歩く・見る・食べる・そして少し考える・・・

近所を歩く、遠くの町を歩く、見たこと食べたこと、感じたことを思いつくままに・・・。おじさんのひとりごと

大生郷天満宮で“うら若き二人”

2009年12月02日 | お寺・神社
昨日は、ちょっとした野暮用で、朝から昼過ぎまで東京に出掛けていました。それで、ブログの更新はお休みしました。

本日は一昨日の続きとなります。

それで、天満宮の御社殿の方に向かいます。


駐車場の脇から登り道になるのですが、実は、これ裏参道だったのです。案内板を辿り、行き着いた処がこれです。“何かねェ~”でした。まぁ、どちらかと云えば、表より裏が好きですけど・・・・・・。


ここにも“裏好き”の方が居られて、道の傍らの薄暗い木立の下で、“うら若い”女性がスケッチをしていたのです。裏側から社殿を描くうら若い女性です。

気にしない素振りで、ゆっくりと自転車を押しながら、脇目でチラッと絵を覗いたのですが、キャンバスには何も描かれていませんでした。女性は、頬に手をあて、眼をとじ、瞑想中のようです。

このアングルからだと、薄暗い木立に先に浮かぶ、陽が降り注ぎ輝く社殿、この明と暗のコントラストが構図として面白いかも? なぁ~て思いつつ、自転車を押しつつ、そして、うら若い女性を不思議に思いつつ境内に向かったのです。


こんな感じの、


ふつうの神社です。


こんな記念事業の真っ最中なのです。このご時世で2億円、御神苑の完成予想図から見て、2億円それほど高額とは思えないような、そうでもないような?


そして、また、ここにも、うら若いスケッチをする女性がいたのです。裏と表に社殿を描く女性が2名。まぁ、こちらは中学生でしょうかね。

気にとめない風をして、距離を置いて、ゆっくり、静かに、傍らを通過したのです。しかし、女性から“コンニチワ”と可愛く挨拶されたのです。


こちらも、すこし慌てて“ハィ、コンニチワ”と返したのでした。怪しい人には先に声をかけ、相手を牽制するのは防犯の鉄則なのです。彼女に怪しまれたのです。たぶん。

たまたま、無関係の方が同時に、裏と表でスケッチしていたとは思えません。二人は、同級生でお友達? それとも姉妹? もしかして、裏に居た“うら若く”見えた女性は、ホントは“うら若く無い”お母さんだったりして?

罰当たりな事に神社の参拝よりも、二人の関係に思いを巡らしてしまいました。帰りは、来た道を戻ったのですが、それとなく、何気なく、気付かれないように、裏の女性を観察したのですが、キャンバスに眼を落とし年齢は窺い知ることは出来ませんでした。

予定外の見学で、予定外の時間を使いました。先を急ぎます。

5分ほどペダルを漕ぐと、見えてきました、あの林のあたりが、たぶん、坂野家住宅です。


次回は、いよいよ、坂野家住宅の見学です。


それでは、また明日。


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こんな処に日本三天神が!水海道は“大生郷天満宮(おおのごうてんまんぐう)”です!

2009年11月27日 | お寺・神社

一昨日の続きになります。

昨日は、天気も良く、何となく、外に出掛けてしまい、更新が出来ませんでした。

それでは、“坂野家住宅”に向かいます。今回は、弘経寺と安楽寺が目的でしたが、観光協会のパンフを見たら、あの“坂野家住宅”が近くであると判り、寄って見る事にしたのです。


前回、“坂野住宅”と書いたのですが、“家”が抜けておりました。どちらにしても、住宅と云う表現は、何か、洗濯物がひらひらと舞っているイメージで、どうにもしっくりしないのです。

私が訪れた古民家は、すべて、“○○家住宅”となっていました。“○○家古民家”の方がしっくりするのですが、これだと“家”の字が二つ並んで字面が悪いですかね?

もしかして、この手の古民家は“住宅”と云う呼称で、文部科学省の省令とか、局長通達とか、行政指導とか、そんなたぐいで全国的に統一されているのでしょうか?

まぁ、それは、それとして、“坂野家住宅”に向かってペダルを漕ぎます。右手にいい感じの小学校の校庭が見えて来ました。木造平屋建て、もう、何とも、元祖、田舎の小学校風景です。


小学校で、校庭で、野球です。ここは、絶対に野球なのです! サッカーでは風景にならないのです。少年達は、そろそろお昼の休憩のようです。


道路には並木とベンチがあり、私も、ここで持参の“のり弁”で昼食にしました。暖かい陽ざしに、この小学校の風景、昼飯には最高のロケーションでした。弁当を頬ばりつつ、校庭を眺めつつ、のんびり、のんびりの昼食でした。

昼食休憩を終わり、ゆっくりペダルを漕いでいると、二股に差し掛かりました。


何故か、なにか、この看板、とても“のんびり風景”なのです。居酒屋“あや”も、坂野家と統一したデザインになっています。パンフで天満宮には気付いていたのですが、今回はパスするつもりでした。天満宮で、“菅原小学校”、あれ? なに?と思いました。


天満宮と云ったら、天神様で、“菅原道真公”です、そこに“菅原”小学校です。二股から5分ほどして天満宮に到着。


しかし、通りの向かい側には、


厳島社?で弁財天です。あの七福神りのお一人りです。


そして、菅原道真のお墓もあるのです。


坂を登って小高い丘の上に、確かに、道真公の墓石があります。すべてが新しいモノで、最近になって造られたものです。こちらも、天満宮の一部のようです。それにしても、こんな処に道真公のお墓があるとは知りませんでした。


調べて、驚きました! この天満宮こそ! 北野天満宮、太宰府天満宮、そしてこの“大生郷天満宮(おおのごうてんまんぐう)”を“日本三天神”云うそうなのです。

北野、太宰府、そして“大生郷”なのです! ホントに、ホントに、驚きで~す!

延長7年(929)、菅原道真公の第三子景行の創建といわれ、延喜3年(903)に道真公が大宰府に没した後、第三子“景行”が、父の遺言により、諸国を遍歴した後、この地に遺骨を祀ったとされているそうです。

ここは、由緒正しい、日本三大天満宮だったのです。

パスする予定でしたが、ここは、きっちり、お詣りです。


それでは、また来週。


【追記】
明日は孫の“ピアノ発表会”に行くのです。可愛いドレスを着て演奏するそうです。緊張しないで普段どうり演奏できるか心配です。もう、こちらの方が緊張します。



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元三大師と祖父そして今東光さん

2009年11月25日 | お寺・神社
昨日の続きです。

元三大師安楽寺は、祖父が修行し暮らした場所だったのです。

その当時、祖父が眼にしていた風景で現在も残っているのは、南山門と鐘楼だけとなりました。

明治の末期から、昭和初期のことですから、今から、何と、百年以上も前の事になるのです。母が現在87歳ですから、そう云う事になるのです。


母が小学校の頃の話で、年に2~3度、安楽寺に祖父に連れられて行っていたそうで、その時、必ず“俊澄さん”から“はい”と云って、扇子に載せて“50銭銀貨”をお小遣いとして貰っていたそうです。

この頃には、祖父は現在の寺の住職として独立?していたのです。母が生まれてた大正11年の頃に、たぶん独立したのでしょう。母もその辺の事については、聞いてもいないし、覚えてもいないそうです。


でも、しかし、扇子の上の50銭銀貨を“はい”と云って差し出すその情景だけは、今でもハッキリ覚えているそうです。

住職になった祖父も貧乏だったようで、母を“だし”に、連れていったようなのです。まあ、その辺りの事情は当然、俊澄和尚も承知の上での事でしょう。


それで、“今東光さん”の話なのですが、“コンさん”と呼んでいた記憶があるそうです。コンさんにもお小遣いを貰った記憶があるそうです。いろんな人にお金を貰っていたのです。

今東光さんは、昭和4年(1929)頃に、安楽寺の近く移り住んで来たのです。その頃は文壇でも、それなりに有名な方で、当時、文壇での“いろいろな対立”から、文壇を離れ、妻の郷里に居を移したそうです。


そこで、弓削俊澄さんと出会ったのです。その時、俊澄僧正は62歳、今東光は32歳でした。実は、祖父も今さんと同い年だったのです。

今さんは、移り住む数年前より出家を考えていたそうで、俊澄僧正と出会い、その人柄に惹かれたようで、非常勤秘書みたいなことを、自ら申し出てやっていたようです。


そして、翌年、32歳で出家し、比叡山延暦寺で修行し、4年後の昭和9年(1934)の3月に安楽寺の僧侶として戻って来たのでした。


俊澄僧正はその年の11月には癌で亡くなられました。数年前から癌を患い床についていたそうです。

戻ってきた「今さん」も、2年ほどして心臓病を患い、4年ほど闘病生活を続け、回復後の昭和16年(1941)に、安楽寺を去って行きました。

俊澄僧正は独身であったようです。俊澄僧正が亡くなり、今東光も去り、祖父も安楽寺との関係も途絶えたようです。


祖父は、今東光と兄弟弟子と云う関係になるわけですが、今東光の事について余り語る事は無かったそうで、母は仲はあまり良くなかったような気がするそうです。

今さんは、有名な文人で、豪放磊落で、毒舌で、喧嘩好きで、兎に角、桁外れの方ですから、並の人間では相当に付き合い辛かった事と想像します。

祖父は、幼い頃の母を自転車の後ろに載せて、水海道市を抜けて、この寺に来ていたのです。


私も、この日、水海道市街を通ってこの寺に来ました。もしかして、たぶん、途中からから、同じ道をペダルを漕いで来たのです。

80年近くも前、親子で辿った道を、いま、私も辿り、同じ風景を見ていると想うと、何だか、とっても、不思議な気分になるのでした。

祖父は昭和35年に62歳でこの世を去り、今さんは昭和52年に79歳でこの世を去りました。母は87歳で、ボケたらどうしょう?と、心配しつつ、今日も元気に生きております。

本日は、いろいろと年号調べに時間を費やし、かなり書くのに手間取りました。

この後は、“坂野住宅”に向かってペダルを漕ぎます。6段変速で快調に走ります。

それでは、また明日。


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元三大師と祖父のお話

2009年11月24日 | お寺・神社
昨日の続きです。

自転車を抱え登って来た石段を振り返ります。なんとも、長く、深い樹木に被われたた“参道”と云うよりも“山道”でした。

表門である南山門より、いよいよ境内に入ります。


入り口の説明板に、“日本野鳥の会”の創設者である、あの“中西悟堂”がここを訪れて、「野鳥の天国」と云ったそうです。いつの頃かは不明ですが、その時と、今でも、ほとんど自然環境は変化していないと思われる風景でした。

変わらない自然環境ですが、“寺そのもの”は大きく変わったようです。

天台宗の“別格本山”で、正式には“正覚山蓮前院安楽寺”云い、正月3日に生まれたことで“元三大師”と云われた、平安期の僧侶“良源”を祀ったことから、別名“元三大師”と呼ばれているそうです。

昭和30年の火災により、南山門と、


鐘楼を残して、本堂などは全て消失したそうです。でも、山門も、鐘楼も、それほどの年代を感じる建築ではありません。江戸後期か明治の初期かと云ったところだと? 


それから、“いろいろな事”が変わったそうです。

それで、この回を最初から読んでいた方は、そろそろ、寺と私との“いわく因縁”はどうした?と、お思いでしょう。まぁ、タイトルから察しがつきますけどね。

そうなんです。実は、何を隠そう! この元三大師安楽寺は、母の父である、私の祖父が修行をした寺だったのです。


話は明治の世になります。

寺の近くの貧しい家に生まれた祖父は、夜な夜な、寺の近く街灯の明かりで勉強をしていたそうです。

そこを通りかかった当時の住職、“弓削俊澄”大僧正さんの眼にとまり、それほど勉強がしたいなら、寺で修行しながら勉強をさせてやると云われたのでした。


それから、朝は暗いうちから起きて、寺の掃除をするのですが、冬でも、裸足で、凍り付いた水を割って雑巾を濯ぐ、厳しい修行の毎日だったそうです。


それでも、三度の食事が食べられ、勉強する時間を与えられ、大学まで出してもらったそうです。

もぅ。ホントに明治の時代、苦労、苦学、困窮、苦節の、大変なお話なのです。


でも、しかし、それでも、何故か? その祖父は、かなり、“手が早かった”のか、今で云う“できちゃった結婚”なのでした。

祖母は、それなりの資産家の長女で、祖父は貧乏学生で、かなり反対されたそうです。しかし、母を身ごもり、その結果、二人は結ばれたのでした。日本髪を結った祖母の若い頃の写真を見たことがあるのですが、かなりの美人でした。

祖父は明治31年(1898年)の生まれで23歳、祖母は19歳、大正11年5月、婚姻届けと、出生届けを同時に提出したのでした。

そういう、いろいろな、偶然と、出会いと、強引な結ばれ方と、その結果、ここに、いま私が存在しているのであります。

それで、まだ、元三大師と、弓削俊澄大僧正と、祖父と、そして、あの“今東光”との、いろいろな関わりがあるのです。

その話は、次回とします。


それでは、また明日。


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元三大師で健康回復で延寿で心身不空です!

2009年11月23日 | お寺・神社
先週の続きです。

弘経寺を後に、いよいよ“元三大師の安楽寺”に向かいます。

寺を出て右に曲がり、県道134号線に出ます。寺の前は、白壁の倉に、白壁の塀が並び、けっこういい感じです。

もっといいアングルで撮れたのですが、“おっさん”二人が立ち話をしていて、風景をじゃましていたので、この一枚で諦めました。お婆ちゃんの立ち話は絵になるのですが、“おっさん”の立ち話は、とても・・・・・・。


先ず、眼に入ったのは、“煎餅の生地”です。こんな処で、こんなモノにでした。


お煎餅屋さんです。


名前を見て、“う~ん、ちょっと、オィオィ”でした。まぁ、“大学イモ”がありますからァ、大学煎餅も、まぁ、アリなのでしょうねェ。でも、何だか、手焼き煎餅に対して、同情を抱かずにはいられませんでした。


これは、昔の“大学”と、現在の大学への世間的な評価が、かなり“変化”したことが、大きく影響しているものであり、教育的、学問的、政治的、経済的、文化的、諸問題をはらんだ、“手焼き煎餅自体及び煎餅業界”を越えた、大きな今日的課題を内在した・・・・・・。

冗談はさておき、“大学煎餅屋さん”の佇まいは、ケッコウ新しそうで、暖簾越しに、一人の職人兼ご主人らしき人の、煎餅を焼く姿が見えました。残念ながら風の方向のせいか、醤油の焦げるイイ匂いは、漂ってきませんでした。

134号線に出ると、大きな看板が眼に入りました。大学煎餅の行く末を案じながら、元三大師に向かってペダルを漕ぎます。


134号線を北に向かって10分ほどで到着。


看板や、石柱はあるのですが、本堂どころか、山門も見当たらず、辺りは鬱蒼とした森なのです。


“駐車場らしき”空き地はあるのですが、最近使われた気配もなく、参道らしき道も、最近人が歩いた気配を感じないのです。ホントに、ここから入るの? 暫くキョロキョロと辺りの様子を探ったのです。


古びた立て札を見ると、ここが“表参道”で、ここから入ると、いろいろ御利益があると記されていました。


“心身不空・健康回復・延寿叶う”のです。暗く、遠く、長く続く参道を見つめ考えたのです、“何故ここを通って参拝すると、いろいろ叶っちゃうの?”

直ぐに答えが浮かびました。この参道が、長く、起伏があり、足腰が鍛えられ、結果として、健康が回復し、長生きできるのです。しか~し! “心身不空”はちょっと良く理解できません。

身も、心も、“空”ではなくなる? 仏教での“空”とは、如何に? とてもムズカシイのです。後でゆっくり考えましょう。


兎に角、この“山道”を、この参道を、自転車を押しながら、歩く事にします。


山を越え、谷を越え、自転車を押し続けます。聞こえるのは、鳥の囀りと落ち葉を踏みしめる音だけです。深山幽谷に迷い込んだようです。


やっと、彼方に、階段と山門が、


南大門に辿り着いたようです。これで、健康は回復し、延寿は間違いなさそうです。


さぁ、階段を自転車抱えて登ります。

それでは、また明日。


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千姫の戒名二つの意味?

2009年11月20日 | お寺・神社
昨日の続きです。

本堂に向かって左手、深い木立に包まれて“千姫様”の墓所があります。


ここで、ちょっと、歴史のお勉強をします。

千姫様は家康の子、2代将軍“秀忠”の長女として、1597年に生まれています。母は織田信長の妹お市の方の娘“お江”です。なとも、スゴイお方なのです。

最初の結婚相手は、豊臣秀吉の子“秀頼”、その後、、大坂冬の陣(1614)、夏の陣(1615)で秀頼は自害し豊臣家は滅亡します。千姫は、家康の命で、落城する大坂城から救出されます。

家康が亡くなった元和2年(1616)、早くも、桑名藩主“本多忠政”の嫡男“忠刻”と2度目の結婚をし、元和4年(1618)に長女勝姫、元和5年(1619)に長男幸千代を産みました。

しかし、千姫30歳を迎えた寛永3年(1626)、夫忠刻が結核で突然死去、落飾して“天樹院”と号し、寛文6年(1666)70年の生涯を終えるのです。

混乱、反乱、戦乱、陰謀、政略、策略、計略・・・・・・、いろいろと渦巻く、徳川体制の創世記から前期を生き抜いた、波瀾万丈の生涯だったようです。独り身になった後は、江戸城大奥で大きな権力を持ち、幕府の政治に蔭で影響を与えていたようです。

享年70歳。墓所は、ここ弘経寺の他、“小石川伝通院”と、

【3年前に撮ったものです。今年は一度も東京へ行っていません】

京都知恩院の三カ所にあるそうです。いろいろ調べると、お骨は伝通院と知恩院に納められ、ここには“遺髪”が納めらているようです。

それで、戒名なんですが、伝通院の戒名は「天樹院殿栄譽源法松山禅定尼」と記されているのですが、


墓所を、


よく見ると、墓石には、


“天樹院殿栄譽源法松山大姉”と刻まれているのてす。


「天樹院殿栄譽源法松山」で一緒で、その後、こちらは“大姉”と刻まれているのです。“大姉”は一般的に女性の戒名の最後についています。

“禅定尼(ぜんじように)”は、在家のまま仏門に入り剃髪した女性を云うそうなのです。最初の夫“秀頼”が大坂城で自害した後に、形式的に出家をしていますから、そのへんで“禅定尼”なのかも知れません。

伝通院が浄土宗で、弘経寺が真言宗と云うことで、その違いなのでしょうか? 浄土宗では“禅定尼”が院号の最後に付く決まり文句で、それが、真言宗では“大姉”となるのでしょうか?

何となく、「大姉・禅定尼」の上のところがまでが、本来故人の戒名なのでしょう。たぶん。

それにしても、千姫様の生涯は、たいへんにドラマチックであったようです。もうすぐ終了する、連ドラ「天地人」にも、千姫様はご出演されています。お姫様としては、人気ナンバーワンだと思います。


美人で聡明だったと伝えられている千姫様、水海道で、千姫で、美人で、聡明ときたら、やはり、千姫役は、地元の“羽田美智子さん”が演じてほしいものです。

いつの日か、羽田美智子さん演じる千姫を見たいと思います。時間はもう、わずかしか残されてい・・・・・・のです。

でも、毎年開催される“千姫まつり”で、そのむかし、羽田さんは千姫をおやりになったかもね?

千姫の生涯を思い、そして、羽田さんの女優としての将来を思い“ウェルかめ”の視聴率を心配しつつ、弘経寺を後にしたのであります。

それでは、次回は、“いわく因縁”のある“元三大師・安楽寺”です。


それでは、また来週。


※2日間パソコンは順調に動いております。

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弘経寺の山門と鐘楼はいつ消えた?

2009年11月19日 | お寺・神社
昨日の続きです。

さぁ、これから、弘経寺の見物とお詣りを致します。先ずは、石畳の参道から本堂を眺めます。そこそこの趣で、それなりの手入れがされているようです。

徳川家康の孫娘である千姫(1597~1666)の墓がある寺にしては、予想外にかなり質素な佇まい。


本堂の屋根は銅板葺き、かなり最近の建物です。


案内板を見ますと、応永21年(1414年)の開基で、その後は、いろいろあって、“了学上人(1549~1634)”により再興されたそうです。

その了学上人が家康、秀忠、家光の三代にわたり厚遇され、“関東十八壇林”の一つとして、多くの僧がここで仏教の修行をしていたそうです。


本堂、山門、鐘楼が昭和歩58年に水海道市の指定文化財となったそうです。でも、しかし、山門も鐘楼も現在はありませんし、本堂も新しいのです。

この説明板が建てられた後に、山門も、鐘楼も、本堂も、全て消滅し、その後、本堂だけが再建され、山門、鐘楼は先ほどの“勧進立て札”で寄進を募っている最中と、云うことなのでしょう。

それにしても、この説明板は、材質も、様式も、かなり新しいタイプのものです。10数年~20数年前ぐらいと推測します。と云う事は、最近になって、山門、鐘楼、本堂が消滅したものと考えられます。

徳川三百年の厚遇の時代が終わり、明治、大正、昭和、平成と世は移ろい、弘経寺は、かなり厳しい状況の中、第二の再興を待っているのでしょう。

真言宗の開祖、弘法大師も見守っています。


こんなお堂も、


そして、この杉の大木。


見上げると、首が痛くなるります。樹高33㍍、幹囲7.53㍍、“来迎杉”と云い、市の天然記念物だそうです。案内板では“樹齢”には触れていません。

私の“勝手な推定”では、樹高、幹囲から樹齢は600年位かも?と、思っております。と、云う事は、寺の開基時に植えられ、その後の栄枯盛衰をじっと見つめていた事になります。


600有余年、いろいろな事があったのです。しばし、思いを巡らしつつ、首を曲げつつ、杉を見上げていたのであります。

最近ですね。この本堂は、


向拝の彫り物。


このような、


よく見かける、


様式です。


飾り金具も新しいです。


さぁ、境内、本堂の見学と参拝を済ませ、いよいよ、次回は千姫のお墓です。

それでは、また明日。



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寿亀山弘経寺で隈取りのバス

2009年11月18日 | お寺・神社
昨日の続きです。

さて、“大本山増上寺別院 寿亀山 弘経寺”です。こんな事を云っては罰が当たりそうですが、“ジュキサングギョウジ”は何とも、語呂がよろしくな・・・・・・。

正面からじっくりと眺めます。思っていたより、小さなお寺です。やっぱり、正面には、石柱ではなく、ずっしりと重厚な山門が欲しいです。


そんな思いを抱くのは、私ひとりではなく、皆さんもそう望んでいるようなのです。門の脇に“勧進”の立て札があり、“山門と鐘楼”寄付を募っていたのです。


勧進と云えば、勧進帳で、歌舞伎です。何とも偶然なことに、歌舞伎の隈取りをデザインした観光バスが駐車場に居るではありませんか、それも品川ナンバーです。東京からも団体で来るのです。


フロントガラスの上部に団体名が貼られており、“茶邪馬教室”とあります。何なんですか? この団体は? まさか、これで“じゃじゃうま”って事は無いよね。

まぁ、何だか判りませんが、東京からの団体さんが参拝に来ているようです。


途中ですが、ここまでパソコンが2回勝手にシャットダウンしてしまい、かなりの文章が消えてしまつたのです。最近は調子よく動いていたのですが、また、おかしくなりました。

本日は、これで、お終いにします。


それでは、また明日。


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水海道の弘経寺は大門から950㍍です

2009年11月16日 | お寺・神社
先日、水海道の市外を自転車で廻って来ました。

出掛ける前に、それなりに目的として決めていた一つは“弘経寺”です。水海道と云えば“千姫と、おもてなしと、羽田美智子”なのです。“弘経寺”と書いて、何故か“ぐぎょうじ”と読みます。

そして、もう一つが、元三大師の“安楽寺”です。これには、それなりの“いわく”と“因縁”があるのです。

それで、この日は関東鉄道常総線、水海道駅からスタートです。先ずは、観光案内所でパンフレットを貰い、最初に目指す弘経寺のルートを確認。


駅に“元山大師”の大きな看板、“天台宗別格本山”とあります。“別格本山”とは如何なるものか? まぁ、兎に角、隣のコンビニでお茶をもとめて出発します。


市街地を抜け、鬼怒川に架かる豊水橋を渡ります。右手、土手沿いを走ります。


河原のグランドで少年野球。健康で正しい風景です。


パンフレットでは、橋を渡ったところで道路を横断して、左に回り込み、橋の下を潜り、右手の土手に出るコースになっていました。

何故そんな遠回りするの? 橋を渡って右に曲がる道があるのです。ここは、コースを逆らい、ショートカットしました。このコースは民家とアパート前を通過します。

それで、民家とアパート前何ですが、道路と庭の境がハッキリしていないので、他人の庭先を通過している気分になるのでした。

でも、私道ではなく公道だと思うのですが、もしかして、私道だったりして?それで、パンフレットでは遠回りコースにしたの?

兎に角、アパート前に佇むブラジル系の親子を横目に見て、さっさとペダルを漕ぎ通過しました。

土手の上に出て橋の下を潜る舗装された“正式コース”に戻りました。下に降りると、コースは直ぐに土手を登るのです。


ここから“土手上コース”と思いきや、コースは土手を越えて土手下に降りるのです。登ったと思ったら、直ぐに下り、これなら、登らないで未舗装を直進した方が早かったと思い、何か損した気分、この際ですから、土手下で川を眺め、草むらに向かって用を足しました。


暫くして、コースは土手上に出ます。


やっぱり、土手上のコースは気持ちいいです。長閑な風景の中に、大きな工場が遠くに見えてきました。


こんな処に、こんな工場があったのです。何を造っているんですかね?


暫く、釣り人を眺めて、お茶を飲み休憩。竿が大きくしなり大物がかかった様子。タモですくい上げるシーンは草の蔭で見えず残念でした。


休憩を終え、土手上を走りると、弘経寺まであと0.95㎞のタテ看、


左手には、大門です。大門と云うか“大門跡”のような? それにしても、950㍍とは、ずいぶんと離れた処に建てたものです。その昔、境内は広大だった?


この、ずっと、ずっと、先の方に、弘経寺があるようです。ここから先は、やっぱり、参道と云うのでしょうか。


今日は、ここまでとします。


それでは、また明日。


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阿修羅様、その若さで懺悔の日々ですか?

2009年07月24日 | お寺・神社
昨日の続きです。

阿修羅像ですが、誰が? どんな想い? で建立したのでしょうか?

それで、すこし、ここで社会科のお勉強をします。阿修羅像の創られた時代の前後はこんな感じです。

710年に平城京に都が移り

712年に古事記ができます

720年に日本書紀です

712年に聖武天皇が即位

729年に聖武天皇が藤原不比等の“娘”を皇后(光明皇后)にする

752年に東大寺の大仏が建立

754年鑑真の来日

759年に万葉集

まぁ、こんな時代でした。それで、阿修羅像です。

それで、誰が?は、“聖武天皇”の后、“光明皇后”が創らせたのです。

どんな想い?は、光明皇后の母、“橘三千代”の一周忌(天平6年-734年)の供養のためでした。


阿修羅像だけを創らせたのではなく、“西金堂”を建立し、

【興福寺境内-CG画像】

“西金堂”


お釈迦様とか、


お釈迦様の十大弟子とか、


四天王とか、


“八部衆”とか、


また、金鼓(こんく)と、“バラモン”とか、

バラモンが打ち鳴らす、金鼓の音を聞きながら、皆さん懺悔をするそうなのです。

28体の像が安置されていました。


“八部衆”の中の一人が、阿修羅様なのです。


さすがに、皇后様です、母の一周忌に、こんな立派なお堂と、沢山の仏像を建立したのです。

それで、光明皇后の母、“橘三千代”ですが、これが、何と、旦那の聖武天皇の母“藤原宮子”と腹違いの妹なのです。

血縁関係が、ごちゃごちゃしているのです。権力闘争は血縁を巻き込み、入り乱れ、親子で、兄弟で、激しく闘う時代だったのです。

そして、また、天平年間は災害や疫病(天然痘)が多発した時代であり、聖武天皇も、光明皇后も、仏教に深く帰依していたそうです。

そんな中での、一周忌の法要であり、西金堂の建立なのです。そして、西金堂は当時、唐からもたらされた『金“光明”最勝王経(こんこうみょうさいしょうおうきょう)』をもとに作られたと考えられているそうです。

“光明皇后”の、“光明”は、たぶん『金光明最勝王経』からつけられたと、推測しています。“光明皇后”は信心深い方だったようですからね。

それと、わたくしの名前も、お経の一部から付けられているのです。母の実家が天台宗のお寺なのです。

それで、『金光明最勝王経』は、懺悔、懺悔、懺悔で、沢山懺悔をして、過去の罪を悔い改め、お釈迦様に帰依する教えなのです。

親子兄弟でも権力闘争の激しい、陰謀渦巻く修羅場の時代、権力者は、懺悔、懺悔に、事欠かないと思います。

阿修羅、そして、“八部衆”の表情は静かに自分の心を見つめ、懺悔する姿なのでしょう。しかし、それにしても、何故に?“八部衆”は、青年の表情をしているのか?

阿修羅にいたっては、三面の顔が、10代~20代です。そんな若い時期に、懺悔をするような“罪”を犯したのでしょうか?

人間は生まれた時から罪深いの? 仏教は“性善説”ではなかった? けれども、当時の支配階級は、幼少の頃より罪深い行いをしていたのでしょうか?

阿修羅様は、ふつうの人間、ふつうの若者、そして、その若者が、憎み、恨み、悩み、苦しみ、そして、懺悔を繰り返し、そして、仏に帰依していく姿・・・・・・。


兎に角、造形的にも美しい阿修羅像です。


そして、わたしも、これから、すこしだけ、懺悔をしたいと・・・・・。


それでは、また来週。





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