退の予兆となった…..と受験世代の私は習ったと記憶していた。 
それではフェリペ二世により英国征服に出征したスペイン艦隊はそれまで無敵だったのだろうか?? そもそもこの無敵艦隊とはスペイン語Armada Invencibleの訳。
この名称は、この艦隊を壊滅させたイングランド人が、皮肉をこめて考案した通称で、本国スペインにおいては、「最高の祝福を受けた大いなる艦隊(Grande y Felicísima Armada)」と呼ばれていた。中立な視点からは、英語の文脈ではSpanish Armada、the Armadaなどと呼ぶとの事。それまで何度も敵を撃破した艦隊ではなく、英国征伐の為に出征し敗戦を喫した艦隊で“無敵”とは言い難い艦隊だった。従ってスペイン人または現役、歴代のスペイン代表選手達が“無敵艦隊”と呼ばれる事を好むのだろうか?? 残念ながらスペイン語は専門外で日本語をよく理解するスペイン人にまだであった事が無いのでそこら辺を訊いたことがまだない。いつか訊きたいと思っているのであるが……..

EURO2008 を制したスペイン代表。44年ぶりメジャータイトル獲得の道程は長かったと思う。生まれて初めてその喜びを実感した人達も少なくなかっただろう。1966年ワールドカップイングランド大会に出場以来2大会連続で欧州予選で敗れようやく出場を果たした1978年ワールドカップアルゼンチン大会では1次リーグ落ち。地元開催の翌スペイン大会ではユーゴスラビア戦の“ホームタウンテジョン”の疑惑の判定に助けられ2次リーグ進出がやっと。2年後の欧州選手権では決勝に進出するも将軍プラティニの直接FKをGK名手アルコナーダが後逸し準優勝に終わると以降不運な判定に泣くこともあったが欧州選手権、ワールドカップでは Semi Final にさえ進出出来なかった。

6月29日オーストリアの首都ウィーンの Ernst Happel Stadion 。本当に偶然にも幸運にも入手できたチケットを持って競技場内に入り眼前に広がる光景を私はまだ信じることが出来なかった。試合開始までまだ30分以上はあったが右側からはスペインサポーター達の大歓声が大波の様に押し寄せ。反対側のゴール裏には白一色(に見えた)ドイツサポーター達の歓声が聞こえる。それはある意味羨ましい風景でもあった。 欧州選手権は日本人の私にとっては“関係の無い”大会。それだけに勝敗に左右されず試合結果を楽しめる大会ではあるがしかし日本代表が出てこられる可能性は絶対に無いのだ。 Asian Cup がこれだけ盛り上がれば良いのだが…..欧州選手権が開催される度に私が思うことだった。

  

スペイン、ドイツの両選手がピッチに現れ大歓声の中彼らがアップを始める。スペインの Villa は見当たらなかったがドイツの Ballack はスタメン候補メンバーと共に同じメニューのアップをしている。どうやらスタメンで出てきそうだ。そしてスペインからアナウンサーが選手の名前を言うとサポーターが名字を叫ぶお馴染みのスタメン発表が始まる。ドイツ代表のスタメン発表は覚えのある声だったので本国ドイツから著名なアナウンサーを連れて来たのかもしれない。そしてそれはスペインも同じことだったのかも知れない。
そして決勝戦に先立って“セレモニー”が始まる。その見事な演出に見とれていると入場を控えた両チームの選手達がスクリーンに映し出され、いよいよキックオフの時間が近づく。またも大歓声が沸き起こり選手達が入場し、国歌演奏の後に選手達がピッチに散り、イタリア人の Robert Rosetti主審 のホイッスルでスペインのキックオフで“夢の試合”が始まった。

   

試合は立ち上がりから劣性が予想されていたドイツがサポーター達の歓声に後押しされる様にスペインゴールに迫って来る。怪我が心配された Ballack も前線に積極的に絡んでくる。今のスペインを相手にするには Ballack 抜きでは厳しいと思った。
3分には Ramos から Puyol のパスをカットした Klose がそのままスペインゴールに迫るがシュートには至らない。5分には Ballack, Lahn, Podolsky と繋がったボールが再び左サイドを上がった Lahn に渡りバウンドを利用して Ramos を交わして,8分には Ballack が左サイドを Puyol を外してそれぞれクロスを送るがシュートは引き出せなかった。立ち上がりからスペインの右サイドを突いたのは意図的だったか?9分には Lahn が左サイドを突破し入れたクロスを今度は Hitzlsperger が合わせてシュートを放つがこれは GK Casillas の正面。12分には Klose が Marchena と空中戦を競りながらCKを得るなど、スペインサポーターの陣取る私の座っていた方にドイツが攻め込む時間が続く。ドイツはDFラインを高い位置に置き、CKのチャンスには9人の選手をPA内、付近に集めて先取点を伺う。試合を面白くするためにはドイツが先制する方が面白いと思った。しかし13分過ぎからスペインが得意のワンタッチ、ツータッチで回すパスが繋がりだしボールキープ時間が徐々に長くなる。20分には Torres がMetzelder に倒されて得たFKを Xavi Hernandez が入れると再び Torres が Metzelder と競りながらもヘッドを放つがわずかにクロスバーを越える。23分には右サイドを Cesc Fabregas が突破し後方の Ramos に戻すと Ramos が Far Side に送ったクロスを Torres が Metzelder と競りながら放ったヘッドはポストを直撃。そのこぼれ球を繋いで Joan Capdevila が撃つがポストの右に外れていった。スペインサポーター席から一斉に溜息が洩れる…… 立ち上がりから自分のサイドを切り裂かれ続けた Ramos が少しは溜飲を下げたか……..
16分過ぎから Ballack が中盤以降に下がってSchweinschteiger が左サイドにも出て来る様になった。 Ballack でないとスペインMF陣には対抗出来ないか?? そしてそれでも25分のCKの Podolski が右サイドを突破して得たCKのチャンスには上がってきて豪快なボレーを放ったがそれは Ramos にブロックされた。26分には左サイドをワンツーで抜け出た Capdevila がFriedrich のタックルより早くセンタリングを入れるがここはGK Lehman がキャッチ。 29分には Ballack が Cesc に、その直後には Ramos が Podolski に激しくあたりファールを受ける。いよいよ試合がタフになったなと思った30分、この試合を左右したシーンが。スペインゴール前に送られたドイツからのパスをカットしようとした Capdevila がトラップして浮かせたボールが右手に当たったのだ。それは観客席からもはっきり見られ、隣に座っていたドイツ人が立ち上がって“ハント!ハント( Hand ) !!” と言って立ち上がる。 Capdevila の真正面にいた Schweinsteiger も主審にアピールするがPKは与えられなかった。この判定は後にドイツ人の間で物議を醸すだろう……
そしてその3分後、先制点がスペインに生まれる。 センターサークルの後方からMarcos Senna からXavi への縦パスが通り、そこから更にスルーパスが Torres に通る。一旦は Lahn が Torresの前に体を入れるが Torres が右から Lahn の前に割って入りまた Lehman の動きもよく見ながらワンタッチの見事なボールコントロールでドイツゴールに流し込んだ。 Torres は1次リーグではスウェーデン戦でゴールを挙げて以来の決勝トーナメント初ゴールだった。スクリーンにはJuan Carlos スペイン国王、Sofia 王妃の喜びの表情が映し出される。

  


均衡を破ったのはドイツで無くスペイン。ドイツはこの劣勢をどう挽回するのか、また挽回できるのか…. 周囲のスペイン人サポーター達の手拍子は鳴りやまない。その中で左サイドからPA内に切れ込んだ Iniesta が逆サイドに送り右から中にから切れ込んだ David Silva がボレーで撃つがこれはゴール枠を大きく外れる。得点後のこう言ったチャンスは往々にして決まらないものと自分は思っているので Silva が切れ込んでも”こりゃ入らんな。“と思ってみていたが周囲のスペインサポーター達は顔を覆って悔しがっている。その直後に今度はドイツ人サポーター達の顔が引きつるシーンが。 Ballack が右目上から血を流し、ピッチ外に出て行く羽目に。スクリーンのリプレイで Marcos Senna との競り合いで負傷したらしい。3分ほどしてピッチに戻ってくるが出血は止まらず、主審から再治療を指示されまたもサイドラインへ。 この劣勢の中で Ballack が下がってしまえばドイツはかなり苦しくなる。
1982年ワールドカップスペイン大会の決勝戦。下馬評はアルゼンチン、ブラジルを連破したイタリアが有利。エース、Karl Heinz Rummenigge が負傷を押してのスタメン起用だった西ドイツを当時中継していたNHKの解説岡野俊一郎氏は “ドイツ勝つ為には絶対に先制点が欲しいですね。”と試合開始直前に言ったことをここで思い出した。結局 Rossi, Tardelli, Altobeli にゴールを決められエース Rummenigge も途中でベンチに下がった西ドイツは Breitner のゴールで一矢報いたに留まった。しかし Ballack は40分過ぎになんとかピッチに戻ることが許され前半も追加点を許さずに終えられた。スペインサポーター達からは大歓声が、ドイツ人サポーターはやや安堵の表情を浮かべる。

後半に入りドイツベンチは左サイドバックの Lahn に替えて 191cm の長身DF Marcell Jansen を入れてきた。中盤を省略してロングボールを多用する作戦か?それを匂わすように立ち上がりはワントップの Klose にボールを放り込んでくる。
しかしスペインDF陣の統率は良く、こぼれ球をドイツは拾えない。スペインの自軍ゴール前でボールを回されピンチの連続だ。53分には Fabregas が真中から右の Torres に送り、戻し気味にセンタリングを入れ走りこんだ Xavi Hernandez が放ったショットは Lehman を破るがファーポストの右側に外れて行く。54分にはCKからファーサイドの Silvia が狙い澄ましてまたもファーポスト側にシュートを放つがわずかに外れる。しかしその前に Ramos がシュートコースに入っており右足でコースを変えそこねたのが得点に繋がらなかった。スペインサポーターからはオーっと歓声が洩れる。

   

55分には中盤からXavi Hernadez のスルーパスに反応した Torres が Mertesacker と競り合いながらもスライディングシュートを放つがここは Lehman の飛び出しが良くブロック。それにしてもこの試合の Xavi Hernadez は本当に冴えわたっていた。
58分にドイツはHitzlsperger を下げて 190cm のMF Kevin Kuranya を入れる。そして Ballack の位置をボランチ近くまで下げる。スペインの中盤からボールを奪い、正確なロングボールを前線と言うことだろうが、スペインの華麗なパス回しにドイツは後手を踏むばかり。それでも60分には途中出場の Jansen が左サイドで頑張りボールをキープ。入れたクロスを Schweinsteiger が戻し走りこんだ Ballack が強烈なショットを放つがポストの左に外れて行く。メルケル首相の惜しがっていた表情がアップになるが後半ドイツサポーター達がシュートシーンで沸いたのはこれが最後であった。

スペインベンチは63分に Cecs Fabregas に替えて Xavi Alagones を投入する。ずいぶん早い交代だなぁ…と思った。これも決勝戦だからか??65分に Podolski と Silva が口論し Silva が軽く頭突きをかます。 Ballack と Schweinsteiger が激しく主審に詰め寄るとスペインベンチから控えの選手達が飛び出してきて何やら叫びだす。この動きに今大会のスペインの強さを見たような気がした。 
そしてAragones 監督はその Silva を下げて Santi Cazorla を入れる。う~ん、実に冷静な選手交代だ。そしてここからスペインの猛攻が繰り広げられる。67分 FK に Ramos が飛び込みフリーでヘッドを放つが至近距離からのシュートは Lehman がブロック。その後のCKからのチャンスは Iniesta のシュートがゴール枠をとらえるが Frings の足に当たり再びCKへ。そのCKからも最後は Cazorla からボールを受けた Iniesta のシュートは Lehman の正面に。 ちょっとドイツ選手の足が止まって来た感じは否めなかった。

ドイツサポーター達はフラストレーションを募らせたか、選手たちを鼓舞する為か73分にはドイツ国歌を合唱し始めた。するとスペインサポーター達から口笛のブーイングが。1937年のゲルニカの遺恨か?それとも(後で知った)歌詞のないスペイン国歌へのあてつけととったのか?  78分に Toress が下がり Daniel Güiza が投入される。Güiza とて FW 選手で今大会は2得点を挙げている。決して守備固めという訳ではないしそういう時間帯でも無い。しかし Toress は納得の表情でベンチに下がる。サポーター達の陣取るスペインゴールになかなかボールを運べないドイツは79分に Klose を下げて 189cm の Mario Gomez を入れる。3人の交代選手は全て長身の選手。だがそこにボールは送られない。それでも残り時間、ドイツなら何とかする、かならず追い付いて同点にし延長戦に入りより長く試合が見られる。そう期待するもゴールを感じさせるのはスペインばかり。あぁこれで EURO2008 が終わるのか........ と思った時に主審の長いホイッスルが鳴り響きついに決勝戦が終わってしまった。 スペイン、ドイツ、それぞれの選手、サポーター達は対照的な表情だ。

  

  

私は自分が中立の立場でよかったと感じた。それでなければ試合は充分に堪能出来なかっただろう......... ドイツがワールドカップ、欧州選手権で 0-1 で敗れたのは 2000年の欧州選手権で England に 0-1 で敗れて以来。あのシアラーのゴールに沈んだ試合以来だった。
試合内容も結局ドイツが放った”枠内シュート”は前半9分 Hitzlsperger のシュート1本のみ。これでよく 0-1 で済んだものだったと言えるだろう。しかし30分の Capdevila のハンドにきちんとPKが与えられていれば........  

しかしそれらを割り引いてもスペインの定規で測ったような華麗なパスワークは素晴らしかった。高い技術によって裏付けられたものだろう。 全勝でタイトルを獲ったのはあのプラティニにフランス以来.....もう24年も経つのか........
だが破れたドイツも決勝トーナメントに入り1トップに戻してからは強さを見せ、人気の高かったポルトガルを一蹴したあたりはさすがだった。ピッチの上ではスペイン選手達のフィエスタが続く。ぼんやりとそれを眺めながら大会のレベルの高さを感じた。出場国がかつての2倍に増えたワールドカップでは1次リーグからこの様にいかない。だが出場国数拡大がなければ日本は連続してワールドカップには出られないジレンマも.........

   

しかし、ただひたすら、ここにいたこの幸福感をいつまでも、いつまでも浸っていたかった。

翌日からの仕事などは忘れて、ずっとこのフィエスタに “参加“し続けていたかった...............

  


EURO 2008 6.29 Geneva から Vienna へ

2008-07-01 | EURO Football
フランス語で溢れ返っている Genève を出たのが朝5時半。スイスとオーストリアは隣国同士だが列車移動では時間がかかるので飛行機を使わざるを得ない。 Geneve 空港は1年半前に不覚にも荷物を置き引きされたところ。朝早ければジプシー達も“職場”には来ないだろうと思ってはいたがGeneva Air Port 駅を降りてチェクインカウンターまでの約10分間の“道のり”は気を抜いてまたジプシーどもの餌食とならない様に緊張し放しだった。 
チェックインカウンターでは早朝にも関わらず多くの搭乗客が列をなしている。それに多くの荷物が。6月最後の土曜日なのでこの日から長期にバカンスに入る人達も少なくない。 後ろの人がたくさん並んでいてもお構いなしにカウンター嬢とエクセスの事や座席の事、次の乗り継ぎ便の席も並びで取ってくれ……とのやり取りが続いている。まぁ子供連れだから解らなくもないけど….. やっと順番が巡って来たが私の手続きは彼らの10分の1もかからないのでカウンター嬢も愛想よく笑ってくれる。
その微笑み Priceless ……

ここの空港も中央駅同様にフランス行きの搭乗口が別になっている。それだけフランスへの往来が多いのだろう。チェックインを済ませてすぐに税関を抜けてジプシーの入ってこられない“安全地帯”に逃れる。まだ6時前なので人も少ない。その分店も開いていないけど…… 開いていたコーヒーカウンターでコーヒーを注文するが価格は SFR5.00 ( 約525 円也 ) 。PCのキーをたたいたりして時間を潰していると搭乗時間がやって来た。機内はほぼ満席、離陸後機内食サービス(と言ってもサンドイッチと飲み物だけ)を食べたりして離陸後20分もしないうちに睡魔が襲ってきて寝入ってしまい、フランクフルト空港に到着する直前に目が覚めた。

フランクフルトは欧州でも屈指の大空港。次のウィーン行きの搭乗カウンター番号がなかなかスクリーンに現れないのでどこかで座って時間を潰そうとするのだが土曜日とあって人がわんさといてどこに行っても大混雑。仕方がないので Kiosk に行くと1976年欧州選手権決勝戦の DVD が売っていたのですぐに購入した。成田を出て最初にフランクフルトにトランジットで立ち寄った時も 1980 年大会の決勝戦の DVD を見つけて購入した。これはドイツの写真紙 Bild Sports が一昨年のワールドカップ前から販売を始めているシリーズ物のDVD で2年前のワールドカップ時に来た時は1974年大会の東西ドイツ対決の貴重なDVDが販売されていたので当時大喜びでそれを購入した。ようやくウィーン行きのフライトの搭乗カウンター番号が表示されたのでそちらに行くことに。そこにはドイツ代表のレプリカを来た人達や国旗を纏った人も。みんなチケット持っているのかな….いいなぁ……と思いながら座る場所を探した。すると電源も取れるパソコン机があいていたのでそこに直行する。フランクフルト空港では欧州内行きのカウンターの待合スペースの中に新聞棚がありDie Welt や Frankfurt Allgemine の一般紙や Frankfurt Post と言った地域紙、そして Bild 等が無料で取れる様に置かれている。Frankfurt Allgemine には  “ Wir stehen hinter euch 我々は君達の後ろに立っている “  と言う大きな見出しとともにドイツ代表イレブンが肩を組んで並んでいるところを後ろから撮った写真が。また Bild 紙には Ballack の足を赤枠で囲い決勝戦はプレー出来るのか…..を報じている。
搭乗時間が来て機内に入るとキャビンアテンダント達が水色の EURO2008 のマフラーを巻いている。Austria 航空のキャビンアテンダントの制服は赤色。水色がよく映える。そのうちの一人に “ Östrreich Wünderteam !! “ と言うと Thank you !! と返してくれたが判ってくれたかなぁ……… ワールドカップの始まる前1920 年代のオーストリアは無敵を誇り Wünderteam と恐れられていたがワールドカップが始まった1930年代には下降線に入りついにはナチスドイツに併合され当時の優秀な選手達はドイツ代表としてプレーせざるを得なくなった。それでも私が初めてワールドカップに本格的に触れた1978年アルゼンチン大会は下馬評を覆し1次リーグでスペイン、スウェーデンを連破し2次リーグにはやばやと進出を決め、2次リーグではオランダ ( 1-5 ) , イタリア (0-1) と連敗スタートだったが最終戦は終了直前クランクルのゴールで 3-2 と西ドイツを降し有終の美を飾った。この時西ドイツ国民はオーストリアから大量点を奪い、オランダ対イタリア戦が引きわける事に決勝進出そして大会2連覇を狙っていた。そのオーストリアが今は日本代表に勝てない時代になっている。恐らく再来年のワールドカップでもし両国が同じ組に入れば日本はオーストリアから勝点を胸算用が出来る相手だ。オーストリアが弱くなったのか、日本が強くなったのか…..おそらく両方だろう。

ウィーン到着が近付きお決まりの機内アナウンスが入るが、EURO2008 の入場券があればオーストリア国内の普通電車料金が無料になるので電車に乗るときは忘れずに…… との説明が。2002年ワールドカップの時は日本でそんなサービスあったかな…….空港はこの日行われる決勝戦一色とまではいかないがドイツ、スペインのレプリカを着た人達が…..そして欧州各国から着たであろう報道陣達も…..あぁうらやまシィなぁ…….

  

ホテルに向かったがいつも泊まるホテルが大会期間中は満室でとれずやっと取れたホテルであったが、歴史的建物の乱立している街中ではないがレセプションで近くのU-Bahnの駅を訊くと歩いて5分ほど、しかも中心街からも遠くない事が解った。部屋も広くてエアコンもよく効きワイヤレスランの完備された値段も高くないホテルでなかなかのものであった。書類の整理やらメールの返答をして時計を見ると午後5時少し前….何も食べていないので街中で知り合いが経営している寿司のティクアウェィにでも行こうと外に出る。あそこの寿司は安い上に味も悪くないから…….それに UEFA のサイトで調べたが大きなスクリーンが10面ほどある Public Viewing の様なところもその近くにあるので寿司でも食ってぶらぶら歩けば丁度キックオフの時間になるだろう。そうしたらそこでビールでも飲みながら決勝戦をスクリーンで観戦しよう…欧州から来る多くの人がそこで決勝戦を楽しむ様に… 
そう思い U-Bahn の駅に向かった。電車に乗り込むとスペイン、ドイツ両国のサポーター達が多く乗っていたがドイツの方が多かった。そこで私はまだ時間があるので競技場の近くに行ってみよう、そこで写真を撮ったりしてまた中心街に寿司を食べに行こう……と思い彼らの後ろをくっ付いて行く事にした。 U-Bahn を乗り換えて Stadion の駅に到着、出口に向かっていると1人のご婦人が何やら持って立っていた。私の前を歩いていたドイツ人達が声をかけたがすぐにその場を立ち去ったので近づいて今度は私が声をかけた。彼女は決勝戦のチケットを持っている。1枚しかないが買ってくれないか…..という話だ。前の人達もチケットを探していたが複数求めていたの1枚しか無くしかも価格が折り合わないらしかった。売値を訊くと“定価€335” に対してそんなに吹っかけていなかったので少し値下げ交渉して購入する事となった。正直信じられなかった。この日に Vienna 入りしたのは決勝戦というよりも行程の都合で、テレビ観戦で充分と思っていた。欧州のどこかで見られれば大会の雰囲気はより濃厚に感じられるし時差に悩まされずに済むと思っていた…… 訊けば彼女はドイツから来ておりインターネットオークションでチケットを手に入れたがスペイン側なのでどうしてもドイツ側に座りたかったとの事。ドイツ側のチケットは何とか手に入れたが”余った“このチケットをどうしてもドイツ側のチケット代金の”足し“にしたかったらしい。彼女は何度も私に御礼を言い、これはここに透かしが入っていて千切れにくいから間違いなく本物だと言うが、あまり何度も言われると本物かどうかともおもってしまう。最後の Vielen Spass !! と言って握手をして別れた。

こうなると予定が大きく変わってくる。まず何か食べなければ。駅構内にスーパーがありそこで寿司は無いので(あるわけないか??)サンドイッチとジュースと買う事に。そこでは両国のサポーター達がビールを片っ端から買っている。すごい輩になるとケースごと買っていく。店員も補充に追われて大変だ。それにしてもオーストリアの物価の“安さ”に”ありがたみ“の念が絶えない。スイスだと 500ml のペットボトルコーラ1本がSFR 3.4 (約350円 ) がここのスーパーでは €0.98( 約160円 ) 。

 

ここで買った食べ物を持って競技場に向かう。競技場は駅の近くの遊園地を通り抜けて行くのだがその途中でサンドイッチ等を食べているとドイツ、スペインの両サポーター達が気勢を上げている。まだキックオフまで2時間以上もあるのだが。この日の私の服装は Glasgow Celtic のレプリカ。ここで日本代表のユニフォームは場違いすぎるし何か欧州のサッカーファンに今日本の存在をアピール出来るものと言えば中村俊輔の Celtic だと思ったからだ。途中で数人にユニフォームを“いじられた”が全て好意的なもの。中には Rangers のサポーターもいた。勿論  NAKAMURA は皆が知っていた。

結構な距離を歩いてようやく競技場にたどり着いたがここからが緊張だ。入口付近で何組かチケットの価格交渉をしているこちらの方にすべきだったかな…….でもまだ残っているんだなぁ….. まず最初はチケットにしるしが入れられて二重に使われない様にされる。そして所持品と身体検査を受けるがそんなに厳しくはなかった。そして競技場の入り口に近づく。チケットを係りの女の子に渡し改札機を通すと何と赤いランプが。背筋に冷や汗が湧きだすのが解った。“あちらの機械で通して見て下さい。”と言われてもういちど仕切り直すと……緑のランプがついて今度は額から汗が流れる。私の前に並んでいた人が改札口を抜けた瞬間に両手を上げて何か叫んだが私もそう言う気分だった。
座席はスペインサポーター達が多く陣取る地域でコーナーフラッグの後方。競技場には私の好きな陸上競技用トラックがあるが観客席の角度に工夫が施されている上に私も比較的前方なので見通しの良いピッチの迫力がよく伝わってくる素晴らしい席であった。両隣りはドイツ人。前後はスペイン人の家族と仲間達。右側からスペインサポーター達の大歓声が押し寄せて来る。ピッチの上では選手達がアップを始めだし大歓声が渦を巻く。

 

そしてスペインのスタメンが発表される。最初に選手の名前を読んで観客が苗字を叫ぶ。負傷の Villa に替って予想通り Cecs Fabreges が起用される。そしてドイツのメンバー紹介が始まるがこちらは肋骨の負傷でスタメンを外れていたFrigs が Rolfes に替わりスタメンに復帰し、懸案となっていたBallak はスタメンに。 Ballak 映し出されるとドイツサポーターから大歓声が起こる。 

試合開始30分程前に選手達が控室に戻ると衣裳をまとった老若男女達が現れた。どうやら閉会セレモニーが決勝戦の前に始まる様だ。その演出をみるとさすが欧州という気がしてならない。 

そのセレモニーが終わり選手の入場、そして国歌の斉唱が続く。途中で気がついたがドイツ国歌斉唱の時はスクリーンに歌詞がでていたけどスペインはどうなったのだろう…….. そしていよいよキックオフの時間が。スペインのサポーター達の歓声はすごい、恐らく反対側に座っていればドイツがすごいと感じた事だろうが…….

立ち上がりはドイツが Ballak, Klose を中心に攻勢にでる。ロシアを完璧に抑えたスペインのDF陣だが Ballak 相手では勝手が違うか……しかし10分を過ぎて来るとスペインがサイドチェンジやワンタッチ、ツータッチのパスを使って徐々にドイツゴールに迫る回数が増える。 Torres がボールを持てば更に大きな歓声が後押しをする。そして有名なドラムの音が。あのバスク地方出身のバレンシアでレストランを経営するスペインのサポーターならだれでも知っている人のドラムのリズムだ。徐々に劣勢になるドイツは Ballack のポジションを下げて行く。今のスペインの中盤に対抗できるのは Ballack だけか? Chelsea に移籍後は守備もゲームメークもする様になったそのプレースタイルが生きて来るか…..しかし大歓声に後押しされるスペインの攻撃陣に後手を踏む。
そしてついに32分縦パスを受けた Torres がLahm を振り切りGK Lehman の動きをかわすようなシュートが決まりスペインが先制する。赤いレプリカを着たスペインサポーター達が喜びを爆発させる。しかし相手はドイツこのままのスコアーでは終わらない、ドイツが 0-1 で敗れるところをここしばらく観た記憶がないから……

  

35分 Ballack が倒れている、スクリーンでアップになったところを見ると目尻を切って流血している。Senna Marcos と競り合った時にバッティングをしたのだ。ピッチの横で止血治療を受けている。3分程してピッチに戻るが流血が止まっていないという事でイタリア人主審に再治療を命ぜられる。この状況で Ballack が抜ければドイツは少し厳しい戦いとなるが結局絆創膏を貼りピッチに戻るとドイツサポーターから拍手が起こる。前半は結局1分あったロスタイムを終わっても 1-0 以上スコアーは動かなかった。

ハーフタイムの間に有名なドラムを叩くスペインの“応援団長”のところに記念撮影とサインを貰いに行くと既に10人程の人達がチケットにサインを貰おうと並んでいた。私も日本から来た事そして6年前のワールドカップのスペイン対韓国戦の後で一度写真を撮った事を伝えサインと写真を頼むと快く引き受けてくれた。昔は黒のソムブレロを被っていたのだが今は帽子のデザインが変わっていた。

座席に戻ろうとするとその近くに座っていた人達が“ You はどこから来たんだ?”と私の来ていたレプリカを指さす。“ Jo soy Japones, from Japan “ と答えると、” No you Espanol, you must support Spain. “ スペインを応援しろ、と言っているつもりなのか?スペインがリードしているのでみな機嫌がよさそうだった。席に帰る途中で喉が渇いてたまらなかったのでコーラでも買おうかと思ったが長蛇の列。後半もすぐに始まりそうだったので席に戻った。

後半のドイツはLahm に替えて同じ Bayern München 所属の Marcel Jansen を投入され左サイドバックのポジションに入った。スペインが先制した Torres のゴールは Lahm を振り切って放ったシュート。そのショックが残っていたのかそれとも怪我でもしたのか….. 後半ドイツの挽回を期待するもスペインの攻撃が目立つ。エンドが変わって Lehman の守るドイツゴールがスペインサポーター達の前にあるのでスペインが攻撃に転ずると皆立ちあがって大歓声を送る。それはサポーター達の歓声が彼らを吸いこんでいる様にも見える。63分負傷の Villa に替ってスタメン起用された Cecs Fabregas が大歓声に送られてベンチに下がり Xabi Alonso が入る。私はスペインが2点以上リードし終了1分前に唯一まだ出番のないベテラン34歳の第3キーパー Palop Andres が出てくる展開を希望しているのだけど….. 64分にドイツ、スペインの両選手がエキサイトするシーンがあったがこの時スペインベンチからは全員が飛び出して来て何か叫んでいる。このシーンに今大会のスペインのまとまりと好調を持続する原因を見た気がした。
66分に David Silva が下がり Cazorla Santiago が入るが Silva の表情も納得の交替と言った感じがする。これも Villa 効果か?
Ballak はポジションをもうボランチの近くまでさげている。それは 58分に Hitzlsperger に替って投入された長身選手Kevin Kuranyi にロブを送る為かそれとも怪我の具合が芳しく無いのか??
73分ドイツサポーター達はドイツ国家を歌いだすとスペインサポータター達から激しいブーイングと口笛が。1937年4月26日のゲルニカのナチス空爆の遺恨未だ消えずか…….
78分にはこの試合の殊勲者 Torres がベンチに下がり Daniel Güiza が入る。大歓声にこたえる Torres 。しかしこれで 第3キーパーのPalop の出場は無くなってしまった。 その1分後今度は Klose がベンチに下がり Mario Gomez が入る。そして Ballak が前の方のポジションに上がって来た。ドイツなら最後の最後に1点を返すかも知れない、このままドイツが無得点で終わらないかも知れない、と思い続けた。
例えスペインの方が決定機を迎え続け、Lehman のファインセーブとスペインのシュートミスに助けられた展開が続いても。しかし3分なったロスタイムを終えても最後までスペインゴールを割る事が出来ずスペインが44年振りのタイトルを勝ち取った。試合翌日の UEFA のサイトを見ると Ball Possession ではドイツが49%に対してスペインが51%、ボール占有時間がスペインが 25分50秒に対してドイツは 27分56 秒、しかしシュート数では数字は全く差が付き枠内シュートがスペイン7であったのに対してドイツはわずかに1.これでよく 1-0 で終わったなぁと思った。

  

試合終了の表彰式が始まるがまずこの試合の審判団の労が労われる。しかしドイツサポーター達からは口笛の嵐が、前半22分のスペインDFのペナルティーエリア内でのハンドを見逃した事に対する怒りのブーイングだ。
そしてドイツの選手団。プラティニ会長が Ballack に慰めの声を掛け、メルケル首相が何やら話し掛ける。二人とも東ドイツ地区出身だ…….メルケル首相、来週洞爺湖でお会いしましょう…….

  

スペイン選手達がひな壇にあがり、 Casillas 主将がプラティニ会長からアンリドローネ杯を受け取り高く掲げるとスペインサポーター達からこの日一番の歓声が送られた。 70年代以降ドイツ、チェコスロヴァキア、イタリア、フランス、オランダ、デンマークそしてギリシアの後塵を拝し続けた列強がタイトルを奪還した。このシーンを見て最も焦燥感を募らせているのは England のサポーター達だろう。
ピッチ上はQueen の We are the Championが流れ始める。1990年ワールドカップイタリア大会でドイツ代表に送られたこの曲を今度はスペイン代表選手達に送られるのを世代は違うがドイツ代表選手達がみている。 スペイン選手達のウィニングランが始まりお別れの花火が打ち上げられても選手達が控室に戻っても特にスペインサポーター達はその場を離れようとしない。いつまでもその快挙のあった場所にいたいのであろう……

自分も潮時を見つけ “2年後南アフリカで会いましょう….” 私はそう言いながら周囲の人たちと握手を交わしながら帰途に着いた。道中まだテレビ観戦を終えてパブから出て来る人たちそしてこれから飲み直す競技場から出て来た人達が多く入れ違う。私は喉が渇いてたまらなかったのでまだ開いていたケバブーの IMBISS に入りコーラを2本買って教えて貰った U-Bahn の駅に向かった。そこは宿泊ホテルの最寄りの U-Bahn の次の駅であったので早くホテルに帰れた。
もし最初から競技場に行くつもりで帰りに乗車した駅を目指していたらこの決勝戦は観戦出来なかったかも知れない、いや出来なかったと思いたい……….

時計を見ると日本はもう午前6時過ぎ、部活の朝練習に向かう息子が起きる時間だ。朝練がんばれ、パパは今から寝ます。とメールを打ってシャワーを浴びてベッドに入った。
EURO は終わったけど我々に直接関係のある Asian Cup でこれだけ大会の価値と意義がアジア中で盛り上がって、日本が優勝して大いに胸を張れる……… そんな日は来ると信じている。

80年代欧州選手権の結果を試合の翌々日の英字新聞で追い掛けていたのが決勝戦を観戦できる様になったのだから……….

  

EURO2008 6.29 Vienna から Espana, campeona de Europa

2008-06-30 | EURO Football
昨夜は本当にすごかった。 Ernst Happel Stadion の興奮がまだ冷めやらない。今朝のテレビではベルリンのパブリックビューイングで朝まで過ごした人もいた事を伝えている。昨夜はベルリンには5,000人以上の人があつまり、ドイツの大都市では数千人の人々が設置されたパブリックビューイングの前に集まったそうだ。 宿泊しているホテルはドイツとオーストリアのテレビしか視られないので欧州王者スペインでの様子がわからないが44年振りにメジャータイトルを勝ち取ったスペインでは至る所でFiesta が繰り広げられていただろう。そしてそれは翌朝まで続いたのではないかな?試合内容はスペインが勝つべくして勝ったという試合内容だったと思う。

Euromeisterchaft は日本人の自分にとっては “部外者”なのでその分リラックスして試合観戦が出来る。 それにしても全てにおいて EURO はアジアレベルを問題にならないくらい上回っている。試合のレベルのみならず決勝戦の前に行われた閉会セレモニーに見られる大会の盛り上げ方、運営。昨年 ASEAN 4カ国で共同開催された Asian Cup とは比較できない。しかし私は杜撰で全てが何とかなりそうな昨年の Asian Cup も嫌いでは無かった。大会の運営なら日本も世界に誇れると思う。

しかしスペイン、ドイツの両国の戦いを見てもし日本が真剣勝負をすればどうなるだろう??DF陣は荒波の様に押し寄せる相手の攻撃陣にどう対抗するのだろう?攻撃陣は屈強な欧州のDF陣を前にしてゴールをこじ開けられるのだろうか?その真剣勝負の場はワールドカップしかないが、彼らと“真剣勝負”をする機会を得るのは夢では終わらなくなった。どれだけの差がつけられるかはわからないが、たとえ大敗してもその真剣勝負の機会が持てる事に幸福を感じるだろう。2年前セレソンに完敗した時の様に………..

試合後歓喜に浸るスペインサポーター達を見てそのように思った。

試合内容のレポート、そして競技場内の様子は追ってまたレポートします ( 誰も楽しみにしていないか??)

あぁ窓の外は雨が降っている。この大会は決勝戦こそ好天気に恵まれたがスイス対トルコ戦やスペイン対ロシア戦の試合がグループリーグ、準決勝ともに雨の日が多く、豪雨の中で行われるなど雨の EURO として記憶されるかも知れないなぁ…… さてさて今から仕事に向かいます。スペインでは月曜日にもかかわらずまだ Fiesta が続いているのだろうなぁ…… 

 

EURO 2008 6.26 Viva Espana !! 睡魔と闘いながら…….

2008-06-29 | EURO Football
ドイツが決勝進出を決めた翌朝。6時前に目が醒めDusseldörf の Old Town までジョギングを。石畳の上を走るが歳と共に膝に少しずつこたえる。ここも EURO 一色。昨夜は多くのドイツ人、トルコ人そして観光客達で賑わったのか....... 

 

この日は Dusseldörf のみでの仕事。夕方仕事を終えても日が高いので得をした気分になってしまう。中央駅付近には昨日と異なり国旗を持ったりレプリカを着る人達が少ない。ホテルでメールをチェックしてからコインランドリーに行く。
出張で一番困るのは洗濯。東南アジアの様にホテルのクリーニング代が安ければいいが欧州ではそうもいかず行程も1泊ずつで移動する街が多いとなかなかホテルのクリーニングに出せない。オーストラリアやニュージーランドの様にホテルに Guest Laundry が付いていれば良いのだが.....
従ってここの様にコインランドリーがある街は “貴重” で洗濯物の溜まるタイミングで行程を組まねばならない。 ただ日本と違って洗濯と乾燥の間約1時間洗濯ものが取られない様にそこを動けに無いのが辛い。でもこの日は洗濯機に衣類などを放り込んでそのまま外に出る人ばかりであった。でも自分は持参した文庫本を読みながら時間を潰すことに..........

ホテルに帰ると外はまだ明るいが8時45分少し前。キックオフ直前だった。共同開催なので同じグループのチームがもう一度準決勝であたってしまう。ロシアは快勝した準々決勝のオランダ戦で警告を受けたCBの Denis Kolosin が累積警告で出場停止。替りに Vasili Berezutski がCBに入る。スペインにはグループリーグ初戦で 1-4 と破れている。しかしこの時はエースの Andrei Arshavin が出場停止だった。Arshavin をはじめ4人の選手が初戦のスペイン戦から入れ替わった。一方イタリアと死闘の末準決勝に勝ち上がったスペインはイタリア戦と同じスタメン。グループリーグのロシア戦とも同じスタメンで“消化試合”となったグループリーグ最終戦のギリシア戦以外の3試合はすべて同じスタメンであった。それだけスタメンイレブンに Luis Aragonez 監督は信頼を置きそして選手達は累積警告を受けていないという事だ。
その点メンバーを対戦相手によってめまぐるしく替える Hiddink ロシア監督とは対照的だ。

会場の Ernst Happel Stadion は相当な雨が降っている。これでロシア対スペイン戦は2試合とも雨の中試合となった。グループリーグの時、この天候は気象条件の厳しい国からやってきたロシアに味方するかと思ったがそうでなかった。試合日程ではロシアの方が1日長くインターバルがある。スペインは前のイタリア戦もここウィーンで戦っているがロシア対オランダ戦が行われたインスブルックからの距離を考えるとロシアの移動はそんなに苦にならなかっただろう。
スタンドのロシア人サポーター達もかなりの数だ。1988年西ドイツ大会の決勝戦はオレンジ一色に染まりプロタソフ、ベラノフ、ミハイリチェンコ、ダサエフらを擁したソ連をサポートする人は数十人程度だった事を思い出し時代の流れを感じる。この試合の見所は何と言っても Arshavin が入った事でロシアが16日前に惨敗したスペイン相手にどう戦うか。オランダ戦で相手のサイド攻撃を封じた戦術の変更もどの程度通じるか?

しかし試合は立ち上がりからスペインの攻勢が続く。6分にはセンターサークル付近から大きく右サイドにフィードされたボールを Villa が受けて中の Torres へ Torres が体を反転させて放ったシュートは何とか GK Akinifeev がブロックするがその直後には Hernandez Xavi が Zyryanov, Ignashevich をかわしてミドルを放つがこれはクロスバーを越えた。11分には Villa が Ignashevich をかわして左サイドからミドルを放つがこれも GK Akinfeev がセーブ。劣勢のロシアは16分ようやくボールを受けた Arshavin のドリブル突破を Puyol がファールでストップし得たゴール正面からのFKを Pavlychenko が直接狙うがクロスバーの上を越えてしまった。これがロシアサポーター達が初めて沸いたシーンであった。しかしその後もしばらくスペインの攻勢が続く。24分には Ramos, 27分には Torres がミドルを撃つがゴールを外れて行く。テレビ画面には奥方のレティシア=オルテイス妃を伴ったアストゥリアス公フェリペ王子がなんども映し出されるが、はやくゴールがみたいのではないかな……..
だが30分過ぎからロシアが攻勢に出る。前線でボールが繋がり Arshavin からボールを受けた Pavlychenko がミドルを放つがポストの右に外れて行く。レプレイを見るとGK Casillas の指先に触れていたが触れなくても這うzれたと思う。32分に  Fabregas がベンチに呼ばれた。何だろうと思うと数分後 Villa が座り込んで動けない。どうやら直接FKを蹴った時に足を痛めた様だ。34分にベンチに下がり準々決勝のイタリア戦のPK戦でスペイン最後のPKを蹴った Fabregas が投入される。グループリーグのロシア戦で3点を決め、この試合もロシアDF陣を翻弄していただけにスペインにとっては痛い負傷退場だ。それに乗ずるかの様に35分には左サイドからのクロスを Pavlychenkoが胸でワントラップしMarchena, Capdevilla に囲まれながもシュートを打つがポストの左に外れる。36分には右サイド Anykov が Inista がチェックに入る前に低いクロスを中に入れると腰を折り曲げて Pavlychenko が Ramos, Puyol の前でヘッドで合わせるがポストの右に外れて行く。 このどれかが決まっていれば結果は違ったものになっていたかもしれない。そしてロシアがスペインサポーター達を脅かしたのはこの5分程度であった。
前半は共に無得点で終わったが準々決勝のオランダ戦では相手のサイド攻撃を完璧に抑えたロシアだったがスペインのサイドから中に入ったり縦にフィードされる速くて正確なロングパスの前の大苦戦。 エースArshavin はなかなかボールが貰えない展開であったが、 Villa が下がってくれた分ロシアにも後半チャンスはあるかなとこの時は思った。そして私には睡魔が襲ってきた。


どれくらい眠ってしまったのだろう?テレビからの大歓声で目が覚めた。50分 Xavi Hernandez の先制ゴールが決まった。真ん中でボールを受けた Xaviが左の Iniesta に預けロシアゴールに向けて走り出す。IniestaはSanenko と Anyukov をかわしてゴール前に送ると走り込んできた Xavi がそのまま押し込み決めたゴールシーンであった。二人とも Barcelona 所属の選手達。ここにボールが、人がと理解しての動きだったか。以降はスペインのシュート練習の様にほぼ一方的な展開。ロシアベンチも Semshov, Sychev といった選手を入れて同点を狙うがシュートに持ち込めない。右サイドの Ramos, 左サイドの Capdevilla がサイドを抑えており守備から攻撃への切り替えが早い。 UEFA Champions League 等ではBarcelona の一員としてレベルの高いパフォーマンスを見せる Puyol がスペイン代表のユニフォームでこれだけ存在価値を見せるのは何年振りだろう……
スペインは73分に Güiza Daniel が Fabregas の技ありの浮かしたボールをロシアDF陣の裏で受け,最後はシュートの瞬間足首を右にひねってGK Akineev の動きをかわして追加点を挙げてロシアを突き放し、 82分にはDa右サイドを Inisieta の縦パスを受けた Fabregas が上がり、中にセンタリングを入れるとボールは Berezutski のつま先をかすめるように 中のDavid Silvia に届きZhirkov のマークをかわしてゴールを決めて試合も決めてしまった。これでグループリーグのゲームと同じように3点差がついてしまった。雨の中この日のロシア選手達は動きがやや重そうであった。それともスペインの早いパス回しに翻弄されたか....... 

  

試合終了後の両チームの握手のシーン、サポーター達の表情をみて欧州戦選手権が始まった1960年代は優勝をあらそった両国だと思いだす。本でしか読んだ事は無いが第1回大会は準々決勝で当時の独裁者フランコ総統が“共産国”ソ連の入国を拒否し大会を棄権したが4年後は Santiago Bernabeu Stadium ではスペイン、ソ連両国が熱戦を展開。先制されたスペインがレフ=ヤシンの守るソ連ゴールから2ゴールを奪い逆転し大会2連覇を果たした。4年前の遺恨など感じさせられない素晴らしい試合だったそうだ。
スペインがメジャー大会(と言ってもワールドカップと欧州選手権の2大会)で決勝に進出するのは 1984年の欧州選手権以来。その時にスペインはグループリーグ最終戦のドイツ戦でロスタイムにMaceda Frances のゴールで準決勝進出を決めた。以降90年代からビッグタイトルから遠ざかりドイツ、フランス、イタリアそしてオランダにここ20年ほど遅れをとっていたがようやくビッグタイトル獲得のチャンスを迎えた。 Villa の欠場は決定でその代役には交替出場の Fabregas が濃厚か?
ドイツのテレビは連日 Ballack の“脚”を映し続けている........

それにしてもホストシティーはどんだけ盛り上がるのだろう............... 

  

EURO 2008 6.25 ドイツしぶとく決勝進出

2008-06-29 | EURO Football
6月25日、 Köln, Bonn での仕事を終えると最後の顧客もよく “理解” してくれて “ Halbfinale を視たいんだろう?それじゃ Dinner は次回にしよう。どこのホテルだ? Düsseldorf か?それじゃ早く行かないと。 Hauptbahnhof まで送ろう.......“
車中で話すのは EURO2008 の話ばかり。
”実は私も試合が楽しみなんだ。子供と一緒にテレビで看る約束もしているし....... „
あぁそうか、日本なら時差で深夜の試合。ちょっと子供とはテレビ観戦もできないなぁ........
" たいていのドイツ人はグループリーグには興味を持たない。 Vietelfinale から真剣に視る。ただしこの大会の出だしはさっぱりだったけど。“ 
”でもポルトガル戦は見事だった。日本じゃポルトガルを好むファンが多い。 Christiana Ronald らが華やかに見えるらしい。もっとも70年代からドイツを知る私はその偉大さをしっているけど。“ 
”今日のトルコ戦はどうなると想うか?“ 
”トルコはミラクルな勝ち方をしているがドイツが勝つと思う。彼らは何をすべきかを分かっている。それに監督がコーチ時代から続いて長くチームを率いているのからチームをよく掌握している......“

そんな話をしていると Bonn 中央駅に到着した。年内の再会を約束して車を降りた。首尾よく15分程でDüsseldorf にも停車する Inter City が入って来た。 Kiosk で買った地元紙に目を通す。トルコ紙だけでなくドイツ紙も特に EXPRESS や Bild 等の大衆紙も Jogi Lowe ドイツ代表監督と Fatih Terim トルコ代表監督の写真を並べたりしているが。トルコで夫の指揮を見守るTerim 監督夫人の写真まで。 „ Heute heisse Duell auf dem Rasen, morgen sind wir wieder Freunde ( 今日はいわゆる競技場でのデュエルだが明日はまた友達に戻れる。昨日の敵は今日の友??)という小さいながら赤字のキャプションが。中の記事でも“ 総領事や政治家がファン達に友好的なEM ( 欧州選手権 )パーティーを呼び掛けても Freundschaft siegen ( 友情の勝利 ) を望もう。” という見出しも。ドイツに多く住むトルコ系住人に気を使ってか?
またこの試合の観戦の為の Klinsman 前ドイツ代表監督が会場のある Basel 入りする事も.......
一方のトルコ紙だけどトルコ語はさっぱり解らないがこちらは写真のサイズが大きく迫力がある。 Hurriyet 紙はAltintop と Ballack の写真を並べて“エース対決”を煽っている頁が一面だが中の紙面には両チームの集合写真を一面を使って半分ずつのスペースで掲載。もっともトルコが上側だったけど。ただそこにはトルコ語とドイツ語で“友情が勝利であるべきだ。 Siegen soll die Freundshcaft ” とのキャプションも...... ホテルに帰りメール等を片付け、外に出たのは午後8時20分ごろ。夏時間とは言えまだ外は明るい。さすが初夏の欧州。しかしいつもは多くの人で賑わう中央駅付近も人通りがちらほら程度。あぁしまったもう試合を“楽しむ場所”に人が移動した後か....... 街をぶらぶらしているとやっぱりトルコ国旗が目立つなぁ........

  

するとある“中東”の雰囲気が漂うオープンレストランが。中を覗くとそこはまさに 
“トルコワールド” 半分以上の人達が赤いユニフォームを着ている。そのうちの一人と目が合い、中に入ってこいとばかりに手まねきをする。恐る恐る中にはいると水パイプの独特の匂いが。こりゃぁ明日はこの服は着られないなぁ......着ていたのは Celtic のユニフォーム。2月にオーストラリア在住の Celtic サポと交換したものでオフィシャルなユニフォーム。ただ背番号は付いていないけど。 
中の人達はみな数台あるスクリーンに集中している。ただ座る場所がないので経ちっ放しかぁ........ ドイツゴール前に迫る度にみな立ち上がるがゴールにならないと大きな落胆の声を洩らしながら席に着く。だがトルコ選手が攻守にわたって無いスプレーを見せると拍手を送る。 これでトルコがゴールを決めたらどうなるのだろう.... と思いながら店を出た。立ちっ放しは辛いしスクリーンが少し遠いので見難い。 

そのレストランから100m程度離れた所にまたオープンレストランがあり、そこでも中継を映し出している。よく中を見るとスクリーンも3面ある上に空席が結構ある。試合も始まっているので歩きまわるのは得策でないと考えここに入ることに。奥にあるカウンターに腰を下ろしビールを注文し €2.50 ( 約425円 ) を払い前方の少し大きめのスクリーンを視る。

数分後トルコに先制ゴールが生まれるスローインを受けた右サイドの Kazim が突破しそこからクロスを上げると Semih が Metzelder ともつれながらシュートに持ち込む。ボールはクロスバーにあたりゴール正面に落ちたところを詰めていたBoral Ugur が押しんだ。クロスを上げたのKazim は試合開始から再三ドイツの左サイドを切り裂いていており、Phillip Lahm がなかなか上がれ無い。大喜びのトルコ系の客。 前のレストランだったらもっと大騒ぎになっていただろうなぁ........。

しかしその4分後ドイツが追い付く。 Podolski が右サイドタッチライン沿いに突破し Sabri を振り切りセンタリングを送り込んだところに走り込んだ Schweinsteiger が Mehmet Topal と競り合いながらワンタッチでRüstü の守るトルコゴールに沈めた。
すると今度は前の方に座っていた地元ドイツ人の客が立ち上がる。Düsseldorf の人じゃないのかな? 反対にトルコ系の人は頭をかかえる。 それにしてもこの一連は見事だった。 Podolski , Schweinsteiger はBayern München の所属それが功を奏したか?。他にも ドイツのワントップを担う Miroslov Klose, 右サイドバックの Lahm , 更にトルコの中心選手 Hamit Altintop 、ドイツの控え選手 Marcell Jansen もBayern 所属だ。

この同点ゴールはトルコそしてトルコサポーター達の勢いを完全に削ぐものであった。 33分にもドイツは Podlski が CB Gökhan がタックルに入る前にミドルを放つがポストの上。
この日のドイツは準々決勝のポルトガル戦同様Klose のワントップで2列目に左から Podolski, Ballack そして Schweinsteiger が並ぶ布陣。Torsten Frings が怪我でこの日もベンチスタートだがコンディションが戻った Schweinsteiger がこの日も切れている。ただサイド攻撃というよりも Podlski, Schweinsteiger も顕著に中に切れ込んでくる様に見えた。 それがいいのかも知れないが。 
一方のトルコは怪我人や出場停止選手がいて死闘を演じたクロアチア戦のスタメンから3人が入れ替わった。CB Aski Emre に替ってボランチの Mehmet Topol が入り Topol のボランチのポジションには Fenerbache の Aurellio が起用された。MF Sanli Tuncay の替わりに Akman Ayhan Turan Arda の替わりに Baral Ugar, そして1トップにはクロアチア戦で奇跡の同点ゴールを決めた Sentürk Semih が Kahveci Nihat に替って起用された。 Ugar, Semih はクロアチア戦では途中出場。この Ugar が先制ゴールを挙げた。

画面では頻繁にミシェル=プラティニ UEFA 会長とドイツのメルケル首相が2ショットで映し出され時折二人は談笑もしているが何語で話しているのだろう。少なくとも英語ではなさそう。するとメルケル首相がフランス語を理解するのか....... EU加盟に際してまだまだ問題が残っていそうなトルコ国民はこのシーンをどう思うだろう..... でもEU加盟に一般トルコ人はそれほど固執しないか???

40分にドイツの Rolfes とトルコのAyhan が空中戦での交錯しRolfes は頭を切ったようだ。外に運び出されている藍でのトルコの右サイドバック Sabri のミドルが飛ぶ。これは自身の右突破から生まれたチャンス。肋骨の心配のある Frings が呼ばれるがここは絆創膏をした Rolfes がピッチに戻る。ロスタイムは1分あったが前半は 1-1 のまま終わる。ここで私は2杯目のビールを注文した。私にしては珍しいがなんだか欧州のビールはどんどん進んでしまう。欧州だからそうなのかビールがそうなのか??

後半に入ると結局怪我の Rolfes がベンチに下がり Frings が投入される。 後半にはいると1対1で激しいぶつかり合いが顕著になる。空中戦ではそのあとどちらかの選手が倒れる。Altintop の突破には正面から Hitztsperger がぶつかる。 Lahm が Kazim をかわして左サイドを突破したあと右サイドバックの Sabri が激しくタックルにはいるがノーホイッスル。 52分には Semih のSchweinsteiger へのチャージにイエローカードが出されるがこれがこの試合唯一のカードだった。日本がいずれかを相手にすると闘莉王、中澤でも跳ね飛ばされるのではないかな..... 56分には Ballack に Altintop がチャージにはいるがこれはノーファール。 Ballack も少し興奮気味にファールをアピール。68分には Lahm が Kazim のシャツを引っ張り突破を止めるがこれもノーファール。72分には Ugur が左サイドを突破しシュートを放てば、73分には Hitzsperger が Altintop がチャックに入る前にミドルを放つ。共に得点にはならないが豪快なシュートはさすが本場だ。

そして79分Klose が CB Topol と GK Rüstü と競りながらも右サイド後方から Lahm のあげたロングボールを頭でとらえて逆転のゴールを挙げる。 Klose のヘッドも Lahm のロングフィードも流石という得点。天を仰ぐ GK Rüstüを見て残り時間を考えるとトルコの決勝進出は.....と思えた。

  

その2分後トルコベンチは Ayhan に替って FW Mevlüt を投入し2トップにする。そして86分、右サイドを Sabri が Lahn を振り切り渾身のセンタリングを送ると Metzelder の足先を通過したボールの先にはAurello を振り切ったクロアチア戦の立役者 Semih が走り込んで放ったシュートがドイツゴールネットを揺らしトルコが追い付く。観客席のトルコサポーターもレストラン内のトルコ系移民も大喜び。 Semih は観客に向けて唇に人差し指を立てるパフォーマンスで応える。 この試合もトルコが奇跡を起こすかと本当に思った。そして私は3杯目はビールで無くコーラを注文したら同じ €2.50 でつまみもつかなかった。
ロスタイムは何分だろうと思った89分左サイドから Lahmが中に切れ込み中のHitzlsperger に戻すが Lahm はそのままトルコゴールに向かって中に切れ込むとそこには Hitzlsperger からボールがフィードされLahm がSabi とZan の間に割って入り放ったシュートがトルコゴールネットに突き刺さりまたドイツがリードを奪う。守備では散々自分側の左サイドを破られていた Lahm だがそれを帳消しするかのゴールだった。
トルコベンチは Kazim に替って Tümer が投入される。ロスタイムは3分まだチャンスはのこされている。この大会こう言う時でもトルコはゴールを決めて来た。そして93分、ゴール正面からドリルでドイツPAに迫る Tümer を Ballack が横からスライディングで止めるとスイス人の Busacca 主審がFKを与える。 Ballack が珍しく怒りを隠さない。確かにタックルはボールに入っているしかしその前に Tümer の右腕を引っ張っていた。真正面の位置からのFK シーズン中の中村俊輔なら造作なく決めるであろうポジションだ。絶好の同点機が最後に巡って来た。Tümer がゆっくりとボールをセットする。ドイツはほぼ全員がエリア内に入る。多くのトルコサポーター達が祈っているのが映し出される。しかし Tümer の蹴ったボールはクロスバーの遙かに上を飛び万事休す。ドイツサポーターの歓声だけが残りタイムアップのホイッスルが吹かれた。

   
ドイツが“難敵”トルコを降したが、このトルコの進撃に 2000年のポルトガルを重ねる人は.....少ないだろうなぁ....... でも後半は何度も画像が途切れてはらはらした。

店内を見渡すと涙ぐんでいる人が。彼はブルガリア出身だがトルコ系とのことであった。すかさずかつての英雄 “ナイム・スレイマノグル !! ”の名前を出すと、彼は私に抱きついて来た。そして周囲の人にスレイマノグルの説明を始めだした。
1980年代共産圏下のブルガリアではトルコ系住民は弾圧され遂に共産党はブルガリア式に“創氏改名”を強制。1986年ワールドカップの為にオーストリアに滞在していたスレイマノグルは直ちにトルコへの亡命を表明。その2年後ソウル五輪前に共産党はスレイマノグルがトルコ代表で出場を許す代わりに 100万ドルをトルコ政府に要求。トルコ政府はそれを受諾し。スレイマノグルは以降重量挙げで五輪3連覇を果たしたが、トルコ系ブルガリア人の英雄でもあるスレイマノグルの偉大さが再確認された。ようやく抱擁から解放された私は店の女主人達とも抱擁をかわしホテルへの帰途に着いた。彼女達はギリシア系であった......... そして画面ではメルケル首相のインタビューが続く........選手は着替え中かな????

  

ホテルまでの道中、多くの車がクラクションを鳴らしてドイツの勝利を祝っていた。
中央駅付近では多くの警官隊が待機していた。トルコ国旗を持って “トルキェ、トルキェ”と叫ぶ若者達が多くいたが危険度は皆無であった。中にはこれを機会にトルコ系であろう女の子達を“これから一杯飲もう”とナンパしているドイツのユニフォームやトルコのユニフォームを着た男達も。そこは国境はなしか........

  

1979年欧州選手権予選でドイツはマルタに続いてトルコとも引き分け予選突破が不安視されたが結局は欧州王者に輝いた。この大会、これで優勝に王手をかけたが、やっぱり最後はドイツだろうか........

ホテルに帰ってシャワーを浴びてそのまま倒れこむように寝入ってしまったが翌朝は早く起きてよく走れた.............

やっぱり欧州の初夏はたまらない。