Mr.コンティのRising JAPAN

マスコミの書かない&書きそうもない!スポーツ界の雑学・裏話を、サッカーを中心にコメントを掲載していきます。

14年振りのブルガリア  

2009-05-25 | EURO Football

フランクフルト空港からルフトハンザ機で約2時間。 機体は予定通りにブルガリアの首都ソフィア・ヴラジデヴナ国際空港に到着した。
当地を訪れるのは14年ぶり。当時は仕事で隣国ルーマニアの首都ブカレストに駐在しており、ブルガリア市場参入の可能性を探るべく約1週間の日程で同地を訪れたのだった。

“ソフィアは危険だ。充分に注意をしなさい….”

ブカレスト駐在事務所の現地人スタッフらみんなにアドヴァイスを受けた。 
当時のブカレストは独裁者チャウセスク政権が倒されて約4年後、しかし独裁政権の負の遺産はあまりにも大きくルーマニアの復興はあと何年かかるのだろう….とてもこう言う市場に売り込みをかけて成果が上がるのだろうか…. と思いながら駐在員生活を続けていた。 ブルガリアは更に”その上を行く“と想像していた。
しかしそれが杞憂にであった事は街に入ってからすぐに解かった。 当時ルーマニアに無かったマクドナルドこそソフィアにもまだなかったがピザハットやルーマニアに無い“西側の店”がいくつもあり街の様相はブカレストよりもはるかに進んでいた。 
さらに当時の現地通貨事情もルーマニアレイよりはずっと安定しておりドイツ等の西欧諸国はルーマニアをすっと飛ばしてブルガリアに既にかなりの投資を始めていたのだった。当時宿泊したホテルは故黒川紀章がデザインしたビトウシャホテルと言う立派なホテル。中には和食レストランが入っておりほぼ1年ぶりの寿司に涙が出そうになりながら舌鼓を打ったことを覚えている。 そしてホテルにはボーリング場も設置されており、またテレビチャンネルも衛星チャンネルが充実。 トヨタカップの Velez Sarsfield 対 AC Milan の生中継を観たのを覚えている。(ただし衛星チャンネルは当時のブカレストでも視る事は可能で住んでいたアパートでも契約をすれば視聴でき、これが無ければブカレスト生活は1か月も持たなかったと思っている。)

ソフィアを発つ前に今度はブルガリアで知り合った現地の人達が

“ブカレストは危険でしょう。充分に気を付けて。そしてすぐにソフィアに帰って来なさい。” 

と言ってくれた。 そしてブカレストに帰って

“ おかえりなさい!ブカレストにもう安心だ。ソフィアは危険では無かったか…..”

と案じてくれた地元の人達に率直にソフィアの様相を話したが当時は誰も信じてくれなかった………..

ソフィア空港から街中まではタクシーで20分程度。 料金も 15 Lv. ( 約975円) 最近でもまだ観光客に法外な料金を吹っ掛ける運転手もいるらしいが国の面子の為にも何とか統制をはかっているらしい。街に近づく前に既に私が知るソフィアとは大きく変わっている事を幾つも発見した。 
まず乗用車の数が激増している。しかも Audi , OPEL, BMW そして Mercedes Peugeot 更に TOYOYTA と言ったブランドが並ぶ。 14年前でも数少ない乗用車でも見られたのは LADA, Skoda, DACIA 更に旧東ドイツのトラバントでさえも。
“今そんな車種は博物館行きだ。”今回知り合った人がそう言っていた。 
街に入れば更に違いが。 当り前だが MaCdonald のみならず STARBUCKS や Pizza Hut それからまだ完成していなかったが DUNKIN DONUTS と言った店舗が立ち並び人々は当たり前の様にそこに出入りしている。
当時の面影を残すのは街中を走るトラムやトロリーバスそして地下鉄への通用口階段で花や洋服を売っている老婆達……

    


ブルガリア Football は柏レイソルでもプレーしたかつての英雄 Hristo Stoichkov が有名だ。その前のアメリカ大会予選、ご存知の方も多いと思う。 
パリの Parc de Princes 競技場で行われたフランスとの地区予選最後の試合、終了直前に Emil Kostadinov のゴールで勝利を収めたブルガリアは翌年のワールドカップ出場を決め5年後ホスト国に決まっていた地元フランスがまさかの予選敗退となった。 それからしばらくしてフランス人の友人からは “我々は日本と同じ運命を辿った。”と言われた。
ワールドカップでは初戦のナイジェリア戦に 0-3 で完敗した後、Stoichkov の2つのPKを含む 4-0 でギリシャに快勝する。これはブルガリア史上初めてワールドカップで勝った試合であった。 
続く相手はアルゼンチン。誰もが苦戦を予想したがマラドーナが薬物使用に陽性反応が出て大会から追放され、そのアルゼンチンにStoichkov そして Nasko Sirakov のゴールで 2-0で快勝。マラドーナを失ったアルゼンチンは続く決勝トーナメント1回戦ではルーマニアに敗れ3大会連続決勝進出の夢は潰えた。アルゼンチンはブルガリアそしてルーマニアに連敗を喫し帰国した事ととなった。ブルガリア戦の前半で Caludio Canniggia が負傷退場しルーマニア戦も出られなかったのも痛かった。 ブルガリア戦、ルーマニア戦と当時横浜マリノスでプレーする Medina Bello が途中出場した時はうれしかったなぁ……

一方のブルガリアは決勝トーナメントに入って更に調子があがる。1回戦ではメキシコをPK戦の末に破り史上初めてワールドカッフベスト8に進出。 PK戦で殊勲のファインセーブを見せたGK Borislav Mihailov に地元局アナが “ ブラボー!ボブ !”を連発。地元ではしばらくそれが流行語となったらしい。 しかし更なる快進撃は準々決勝。前回王者のドイツを Lothar Mattaeus のPKで先制されるも Stoichkov そして Letchkov のゴールで逆転勝で葬ってしまった。 準決勝ではイタリアに敗れ、続く3位決定戦でもスウェーデンにいい処なく 0-4 で完敗したが、凱旋帰国した彼らを何万人もの地元の人々が出迎えたとの事だった。
大会得点王となった Stoichkov の存在は世界に示される事に。 しかし彼は 1990年から FC Barcelona に所属。1992年5月にUEFA Champions Cup の優勝メンバーでもありこのワールドカップのシーズンもロマーリオ、クーマンらと共にバルセロナに所属。 決してワールドカップでの“出現”が予想されない選手ではなかった。
この3位決定戦を私は当時の赴任先のブカレストで数人の地元の人達とテレビ観戦していた。 隣国ブルガリアを応援するかと思っていたが、ブルガリアが失点する度にテレビを指差して嘲笑をしていた。 自国はその前にスウェーデンにPK戦で敗れていた。 そのスウェーデンに勝たれては……と思ったのかな?
その時口に出しては言わなかったがもしルーマニアが準々決勝でスウェーデンを破っていれば準決勝では恐らくブラジルに敗れていたであろうからこの3位決定戦はブルガリア対ルーマニアの隣国対決となりもっとエキサイトしたものとなったのではなかっただろうか……….

その後のブルガリアは翌年の欧州選手権予選でドイツを破るなど好調を持続、イングランドで開催された本戦に進出するがフランス、スペインに続いて3位となり最下位のルーマニアと共に1次リーグで敗退した。 ワールドカップは続くフランス大会にもロシアを抑えて地区予選を突破し本大会に進出。ストイチコフらを擁したがナイジェリアに敗れ1次リーグを突破できなかった。最後のスペイン戦は 1-6の大敗であった。そしてストイチコフが代表を引退して以降、1998 年ワールドカップフランス大会以来2大会ワールドカップそして欧州選手権には2004年のポルトガル大会に地区予選を突破したが Group League ではスウェーデン、デンマークに連続して 0-5 で大敗するなど見せ場なく帰国した。   

多くの人達はこのアメリカ大会のブルガリアの活躍を記憶しているだろうが、私は中学の時に来日したブルガリア代表の事も忘れられない。 
当時欧州の代表チームが来日する事は非常に珍しかった。 1976年1月モントリオール五輪予選への強化試合としてブルガリア代表を招待し日本代表と当時としては珍しく3試合代表Aマッチが組まれた。 メンバーも2年前のワールドカップ西ドイツ大会の本戦出場した時の中心選手 Hristo Bonev そしてGKRumen Goranov , DF Dimitar Penev, MF Bojil Kolev ら4人のワールドカップメンバーを擁していた。 
試合は1月25日の初戦は釜本のゴールで先制するもその後3連続得点を許しブルガリアが底力を見せる。第二戦は1月28日舞台を大阪に移し Bonev , Kolev らワールドカップメンバーを残すもメンバーを若手に切り替えた。そのせいか日本代表も 1-1 と健闘し引き分けとした。しかし2月1日の国立競技場の最終戦では貫録を見せ日本代表を 0-3 で一蹴した。私は初戦に試合をテレビ観戦していたが例え敗れても欧州代表を相手にしてもゴールを決める釜本は流石だと思った。

宿泊したホテルから走って15分程度のところに National Stadium がある。 共産圏時代に建造された事を象徴する大きな競技場で周囲にはアスリートの銅像がいくつも建てられていた。 照明塔は競技場の外から建てられている。競技場の迎えには “スポーツ省”の建物があった。競技場内にはスポーツ博物館があるのだろうか…….もしあればどういう選手が讃えられているのだろう……
共産圏時代は国威掲揚でスポーツ振興もすごかっただろうなぁ……..

     

トルコの英雄、重量挙げのスレイマノグルがソウル五輪前にブルガリアからトルコに亡命した時にトルコ政府はかなりの金を払い亡命を認めさせ、ソウル五輪でトルコ史上初の金メダルを買ったと言われている。 
この国が1398年から約500年もの間オスマントルコの支配下におかれ現在でもトルコ系住民が多くイスラム寺院と教会が並ぶ独特雰囲気がそれを思い出させる。 1878年南下政策を続けるロシアの手助けを得てサンステファノ条約で自治権をブルガリアは得るが当時のロシアの南下、影響の拡大を恐れた欧州列強は干渉をはじめ、1911年にはマケドニアの獲得の為にセルビア・モンテネグロ、ギリシア、とバルカン同盟を組みオスマン朝とバルカン戦争を戦い勝利を収めるが今度は戦勝国同士で領土割譲がこじれ第二次バルカン戦争が勃発した。これに敗れたブルガリアは領土奪還の野心から第一次世界大戦では同盟国側に第二次世界大戦では枢軸国側に着くも共に敗れ戦後はソ連主導の社会主義国建設が推し進められたのだった。街にあふれるキリル文字、そして人々も話す言葉、それはブカレストのそれとはまったく異なるものであった….

今、日本代表がブルガリアとワールドカップで同じ組になったらどういう勝負をするだろう…..今の日本代表が中学時代に来日したあのチームと戦えば…..そしてブカレスト駐在時のワールドカップアメリカ大会のメンバーと戦えばどういう試合をするのだろう…..ソフィアの人が知っている日本人選手はいるかな? 中村俊輔くらいは知っていて欲しいな…..

滞在中は大相撲名古屋場所が行われていた。 琴欧州の報道はあまり見なかったけど…… 5月27日、ローマで行われる UEFA Champions League の決勝戦。 Manchester United の攻撃陣には Ronald , Rooney と並んでブルガリア人FWの Berbatov がいる。 タクシーのラジオから流れて来るニュースでは何やら彼の事を報道していたが日本で見られるような過激な報道は見られなかった。 まだ早かったかも知れないが…..

過激で無く、過熱もなく、 旧共産圏でスポーツ振興に歴史のあるこの国のそれがスポーツ選手に対する最良のマナーなのかもしれない。 

       



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2 コメント

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ブルガリアの思い出 (鍼灸)
2009-06-01 00:41:22
おひさしぶりです。

ブルガリアに行かれていたということで、僕もブルガリアの話を。
僕がブルガリアに行ったのは06年秋でした。
トルコ側の国境のエディルネからバスでソフィアに入り、3日ほど滞在してベオグラードに鉄道で抜けるというルートでした。
その年の暮れにEU加盟を控えていたのですが、正直この国がEUに入っていいのかなあというくらい疲弊してる感じでしたね。
経済もそうですが、人心の面でです。
僕が列車でソフィアからベオグラード行きの列車に乗ったときのことです。
同じコンパートメントにおばさんの2人連れがいました。
大量の服を買い込んで、それを袋から出して、自分の大きなバッグに入れていくのですが、そのあまった袋やら出たゴミを走っている列車の窓からポンポン捨てていくのです。
そのおばさんたちだけじゃなく、列車に同乗している他のブルガリアの人たち(服装でそう判断します)もペットボトルやらコーラの瓶やらタバコやらを窓からどんどん投げていくんです。
当然、線路の周りはゴミだらけです・・。
ちなみに僕がソフィアから列車に乗るときに、コンパートメントが見つからなくて制服を着た人物に聞いたところ、案内してもらったまではよかったけど、コンパートメントでチップをしつこく要求される事態になりました。
その時、この人物を追い払ってくれたのが、このおばさん2人連れでした。
だから基本的にいい人たちだったんですが、それでもこの有り様でした。
このおばさんたちを含め、乗客の大半はセルビアの国境を越えた最初の駅で降りていきました。
ブルガリアで買ったものをセルビア側で売るためでしょう。

ちょうど週の真ん中にブルガリア滞在となったので、サッカーは観戦できませんでした。
ただちょうど着いた日がCLのレフスキ・ソフィア対チェルシーの試合のチケットの発売日で、ものすごい行列ぶりが報道されてました。

写真はレフスキスタジアムでしょうか?
それなら僕も行きました。
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ソフィア..... (Mr. コンティ)
2009-06-03 09:27:12
鍼灸様

こちらこそご無沙汰です。
ブルガリアも行かれましたか。バスで入国し列車で出国とはなかなかの行程でしたね。 
その時でもそういう(衣服を他国に持ち込んで売る)
人達はいたのですね。90年代の共産圏周辺ではそういう人がたくさんいて、特にポーランドではベトナム人がそんなスマグラー的行為をしており入国管理事務所にベトナム人の団体と一緒に連れていかれた事がありました。日本のパスポートを見せたら係員が誘導してくれてすぐに入国させてくれたのでその時は助かりましたが。
今回、金曜日の夜に私が滞在したホテルに国内のクラブチームらしき団体が宿泊してきました。おそらく翌日のリーグ戦に向けてでしょうけど。翌日は移動でしたのでここで観戦はできませんでした。
写真の競技場は National Stadium と紹介されておりました。 ホテルで訊いたけどあまりスポーツに興味が無いのか International Match で使われるとだけしか教えてもらえませんでした。 
この時期は気候は素晴らしいのですがサッカーはシーズンオフに向かう時なので....でもシーズン中だと寒くてたまらないですね....
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