ヌード談義(続々々)

 
 画家の描くヌードには、その画家の嗜好や性癖のようなものが現われてくる。裸の女奴隷がうじゃうじゃとトルコ風呂で戯れる絵。中性的な少年が、決して媚態とは言えない微妙な微笑を投げかける絵。ヌードを描くに事欠いて、強姦や輪姦の絵すらある。
 ま、そんなのは、品性が問われるにしても、描く画家の自由に属する問題だから、とやかく言うつもりはない。

 けれど、絵が自己表現である以上、その絵には描き手の人格が現われる。しかも、性に対する価値観や両性関係には、その人の人格が最もよく現われる。
 とすれば、ヌードや性を描いた絵には、その画家のすべてが現われる、と言えなくもない。見る人が見れば、すぐに分かる。くわばらくわばら。
 ……世間じゃ、ポルノグラフィと同一視されさえするヌードだけれど、描く側としては、そう軽々しく描けるような代物じゃないと思う。

 かく言う私は、軽々しく描くつもりはないのに、ヌードのモデルがいなくて困っている。自分をモデルに描く場合、やっぱりポーズに限界があるもんね。
 で、坊をモデルにしようとして、引っ剥がそうとしたら、猛烈に抵抗されてしまった。

 画像は、カラヴァッジョ「勝利のキューピッド」。
  カラヴァッジョ(Caravaggio, ca.1571-1610, Italian)

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