ラジコたちの国で

 
 プラハの国立美術館でのこと。
 中学生くらいの子供たちが数人、私たちを見つけて、遠巻きににやにやと眺めながら、何かを囁き合っていた。私たちの行く先々を眼で追い、私たちが近づいていくと、「ラジコ!」と叫んで、パッと逃げ出した。

 “ラジコ”とは多分、放射能のことだろう。世界では日本人は、汚染された生物として、放射性廃棄物のように扱われるのだ。
 そう考えて、帰国後、“ラジコ”の意味を調べてみたのだが、チェコ語でradiation(放射線)はradiace、radioactivity(放射能)はradioaktivníで、ラジオの配信サービス名に“ラジコ”というのが見つかった以外には、分からなかった。

 もしかしたら“ラジコ”は、チェコ語ではないかも知れない。別の意味があるのかも知れない。私たちの聞き違えかも知れない。
 けれどもそれ以来、「放射能に汚染させられ、かつ、放射能で世界を汚染し今なお汚染し続けている国にありながら、そのことに向き合わず、なかったことにして、これまでどおりの生活で生きようとする日本人」のことを、私たちは“ラジコ”という言葉で表わすようになった。

 以前、海外でプレーするある日本人サッカー選手に対して、相手サポーターが、「フクシマ!」と野次ったことが話題になった。
 チェルノブイリ事故に関わって、ロシア人選手を「チェルノ!」と野次れば、それは不当だと思う。同じように、日本人を「フクシマ!」と野次ることも、おそらく不当なのだろう。

 だが、例えば自分が外国人から、「フクシマ!」と野次られたとしたら? 今の私にはそれを不当だとは言い切れない。それは、野次は野次だが謂われがあるからだ。そしてその謂われは正当だからだ。
 謂われというのは、日本という国は“ラジコ”であり、そこに暮らす日本人の多くもまた“ラジコ”である、ということだ。
 これは、単純な人種差別、思想・信条の差別などとは異なる。

 なら、“ラジコ”の国に生まれた人間は、どうやって誇りを持つことができるのだろう。“ラジコ”にならないことによってでしかないではないか。
 その人が“ラジコ”かどうかは、その人の選択の結果なのだから。

 画像は、チュルリョーニス「真実」。
  ミカロユス・コンスタンチナス・チュルリョーニス
   (Mikalojus Konstantinas Ciurlionis, 1875-1911, Lithuanian)
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